ストレス
カラカラと小気味良い馬車の音が止まり
豪奢な邸の前で停まった。
馬車を待ち構えていた執事がその扉を開く。
さっと足置きが置かれ、中から艶々サラサラストレートヘアの美少女が降りてきた。
スカートを摘み降りてくる所作だけでも洗練されたものと分かる。
ワンピース型の服の上にリボンが付いたボレロを着ている。袖にはミルヒシュトラーセ学院のエンブレムが刺繍されている。
学院の制服を、纏っている彼女は右手に学生鞄を持っていた。
「あ゛ー…。今日も疲れた〜…」
鈴を転がしたような綺麗な声は間もなく夕陽が沈みかけていた空に消えていった。
◇
バンっと開け放った扉は何度となく壊してきたものだ。今やかなり補強されたそれはちょっとやそっとじゃ壊れない。
ドスドスと音がしそうなほどに歩き、部屋の中央で手に持っていた鞄を放り投げた。
緩い放物線を描き、ドスンっと普通の鞄とは思えない音を立てて床に落ちた。
「はぁ〜…。あんっのクソ眼鏡、ほんっっとムカつく。思い出しただけで殺意が湧くわ…。アンネ、着替えたら隣の部屋に行くわ。」
制服のワンピースを脱ぎながらお茶の準備をしていたメイドに声を掛けた。
「畏まりました。湯浴みの準備も致しましょうか?」
「そうね。お願い。」
「お嬢〜。せっかく作ったアレ、壊さないで下さいよ〜。壊したら後始末も大変ですからね〜。」
「…善処はするわ。ああ、でもあの顔を思いだすだけでもムシャクシャするー!手加減できないかも。」
ワンピースを脱ぎ捨て、間延びした話し方をした侍女カンナに応えた。
「今日も何か言われたんですね〜。また後でお話し聞きますから〜。」
「ええ。絶対聞いてもらうから。あのクソ眼鏡、ハゲればいいのよ。」
「お嬢様……」
お茶の準備をしていた侍女アンネは私を残念な目で見ている。でもしょうがない。ムカつくものはムカつくのだ。
動きやすい服装に着替え、隣の部屋に移動した。
「さて。今日は何からしようかな。」
この空間はトレーニングルームと名付けている。この世界では馴染みのない運動器具を所狭しと置いている光景はさながらスポーツジムのようだ。
私は幼い頃から前世の記憶があった。ラノベよろしく高熱を出し突然思い出したというわけではない。物心つく頃にじわじわと思い出し、前世の自分と今生の自分が融合した感じだ。それに、この世界が前世に楽しんでいた乙女ゲーの世界に酷似しているのも理解している。そして自分の立場も。
「とりあえず腹筋からかな。っと、手袋外すの忘れてたわ。」
部屋を見渡し、フラットベンチに腰掛ける。脱いだ手袋はその辺に投げた。
腹筋を終え、サンドバッグに向かう。それに向け、渾身の一撃を打ち込んだ。
ドスっと音を立て、上から吊るしたサンドバッグが勢いよく揺れた。
「あのクソ眼鏡!!セクハラにもほどがあるわ!気持ち悪い!ネチネチネチネチ!くそウゼぇ!!殿下も何か言えよ!表情筋死んでんのか!!」
愚痴を言いながらサンドバッグを殴ったり蹴ったりした。その度にギィギィと揺れる。
「くそムカつくーー!!いつかハゲろーー!」
叫びながら渾身の一撃を入れた。ガスっと音を立てたサンドバッグは上から落ちた。見ると上から吊るしていた紐が切れていた。
◇
一通り、運動という名のストレス発散をした後湯浴みをしてアンネが入れてくれたお茶を飲んでいる。
「お嬢〜。やりやがりましたね。」
「うっ。今回は紐が切れただけじゃない。今度はもっと頑丈な…そう、鎖に変えれば切れないわ。」
「はあ〜。そうですね、次は鎖で吊るしときます〜」
「それで?今回はどのようなことがあったのですか?」
「そう!聞いてよー、アンネ!」
お茶をサーブしつつこちらを見たアンネはやれやれといった顔をしていた。
「あのクソ眼鏡、今度はセクハラ発言かましてきたのよ!ほんっとーに気持ち悪かったわ!!あれは絶対ムッツリスケベだと思うの!クソ眼鏡に加えてムッツリスケベよ!?最悪だわ。あんなの側近に置いてる殿下の気持ちが分からないわ!殿下も殿下で何も言わないし!相変わらずクスリとも笑わない。表情筋死んでるのかしら?」
クソ眼鏡の愚痴を聞いてもらうつもりがつい殿下の愚痴も混ざってしまった。
幼い頃から婚約関係にある殿下は表情筋が死んでるのかと思うほど笑ったところを見たことがない。夜会などの儀礼的な場でも微笑んだことはなかった。それに加え、寡黙でなにを考えてるか分からない。人畜区無害と言えなくはないが、いかんせん自分の婚約者だ。読めない表情に無口というのはこの10年でジワジワとストレスになっていた。
「これから一生あのクソ野郎と付き合って行かなきゃなんないなんて…。いつかハゲちゃう…。」
この国の皇太子殿下、ユージーン・ゾンネ・リントヴルムと婚約している私は彼の側近であるクソ眼鏡ことシュッツエ公爵家嫡男のエルンスト・シュッツエと何かと付き合っていかなければならないのだ。それだけでもストレスなのに学院に入学してから輪をかけてストレスの種が増えた。
「それにね、あのクソ眼鏡、私に悩みの種押し付けてきたのよ!なんで私があんなピンク頭の対応しなきゃなんないわけ?!あんたらでどうにかしろって思うんだけど!?」
「あ〜、例の頭の中身も外もピンク頭ちゃんですね。」
「そう。あれはもう頭がおかしいレベルを振り切ってるわ。極力関わるの避けてるのに無理矢理難癖つけるわ、殿下に付き纏うわ、特別科ウロウロするわ、何がしたいのよ。今日の妄言はマジで引いたわ。」
「何を仰ったんですか?」
「私がいるから殿下を攻略できないとか言ってたわね。あと、殿下と結婚するのは私なの、だから婚約破棄して!って叫んでたわ。そんなに攻略したきゃ、私なんか無視して攻略したらいいのに。」
「それは…絶対無理でしょ〜。」
「まあ、上流階級の者だったらあんな発言死んでもできないでしょうね。でも彼女は普通科の平民だから言えるのかも。」
そう言いながら私は右手に刻まれた紋様を眺めた。
赤く薄らと浮かぶ紋様は殿下と婚約を交わしたときに刻まれたもの。竜人を始祖にもつこの国の受け継がれし皇族は将来の伴侶になる者へ竜紋を刻む。そうすることで婚約破棄はおろか、婚姻後は離縁もできなくなるのだ。だから相手は慎重に選ぶ必要があった。月の加護を持つモーント公爵家の長女である私は太陽の加護を持つリントヴルム王家のユージーン殿下と魔力の相性が非常に良い。それはもう魂レベルで。だからと言って気持ちが伴っているかと言われればそれはまた別の話だが。ともあれ、そういう経緯で私は殿下の婚約者になっている。
上層部では周知の事実だが、平民ともなると皇族の婚約がどういう意味を持つか知らない者が大半なのだ。もちろん、乙女ゲームのシナリオはそんなエピソード何処にも存在しない。ユージーンが攻略対象ではない上にヒロインが平民だったから。ヒロインは平民には珍しく魔力を持っていたし、成績もなかなか優秀だ。それなのに何故攻略対象でないユージーンを墜とそうと躍起になってるのか謎だった。
「それで、殿下に四六時中付き纏ってて。それを諫める役目は婚約者のあなただ、とかクソ眼鏡が言いやがるの。なんで私なのよ。自分で何とかしなさいよ。何も言わない殿下も悪いけど、側近のクソ眼鏡が一蹴したらいいじゃない。」
「なるほどね〜。お嬢、目には目を〜じゃないですか!嫌な者には嫌なものをぶつければいいんです!」
「……!カンナ、良いこと言うわね!そうよ!アレをぶつければ良かったのよ!そうすれば一石二鳥だわ!いや、一石三鳥ぐらいかも……!」
「…面白いことになりそうですね。」
「アンネもそう思う?早速明日から根回ししなくちゃ!」
鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌になった私は夕食を取るためにダイニングルームへと向かった。