始まりの物語
とある国とその隣国を跨ぐようにして針葉樹が広がる大きな森がある。その森にいつ頃からか、一人の魔女が棲みついていた。
『黒い森の怪物』と呼ばれる魔女だ。
その一人歩きしている名前の知名度のわりに実態はあまり知られておらず、素顔を知らない人々は老齢の女性を想像している。『あの魔女は人を喰い殺す』に始まる、いいんだか悪いんだか分からないさまざまな噂も出回っている。もっとも、腕だけはいいらしく、その腕を買って国の王族も愛顧しているのではと一部では噂になっている。それもまたごく一部の話だ。
名前をソルシエールという。
実態は、黒いローブを何着も着まわしている、見た目のほとんどが黒で覆われた魔女の青年だ。愛顧というよりは、依頼という名目で王家にこき使われ、東西南北走り回っている。知る人ぞ知る偏屈な魔女だ。
彼女は森の端の捨て置かれていた小さな納屋を改築し、王家から頼まれた仕事をこなすほかに、そこにやってくる客を気が向いた時だけ、相手をしていた。そうして大抵は気の向くまま、まるでのんきな野良ネコのような生活をしているのだ。
今日も今日とて、魔女は自分が暮らす二階建ての粗末な木造の小屋で、眠りこけていた。太陽が真上に登ったころにようやく目を覚まし、枯れ枝と変わらないくらい細く小さい体を引きずるようにして起き上がると、鏡を覗き込み、申し訳程度に短い黒髪を撫で付け、キッチンのある階下に降りる。
降りるのに合わせて、木製の階段がぎしぎしと音を立てた。
一階にあるキッチンから漂う食べ物のかぐわしい香りが、ソルシエールの鼻をくすぐる。どうやら、階下で料理をしている人物がいるらしい。そんなことをする人間の心当たりはソルシエールには一人しかなかった。
「わあ、いい匂いだな」
「おはよう、師匠!」
ソルシエールの言葉に、調理をしていた少年がフライパンごと振り返り、にこにこ応えた。彼が着ている深緋の外套が遠心力でふわりと膨らむ。きっと家に入っても脱がずに、すぐさま料理を作り始めたのだろう。
せっかちだな 。ソルシエールは苦笑する。
「お昼ご飯作ったよ。食べてね」
中身を傾けて見せると、フライパンを木べらでかき混ぜる。
「私はあんたの師匠じゃないってば」
「はいはい」
少年は火を止め、皿に料理と盛り付けた。てきぱきとしていて手際がいい。
横からその作業をぼうっと見とれていたソルシエールの胃袋が音をたてた。
ところで、と少年がふくれる。
「それより挨拶してくれないの?」
しおれた犬みたいな顔をしてみせるので、
「おはよう。私の宝物」
ソルシエールは寝ぼけ眼をこすりながら、腕を持ちあげ、少年の柔らかい金の髪をそっと撫でた。彼はすぐさまうれしそうに破顔すると、
「おはよう、師匠。お昼だけどね!」
と挨拶を返す。
彼は赤ずきん。森近くの街に彼の祖母と住んでいる猟師の少年である。出会った時からソルシエールを慕ったり、『師匠』と呼ぶ奇妙で奇特な少年で、なぜかこうして暇ができると小屋にやってきては雑談をしたり、気が向かないと食材を生のままで齧るような魔女のために、せっせと料理をしたりするのだった。
「あのさ、いつも言うけど、わざわざ料理作ってくれなくても…」
「でも、師匠。おれの料理すきでしょ?」
「うん」
「ならそれでいいじゃん、それよりご飯食べようよ」
その言葉にソルシエールは流されるまま、二人は食卓に着く。
「じゃあ、代わりにしてほしいことはある?」
半熟のオムレツをフォークでつつきながら、ソルシエールは向かいの赤ずきんに尋ねてみた。彼は、おかしそうに笑うと、
「そんなに気になる?」
その言葉にソルシエールはボリボリと頬をかいて頷いた。
「そりゃあ、まあ」
「どうしてさ」
「君みたいな変わった子に、ご褒美をあげようという魔女のやさしさだよ」
けけっと皮肉げに笑ってみせたというのに、赤ずきんの方はまるで世紀の大事件に出くわしたかのような感動した面持ちで、その碧い瞳をキラキラさせた。
どうしてそんなに純真そうな目ができるのか。そのまぶしさにソルシエールは慄く。
「タダが大すき、客相手にはびた一文値切りを認めない師匠がそんな事を言うなんて!」
「ひどいな。まるで人を守銭奴みたいに」
心外だ、と嘆息する。
赤ずきんが手を止め、まじまじとソルシエールを見つめた。
うろんな目に、ソルシエールもテーブル越しに見つめ返す。
「…なに?」
「…もしかして、自分のこと、そうじゃないって思ってる?」
「あのね、ムダなお金を使わずに、慎ましい生活を送っている人間のことを、倹約家っていうんだよ」
しれっとソルシエールが返して、口の中にオムレツを放り込んだ。
「わあ。おいしい」
混ぜ込まれたきのこがアクセントになっていて、噛むたびに深いうまみが口の中に広がる。赤ずきんは、頬を緩ませたソルシエールに呆れたように、小さく肩を竦めた。
「今日は何するの?」
「ああ…、なんだっけ…」
ソルシエールは回らない頭を動かして、一日の予定をなんとか脳の隅から引っ張り出す。
「王宮に呼ばれていたな、そういえば」
「へえ、なん時に?」
「……。…朝?」
「……」
「ちょっとぐらい遅れても大丈夫じゃないかな」
「そうかな」
ソルシエールも赤ずきんも釈然としない顔をした。
赤ずきんはともかくとして、ソルシエールの方にだってそうなるワケはある。
普段なら、半刻くらいは起きる時間も早いのだ。
それでもこんな時間に起きることになったのは、最近やたら王がむずかしい注文ばかり寄こしてきたからだ。そのせいで仕事が立て込んで、眠る時間がなかった。おかげさまで最後の方は野菜と人の区別がつかなくなったくらいだ。おいしそうに茹で上がったブロッコリーが話しかけてきた時には、どう食べてやろうか思案したものである。
それが昨日ようやく一段落ついて、睡眠時間も確保できたことを、依頼した王だって分かっているはずなのに、朝に来い、と連絡を寄こしたのだから、ただの嫌がらせである。惰眠を貪るのが好物のソルシエールにとって、こき使おうとする王は天敵と言ってもいい。
ソルシエールは心の中で、あのふさふさの髪の毛が全て抜け落ちてしまえばいいのに、と呪った。
「王妃のお茶会には行くから、どうせそこで会うことになると思うし」
「そっかあ。仲良し夫婦だもんね」
庭で採ったカモミールが香る茶の入ったカップを無気力に見つめながら、自分を招待した王妃に想いを馳せた。
王と王妃が仲睦まじいのは有名な話だ。
嫉妬ぶかい王はなにを危惧しているのか、ソルシエールが王妃に目通りするときは、かならず、見張るように彼女のそばにいるのだった。たぶん、それもソルシエールに対する嫌がらせなのだろう。つくづく、イヤミな王である。
「赤ずきんは?」
「それがね」
赤ずきんがうれしそうに笑う。
「最近ここ一帯の畑を荒らしまわっていたクマ、仕留めたんだ。肉はもう卸たから、午後は皮をなめすんだ!」
「おお、それはすごい」
赤ずきんはなんでも器用にこなしてしまうな、とソルシエールは感嘆した。
食事を終えて、二人分の食器を手早く洗う。それから、玄関横のハンガーポールにかかっている真っ黒なローブを羽織り、壁に寄せかけていたホウキを手にした。
家の外までわざわざ赤ずきんが見送りに来てくれる。
「首都まで二時間くらいだっけ」
「そうだね。ホウキだから早い」
「お茶にちょうどいい時間だね」
赤ずきんの言葉に、甘いものに目がないソルシエールの頬がだらしなく緩んだ。王妃がくれるお菓子はおいしいのだ。
「ねえ、師匠、さっきのことだけどさ」
その様子を見た赤ずきんが呼びかける。
「うん? ほしいもの、見つかった?」
「うん。ほしいものっていうか、…もし、次に仕事の依頼で遠くに行くことになったらおれも連れて行って」
深く考えずにソルシエールは頷く。
「いいけど、どうして?」
「久しぶりに旅行に行きたいんだ…、いいでしょ? 昔はいっしょに色んなとこ連れて行ってくれたじゃない」
「いいよ。了解」
赤ずきんがソルシエールの仕事を手伝ってくれたことはあっても、邪魔をされたことなんてない。赤ずきんがこの上なくうれしそうにしたので、ソルシエールもついほほ笑んだ。
ホウキにまたがると、ふわりと浮き上がり、足先が地面から離れる。そしてゆるゆると空へ上昇する。下では赤ずきんが手を振っていて、眼前には青い空がどこまでも広がっていた。