赤い水たまり
魔法協会に戻ったソルシエールを魔女は微笑みで迎えた。
「ここは随分、街の中心にあるんですね。てっきり郊外の森にでも住んでいらっしゃるかと思いました」
「ああ、郊外にはダーチャがあるのよ。あそこに仕事は持ち込まないの。それに冬の間、仕事をするなら都市部の方が便利だもの。それにしても、いいタイミングで戻ってきたわね。お昼は食べれたかしら?」
「ええ。それで、ソリの所有者という方は?」
「ええ、すでにいるわ。さあ、ついていらっしゃいな」
「そういえば仲介料は?」
「後払いでいいわ」
ソルシエールは頷く。
後払いでも逃げられる心配がないのだろう。この人をぞんざいに扱える人間はそうはいないに違いない。それは彼女がそういう存在だからだ。
魔女に通されたのは、売り場の奥にある風変わりな事務所だった。
目に映る空間がねじ曲がっている。人の姿は見えないが、ささやかな話ごえがあちこちから聞こえる。たくさんの魔法使いたちがこの空間にはいるのだろう。輪郭がぼやけているとソルシエールが意識した瞬間、反射のように境界線は明確になり、場所が固定された。途端、人の声も聞こえなくなる。
「ふふ、ここがわたしの事務所よ。いらっしゃい」
魔女がゆったりと笑う。
大きな窓からやさしい午後の光が差し込んでいる。
その窓の外に見える光景は、どこかの森だ。
誘導された意識がたどり着いたのは事務所というよりは、どこかの家庭の居間のような場所だった。フローリングの床の上には、木製の本棚や柔らかい色合いのソファが置かれている。
そしてそのソファには、すでに二人の人間が腰かけていた。
「やあ、お嬢さん。こんにちは。君が我々に同行したいというお方ですかな?」
すっくと立ち上がったシルクハット、ネクタイ、モノクルにステッキという奇妙ないでたちの紳士が、片手を差し出しソルシエールに握手を求める。鷲鼻が見事な壮年の男性だ。その奇妙な口髭は、まさかお洒落なのだろうか。
「こちら、魔法使いのソルシエールさん。そして、こちらの紳士は、サン=ジェルマン伯爵よ」
魔女が紹介してくれる。
「……。……わあ」
ソルシエールはおそるおそる手を差し出す。
「こちらは、サン=ジェルマン伯爵の付き人をされているタチアナさんよ」
ついで、紳士の隣に付き添う燕尾服の人物を紹介される。すらりとした体格に、美麗という言葉がぴったりな顔立ちをしている。歳は二十前後だろうか。
なぜか、すでにどこかで会ったことがあるような気がした。
ソルシエールの頼りにならない記憶によるなら面識はないはずだ。
首を傾げる。
「付き人です。よろしく」
落ちついた声。
その目が、一瞬なにかを確認するようにソルシエールを見た。
握手を交わす。
細い手だった。
ソルシエールはその細さに、初めて彼女が女性だということに気がつく。
彼らはいったいぜんたい、奇妙な二人組だった。
格好を含めて、異質だ。
主人と使用人で揃いの服を着ている。それも、異様に時代遅れの服装を。服装に気を遣った事のないソルシエールですら気が付くくらいなのだから、下手したら半世紀は前の流行じゃないだろうか。
それとも格好が異質だから、なにもかも異質に感じるのかもしれない。
なんだか非常に、あやしい。
「そしてわたしは、ナターリアよ。よろしくね」
最後に案内をした魔女が自己紹介をする。その名前だけはたまらなく、しっくりと来た。
頭を振る。
「あら」
ソルシエールの反応を見て、魔女、ナターリアがいたずらっぽく笑う。自分存在がなにを意味するか、しっかりと自覚しているのだろう。
「さあ、ソルシエールもう一度話してちょうだい。どうして森に生きる獣の他には、凍った木々しかない白銀の森へ行きたいのか。あなたが探している人は、あなたにとってなんなのか」
ナターリアがぽんぽんと手を叩くと、ローテーブルの上にたくさんの菓子が現れ、たちまち甘い香りが漂ってきた。同じく出現した茶器からは白い湯気が出ている。
「行方不明になった赤ずきんは、私の友人です」
ソファに腰を下ろしたソルシエールはここに来るまでの経緯をかいつまんで説明した。全てを話し終えた後、ナターリアは心配そうにソルシエールを見つめ、
「そう、それは心配ね。見つかるといいのだけれど。それで、どうかしら、サン=ジェルマン伯爵」
と確認をとる。
サン=ジェルマン伯爵は鷹揚に頷いた。
その仕草は、大げさな時代劇のような優美さがある。
「いいとも。人探しに協力しようではないか。我々も氷の森の人狼族に用事があることだしな」
それから、なにかに感極まったかのように首をふるふると振るう。
「よし明日の朝に集合しようではないですか。場所は、そうだな。我々の犬舎でいいだろう。詳しい場所は後で教えるよ。どうですかね、魔女のお嬢さん」
「ええ、ちょうどいいです。どうぞよろしく」
「大切なご友人なのね。どうぞ早く見つかりますように」
やさしく微笑むナターリアに、ソルシエールは苦笑して答えた。
「彼の祖母から頼まれたからですよ。ただの仕事です」
魔法使い協会を出る。
昼を少し過ぎたぐらいだというのに、もう日が暮れかけていた。
ぼんやりと宙を見つめるソルシエールに、従者ことタチアナが声をかける。振り向くと、思った以上に近くに彼女がいた。たじろぐ。
「城が気になりますか?」
どうやらソルシエールが見つめていた方角に城があるらしい。似たようなおおきな建物ばかりで、どれがどれだか分からないが、ひょっとしてあの尖塔がちょろっと出ているアレだろうか。
タチアナの怜悧で中世的な美貌がどこか皮肉な微笑みを浮かべた。
「今代の王族一家が住んでいます」
「へえ」
「特に有名なのが氷使いの姫君で。四六時中城にこもっているんだそうです。なんでもちっとも笑わないんだとか」
「絹の布でも裂いてみたらいいのに」
ソルシエールの言葉にタチアナの仮面が崩れて、ふくふくと苦笑した。
「国が傾いてしまいます」
「はは、そうですね。伯爵についていかないでいいんですか?」
サン=ジェルマン伯爵は、その従者を置いていってしまったらしい。
タチアナは真顔でしれっと辛辣なことを言い放つ。
「ずっと一緒にいたら干からびてしまうので。いいんです。……それより、」
タチアナは少し言い澱み、それからニッコリと笑みを浮かべた。
「いや、なんでもないです。……そう、少し魔女さんと話をしてみたかった」
「私と? なんだろう、ありがとうございます」
ソルシエールは相手の感情を掴み損ねた。タチアナは、そのガラス玉のような透き通った目で、ソルシエールを見つめる。
その先になにを見ているのだろう。
「あなたの二つ目のお名前を伺った事があるもので。お会いできて嬉しいですよ。それでは、また明日」
その目を縁取る長い睫毛が上下に揺れた。
それから完璧な礼を披露すると、タチアナは去っていった。
「なんて礼儀正しい…………」
残されたソルシエールはぽつりと呟くが、それはそのまま雪に吸い込まれて消えた。
残されたソルシエールは、ゆったりと宿街へ向かう。
中心地をすこし外れたところに、安宿が集まっているらしい。
ナターリアからその地域はオススメできない、と言われていたが、進むに連れてその理由が分かってきた。
道の隅にちらほら人が転がっているのだ。
どこの国に行ったって家を持たない人はいる。人の集まる首都はとくにそうだろう。そういう人たちはとにかく身なりが貧しく、いやな匂いがしたりする。ブランシュ王国だって一時期は溢れかえっていた。しかし、どうもそういうのとは違う気がするのだ。
人間をやめている。
もはや、肉塊といった方が近いのではないだろうか。
生きているのか、いないのか。判然としない。
肉が、溶けているのだろうか。ぶよぶよにふやけている。もはや顔の判別もつかない。ただ、それとなく察した年齢は皆若いらしく、中には少年もいるようだ。そして、不思議なことに、腐った肉特有の香りはしなかった。代わりに、ほんのりアーモンドのような甘い香りがする。
寒いおかげなのかもしれない。きっと、春になって暖かくなったら恐ろしいことになるだろう。
その前に、彼らは夜を越せるのだろうか。褪せた色の毛布に包まってはいるが、とても暖かそうには見えない。
途中、ソルシエールは思わず足を止めてしまった。小さな広場の端に飾られた彫刻の陰に、隠れるようにして顔の崩れた男が蹲っていたからだ。その手にはクズ板に『お腹が空いた』と書かれていた。小銭を通行人に求めているのだ。かすかに残った頭頂部の金の髪が、赤ずきんを思い起こさせた。
彼がその身を隠す彫刻は、少女をかたどったものだった。彼女は夢を見るように上を向いている。まるで悲惨な現実から逃避しているようだ。台座には『革命を生き延びた姫君』と題名が付いていた。
「自分から記憶を手放したのさ」
「え?」
「クスリだよ」
声がかかった。
すぐ近くで雪かきをしていたおじさんだ。彼はシャベルを動かす腕を止めると、ソルシエールに説明する。
「お嬢さん、観光客だろう。最近この街ではクスリに酔う人間が多いんだ。記憶を失う代わりに、この世のものではないほどの快感を感じるんだそうだよ。あんまり近寄りなさんな」
「依存性がたかそうですね」
「依存性ってなんだね?」
「止めたくても止められなくなる、って事ですよ」
男性は肩を竦めた。
「そりゃそうさ。じゃなきゃこんなになるまでやらない。カラダがどんどん溶けていくんだ。それから、昇天さ。まったく死体を放置するわけにもいかないし、困ったもんだよ」
「ああ。死体があるだけで治安が悪化してしまう」
「そうなんだよ。それに朝になると、水たまりみたいになって凍りついてるんだ。酒に悪酔いした人間の凍死体の方がまだマシだな。人間の形をしているから」
「大変だなあ」
「そうだろう、そうだろう。最近この街は変なんだ。人はちょくちょく姿を消すし。まったく」
はあ、とため息をつくと、男性はソルシエールをまじまじと見つめ、それからにや、と笑った。
「なあ、お嬢さん。旅行客だろう。一杯、どうだい? いい酒場を知っているんだ。案内するよ」
ソルシエールは肩を竦めて笑ってみせた。
「遠慮しておきますよ。凍え死にたくないので」
宿を見つけることに成功したソルシエールは、部屋の扉がしっかりと閉じられていることを確認すると、ベッドの上に足を組んで座る。
扉が閉じられているとはいえ、安普請なためそこら中から隙間風が吹き込み、風が吹くたびに窓がガタガタと揺れた。
「おもしろい魔法なのに。なんで兄さんは習いたがらなかったんだろう」
端がほつれた白いシーツ。
ダニがいなさそうなのは幸いだ。
それを汚すのは忍びなく、代わりにチョークで床に大きな魔法陣を描く。
さらにその上にころころと丸いチョコレート菓子やら、真っ白なバラやらを撒き散らす。
そしてベッドの上に戻ると、呪文を唱えた。
「『風よ、言の葉をどうぞ届けて』」
さあ、大変なのはここからだ。
ぎゅっと手を握る。
「『命を宿す者よ、お茶会をはじめましょう』」
魔法陣から妖しい光が浮かび上がる。
次の瞬間、その魔法陣からネズミの大群が飛び出してきた。
あっという間に部屋を埋め尽くしていく。
ソルシエールは、魔法の負荷を強めた。
身体中の細胞が自らの居場所を見失ったかのように、悲鳴をあげる。
けれど、魔法が功を奏して、ネズミの勢いは徐々になくなり、ソルシエールは窒息死をすることを免れた。魔法が完全に収束した時、ベッド以外はネズミの黒で一面が覆い尽くされていた。
部屋の中はカビ臭い地下のような、獣臭い香りで満たされている。
仮にも宿だ。後で掃除をしよう。
ソルシエールは心に決めた。
「さあ、君たちの記憶を見せて欲しい。『どうか私を導いて』」
指を弾く。
ソルシエールはネズミの記憶を自分の脳に共有させる。
ネズミは人間の言葉を理解しない。人間もまた、ネズミの鳴き声の意味を理解しきることはないだろう。その点で、ネズミと人間は世界を共有しない。
しかし、人間の見ているものをまた、ネズミたちは同じように見ている。
彼らのモノの見え方が人間と違うということはない。たとえば人間が三角の形をしたものを見た場合、ネズミにはそれが丸や四角に見えるということはないだろう。もしそう見えたのなら、別の角度から見たせいか、距離がちがうせいだ。人間から見た三角はネズミにも三角に見えるのだ。
ソルシエールはネズミたちの『見てきたもの』が記憶化されたものを、一つずつ紐解いていった。
記憶の細切れが、ソルシエールに流れ込んでくる。
彼らのような小さな生き物は、それほど複雑な防壁を持っていないので、記憶魔法が使用しやすい。ネズミ以上に魔法の使用が簡単なのは虫だろう。しかし、ソルシエールは虫がきらいだった。
記憶の中から赤ずきんやアルチュールの姿、『スミノロフ商会』のものらしいものを探す。
時間が刻々と過ぎていく。
切れそうになる集中力を懸命に引き戻し、ソルシエールは記憶の中を探索した。
そして、ついに見つける。
「 あった」
その口が得意げににんまりと弧を描く。
しかし、それもつかの間。
への字へと変化した。




