手は上げられません
人差し指を唇にあて、わたしは唸っていた。視線の先にあるのは床に敷き並べた冬物と春物の洋服。
ちょうど今の時期は季節の境目で外気温の変化が激しく、どちらを着るか迷うところだ。 携帯からの着信音が響いた。わたしが慌てて携帯を開くと、表示されていた名前は彼氏の哲平からだった。
瞬間的にマズイ!! と思った。しかし、電話してきた哲平を無視できない理由があった。わたしは苦々しい顔をして通話ボタンを押す。
「もしもし? ねえ、なにやってんの。待ち合わせ三十分も過ぎてんだけど、とりあえず今どこにいんの」
さて、自宅で服を選んでいるわたしの言う台詞は決まっている。
「え〜ごめんごめん。ちょっと事故で電車のダイヤ乱れちゃって、でももうすぐ着くと思うよ」
哲平はなにか言いかけたが、わたしは何の躊躇いもなく通話をバッサリ切った。
一時しのぎだが、これでいいだろう。
とはいえ、急がなければ。電車に乗ったということは、まもなく目的地につかないといけない。猶予の時間はそれほどない。
わたしはノースリーブの服を着て、軽く化粧をしただけで外へ出た。
駅前近くのとある洋菓子店は、お持ち帰りだけではなく喫茶店もかねていた。平日の昼間だが、幾度となくコンクールで賞を取った天才パティシエの名は、近隣女性達に轟いたようで、二十あるうちの座席の半分以上が埋まっていた。
「ほらほら、やっぱり雑誌に載っていた、このミルフィーユ、すっごいおいしいね」
わたしがそう話しかけても、向かいの席の哲平は無言だった。整った顔立ちを憂鬱に染めて、頬杖を突いている。絵になるその姿は傍から見れば目の保養になるが、彼女としては居心地が悪い。(根本的に悪いところが他にあるが)
「ねえ、何か言ったら」
哲平はため息をついて『本当にいいの?』という目つきをした。わたしが促すように水平にした手の平を見せると、彼はようやく薄く冷たそうな唇を開いた。
「じゃあ言うけどさ、あの電話、絶対嘘だよね。だってさ、電車乗ってたら、もっと早く着いていたと思うし。ていうか、ホームにいたらざわめきとかアナウンスとか、もっと聞こえてくるでしょ。俺さ結局、小一時間とか待って――」
これだ。小言がうるさい。確かに言っていいと言ったのは自分だけど、男が細かいことにぐちぐち言いやがって。
が、三十二歳のプライドをかなぐり捨て、友人のツテを使い、やっとこさ手に入れた二十歳の超ウルトラ、スペシャル、ミラクル美男子を手放してたまるもんですか。
入店時に色めいた歓声をあげた女性客たちは、剣呑な雰囲気を察してか、周りの目が期待に輝いている。あわよくば、狙えるとでも思っているのだろうか。
――絶対に渡さないからな。
「ごめんごめん。でも忘れていたわけじゃなくて、本当に」
「あーわかったわかった、もういいよ。それよりさ大丈夫? 化粧とかなんかあまりしてないみたいだし、もしかして鼻毛とかでてないよね。俺そんなの嫌だよ」
「やだ、そんなわけないじゃ」
……? 体に妙な違和感を感じた。いや、鼻ではない。自分の脇からだ。なんだろう、このやけにモサモサしてるのって。
わたしは固まった。どうやら、とんでもない爆弾を脇に引き連れたままらしい。もちろん哲平の眼前で確認などできるはずもないが、およそ四センチ弱の密集体だと思われる。 そうか、最近冬物ばかり袖を通していたから、脇の処理を怠っていたんだ。デートも二週間ぶりだったし。
「なんか、顔青ざめているけど、どうしたの? もしかして、本当に鼻毛でてたとか。あっ、それとも俺?」
有り難いことに哲平は自分の鼻を気にしだした。
いや、それよりも哲平、脇毛ボーボーの年上女ってどうだろう。わたしは聞いたことがないけど。
ああ、そういえば、来る途中、手を上げてタクシーを拾ったとき運転手がめちゃくちゃニヤけてたわ。あの時は失礼で嫌らしい奴だとか、本社に苦情を言ってやるとか思っていたが(あっ、すでに電話した)これが原因だったのか……ぐはあ!! 思い返すとダメージが、なんだ、この時間差は。
くっ、9999はいきやがった。
でも哲平にこれを見られたら、瀕死どころじゃない、即座におだぶつだ。
「哲平、ごめん。わたし知り合いに電話しないといけない用事があって、ちょっとお店でるね。あんまり聞かれたくないの」
哲平はわたしに聞き返してきたが、わたしは一切無視した。自動ドアが開かれると、外気の冷ややかな空気と太陽の熱がアンバランスに触れてくる。
わたしは携帯で電話するでもなく通りを歩いた。あてもなくということはなく、ちゃんとした意図を持ってだ。
「あいたっ!!」
わたしは遠くの建物を目にしていたため、ヘルメットを被った男とぶつかった。どうやら、今しがたバイクから降りて、鍵をかけるために通りに入ったようだ。
茶色の封筒のようなものが、ヘルメット男から落ちた。金属音がしたので壊れたとは思えないが、わたしはおどおどしながら謝って拾おうとした。
「触るんじゃねえ!!」
いかつい声でヘルメット男が怒鳴った。あまりの声量にわたしは驚いたが、ヘルメット男は封筒を拾って小走りでその場をあとにした。
「なにも、あんなに怒らないでも」
かといって、悠長に怒りを溜め込んでいる場合ではない。わたしは気を取り直して、早足である場所へと向かう。なじみのない土地だが、来るときに一軒だけ居場所を覚えている。歩いて五分ばかりして、洋菓子店とは違う自動ドアを開く。
「いらっしゃいませ〜」
牛乳のマークをシンボルとしたお店、そう言わずと知れた、某有名コンビニ。制服に身を包んだ店員がわたしに挨拶する。
わたしの歩行ががぜん速くなり、行き着く売り場は、生活用品のコーナーだ。ざっと並んだ商品を目の前にして、探す探す探す探す、探す探す、探す……探す……ない。な〜い。ないよ〜。どうしようと思う前に、わたしはすでに声を張り上げていた。
「すみません!! あの、髭剃りはどこですか」
ビクッとした店員がレジからやってきて、わたしと同じように陳列商品を見やった。
「ああ、そうだった。すみませんお客様。ちょっと発注ミスで今は品切れですね」
絶望だった。ただただ絶望だった。店員は何気ない様子で背中を向けていってしまった。そりゃあ、あなたにとっては単なる髭剃りだろうけど、わたしにしてみれば運命の赤い糸を繋ぎとめるための、今となってはマスカラや口紅、可愛いキャミワンピよりも、女を女たらしめる至上のアイテムなんだよ。
しかし、どんだけ心の中でわめき散らしたところで、状況は変わらない。
代用として、カッター、ハサミ、駄目だ危ない。ハサミは完全に刈り取れないし、カッターは下手したら脇が血だらけでデートすることになるかも。仕方ない、ここはもう一軒探そう。
前向きだった心をへし折るかの如きメロディ。電話がかかってきた。名前は――哲平だ。
「てめえは、どんだけ、一人で待つのが嫌なんだよ。十分も待てねえのか。餓鬼じゃねーんだぞ」
レジ横にいた店員が再びビクッとした。
もう二度とこの店には来れないな。わたしはそう確信した。
電話にでて小言を言われるのは嫌なので、とりあえず電源ボタンを押して強制終了させる。わたしは早々と店をでて、洋菓子店に戻ることにした。
まあ、デートしている最中にどっか売ってそうなお店ぐらい見つかるだろうから、それまでは手を上げないように我慢しよう。神経を使うので嫌だが、もうそれしかない。
戻る道すがら、横断歩道で青信号を待つ幼稚園の群れがあった。わたしも反対側に渡らないといけないので、その群れに加わらせてもらった。どうやら、ちょっとした散歩のようで、三人の若い保母さんが目を光らせ園児たちを統率している。
それにしても、ウロウロした気に体を揺すっている子供、口を半開きにして車を眺めている子供、なんかめちゃくちゃ可愛ええ。もし、これで脇がぼさぼさな状態でなければ、声をかけて撫でていたものを。
「はーい、信号が青になりましたよ」
引率の先生が後ろから園児たちを追い立てる。細々(こまごま)と群れが動いていく姿は、何だか微笑ましかった。
「はーい、皆さん、じゃあ、手を上げてくださーい。脇を見せるくらい、しっかり高く上げるんですよ」
わたしの微笑が引きつった。心に待ち針を刺されながら、それでもわたしは歩くのを止めなかった。
不意に一人の園児と目が合った。彼はわたしの方向を指さした。
「先生!! この人、手を上げてないよ」
この人? どこの人のことだ? 後ろを振り返る。誰もいない。
あっ、この中で部外者は一人しかいない。つまりわたしか……。
引率している保母さんが、こちらを見やった。わたしは汗だくで、ぎこちない笑みで応じる。すると向こうは明らかにお願いしますみたいな会釈をした。
もちろん、無理。
「すみません」
そう口にするのが精一杯だった。すると、わたしが手を上げないことを知った園児たちは、ついに騒ぎはじめた。
「お姉ちゃん、手を上げないといけないんだよ。だって危ないんだよ」
「警察の人が、ちゃんと上げてって、幼稚園まできたんだよ」
「大人なんだから、ちゃんとやって」
「吟じます。手を上げてえぇぇぇー、あれっなんだっけ」
うおおおお。餓鬼がピーチク、パーチクさえずりやがって。天国から地獄とはこのことか。たかだか十数歩の路面が灼熱に変化した。保母さんは騒動を止めようとしているが、もはや焼け石に水だった。
反対側についた瞬間、幸いなことに群れの一向は、わたしとは逆の方向へ進路をとった。
自ずとため息が漏れる。
まるで長い長い苦行を経たような気分だった。まさか園児たちから説教を喰らうとは。天使どころか、魑魅魍魎にしか見えなかった。
ああ、それにしても、こんな弊害が起こるとは予想外だ。たかだか手を上げられないばっかりに、こんな仕打ち。今日一日続くのかな。気にしすぎて脇汗もかきまくりだよ。デオドラントスプレーも必要だな。
再びため息。
ところが、だ。神様はそんなうつむき加減のわたしに救いを与えてくれた。ふと、上を見上げたところに、三階建てビル、その二階の窓にドラッグストアの文字が。
まさしく奇跡。
そうか、行きの頃はコンビニばかり見ていたから、気づかなかったんだ。
五分が経ち、わたしはレジ袋をさげてドラッグストアからでてきた。例の品は難なく入手した。
問題はまだ解決していないのに、なんだか清々しい気持ちだった。あとは洋菓子店のトイレでことを済ませるだけだ。
「ドラッグストア、ポイント五倍デーだったし、意外と今日はツイてるかも」
もはや、気分は絶好調。先ほどのことなど何のそのだ。哲平に謝らなければいけないという気の余裕すら生まれた。
店をでて歩道に戻ると、洋菓子店はそう離れていない。だが、目前に迫ってから、気づいたことがあった。
わたしはビニール袋を捨てて、髭剃りをポケットに、デオドラントスプレーを胸の谷間にねじ込む。考えてみれば哲平には電話してくると言ったのだから、こんなものを手に提げていたらおかしい。適当にごまかせないこともないが、それが脇毛のための弁明だと我に返ると気分的に嫌だ。
あとの細かいことについては、厄介な爆弾を取り外してから考えればいい。そうだ、それが一番の重要課題。切除さえすれば、万事うまくいく。
気分が高揚しつつ、洋菓子店前に立つ。
哲平、わたしは女として再び甦るわ。
黙々と妄想を膨らまして、わたしは自動ドアを開いて洋菓子店に入った。
店のケーキが入っているショーケースの前に、ヘルメットをつけた男の背中が見えた。どこかで見覚えがある後ろ姿だった。そして、わたしの気配に気づいたヘルメット男が、突然として振り返った。
「手を上げろ!!」
ヘルメット男が拳銃の銃口をわたしに向けた。
わたしは理解に努めようと、まずレジの店員を見た。女性店員の彼女は青ざめながら、金を布袋に入れている最中だった。奥の喫茶スペースを見やると、客の全員がテーブルの下に伏せている。
なるほど悪ふざけではないようだ。
大勢の視線が銃口を向けられているわたしに注がれている。わたしは振るい分けるようにして哲平とだけ目を合わせる。
哲平は自分が持っている電話を指さしていた。形相が羅刹のようだった。たぶん、あの電話はわたしが来ないようにするための電話だったのだろう。やばい、ちょっと愛を感じてしまった。
「てめえ、さっきからボケっとしてんじゃねえよ。ちゃんと聞いてんのか。ああ!? お前、さっきぶつかった女か。人の邪魔ばかりしやがって。まあいい、さっさと手を上げやがれ」
ヘルメット男が顎をしゃくり、これが最終警告だと合図しているようだった。わたしは視線を泳がせて哲平を見た。整った顔立ちが、緊迫によって雄々しい顔に変わっていた。 嫌だ。哲平が見てる、嫌だ。他の人に見られるならいいけど、哲平だけには見られたくない。それだけは本当に嫌だ。いやだ……
「手は、あgsらeemeん」
「ああん!! 何だって女、お前、今何て言ったんだよ。ちゃんと喋りやがれ」
わたしの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
「手ーわあァァァァ! あげられーぇぇぇませんンンン!! 絶対にぃぃぃー、上げません!!」
店内を大声が埋めつくした。そして、わたしの荒い鼻息が聞こえるほどの静寂が訪れた。ある種の冗談みたいな空気が店内に流れる。周りの人間が、糸の切れた人形のようにピクリとも動きやしない。
しかし、それも長くは続かなかった。ヘルメット男が白昼夢から目覚めたのか、首を左右に振った。
「ハッ、ハハッ。上等だよぉ、おんなぁぁー。そんなに言うんだったら、手を上げなくてもいいぜ――ただし、その代償は高くつくけどな!!」
ヘルメット男が銃を持った腕を伸ばして、わたしの眉間に照準を合わせ、引き金に指をかける。
いよいよ火薬に着火させる――その手前の瞬間だった。奥でカタンと何かが落っこちる音がした
それは、ちょうどわたしの真向かいで起こったので、わたしには誰が何を落としたのかがしっかり見えていた。だから、ヘルメット男が顔を音の発生源に向けたとき、この世の終わりだと思った。
わたしとヘルメット男の視線が交わった先には、顔を蒼白にしてガタガタと震える哲平がいた。そして、哲平の両手の下には、携帯電話が落ちていた。
間髪入れずにヘルメット男が肩を怒らせ、大股で哲平の元へ向かう。
「てめえ、さっき全員から携帯回収したとき、持ってないって言ったじゃねえか。嘘つきやがったな。おい、もうサツにチクったか? チクったんだろ!! チクってないわけがねえ!! てめえ、こっち来い、ぶっ殺してやる」
ヘルメット男がわめき散らしながら、哲平の襟首をつかんで、こめかみに銃口を突きつけた。
今度はわたしが顔面蒼白になった。
どうしよう! わたしが手を上げるのを渋ったばっかりに。何が、脇に爆弾だ。爆弾なんて、爆弾……そうだ。
「待ちなさい!」
わたしはヘルメット男を呼び止めた。
「これが何だかわかる」
わたしは胸元から左手を中に入れ、服の上から長筒の形を浮き彫りにする。
「それが何だってんだよ」
腹立った口調でヘルメット男が聞いてきた。
「ダイナマイトよ!!」
「なっなっ、なにぃ? なんだって」
苛立ちの声ではなく、ヘルメット男は狼狽の声をあげた。周囲も同じだ。突如としての宣言に、床に伏せている客たちも慌てふためいている。
「これは、ダイナマイトだって言ったのよ」
「お、お前みたいのが、そんなもん持っているわけがねーだろ」
すかさず、当然の疑問をぶつける。意外とヘルメット男は冷静だった。いや、そう思わざるを得ないのだろう。銃身が震えている。故に今を乗り切れば勝機がある。わたしは右手をポケットに忍ばせる。
「そうかしら、じゃあ試して見る? 右のポケットでスイッチを握ってあるから、押してあげてもいいわよ」
「……」
哲平に突きつけた銃口が微妙に揺れている。ヘルメット男は判断がつかないようだった。
「いい、よく聞きなさい。本当はわたしが、ダイナマイトを使って、この店に強盗に入るつもりだったのよ。でも、あなたが先に来て……こうなってしまったけど
それはもう早い者勝ちだと思って、諦めることにするわ。ただね、わたしは人は殺さないことを自分に約束していたの。例え誰が強盗をするにしても、ここで人殺しはさせないわ」
ヘルメット男は渋っていた。もしヘルメットを脱ぎ捨てたら、顔がしわくちゃになっているのが見えるだろう。もう一息だ。今さらながらに震えがきたが、あと少しだ。踏ん張れ。
「さっさと男を解放しなさい」「こいつはサツを呼んだに違いねーんだ。制裁は受けてもらう。だから、お前の命だけ助けてやる、ってならどうだ?」
「なら一緒に吹き飛んでもらうけど、いいかしら」
即座にヘルメット男が毒づいた。そして、ヘルメット越しからでも、ため息の声が何度も聞こえた。果たして、判決はどちらに転ぶのだろうか。
「ふぅー。わかった、わかった。それならこいつと一緒に、無事に外に出れたら、解放してやる。自動ドアを過ぎたらすぐにでもだ。ただし、おんなぁ、お前はそれまで一切動くんじゃねえぞ」
「わかったわ」
ヘルメット男は哲平の背中に銃口を突きつけて移動する。黒光りするフェイス面のため、確かとはいえないが、視線はわたしに釘づけのようだ。店員が小走りで近づいて、金を詰めた布袋を渡す。
そして、いよいよヘルメット男が自動ドアに近づく。難なくガラスが左右に引かれ、道を作る。外に踏み出て一歩、二歩。ヘルメット男は肩と銃を下ろして、哲平を店側に突き出す。どうやら本当に解放に応じてくれるようだ。
しかし、運悪くあのサイレンが。
神業的な運転で、左右からパトカーがスライド。ヘルメット男がそれに怯んでいると、瞬く間に防護服を着た警察官が包囲した。
同じ制服を着た人間がずらりと並ぶその光景は、犯人にはさぞ圧巻だろう。すでに楯を構えた警察官の第一陣が、ヘルメット男の数歩先で陣取っている。
落ち着いていた犯人の感情が再び高ぶった。タイミングが悪いにもほどがある。
「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょおおーー。やっぱり通報してやがったな」
「強盗犯、無駄なあがきは止めて、早く人質を解放し投降しろ」
スピーカーで、お偉いさんが喋っているようだ。
「もう駄目だ。俺は刑務所なんざぁ、ごめんだ。こうなったら手前も道連れに、仲良く死んでやろうじゃねえか」
ヘルメット男が哲平の首筋に銃口をあてがう。一帯に緊迫の時が訪れる。警察官たちの身が強張った。
どうする!? なんて。ここまできて、黙って見過ごすわけないじゃない。
「ヘルメット男! これでも喰らいなさい」 ヘルメット男は体勢を横にして、わたしのことをうかがった。わたしが
「喰らいなさい」と言えば、ヘルメット男はアレを連想して意識を向けざるを得ない。
第一段階はうまくいった。
ダイナマイトを隠していると宣告した胸元に手を入れる。とうぜん、ヘルメット男は、首を前のめりにして、より関心を寄せた。
そこで、わたしはまざまざとデオドラントスプレーを自分の頭上にかかげた。両手ともなので万歳をするような形になり、脇毛が惜し気もなく見えている。
一瞬、顎を前に突きださせたヘルメット男は、わたしの頭上、それから脇へ、頭上、脇、頭上、脇、と何度となく、頭をしきりに上下させている。
ただでさえ、爆弾だと言われていたものが、何の変哲もないスプレー缶で、しかもわたしの脇毛がボサボサである。爆弾が嘘だということはわかっても、脇毛を生やしている意味には繋がらない。案の定、ヘルメット男は状況についてこれていないようだった。
それが好機となった。
楯をそっちのけで、警察官が強烈な体当たりをぶちかました。警察官も事態を把握していないかと思うが、咄嗟的な判断能力がものをいった。しかも、ヘルメット男は地面に倒れこんだ拍子に銃を落としてしまった。こうなってしまっては、勢いづいた正義の熱血漢たちを止める手立てはない。一人を皮切りに、次々と犯人目がけ飛びかかっていく。
あっという間に、ヘルメット男は姿かたちが見えなくってしまった。
まるで、飴玉に群がる蟻だな。
ヘルメット男のうめき声を聞きながら、わたしは大捕物を観察していた。
しかし、不意に哲平の呆気に取られた表情に気づいた。わたしは脇を隠しながら、苦々しい笑みを浮かべる。
警察署の玄関を一人でくぐり、わたしは深い深いため息をついた。やっとこさ、長い事情聴取が終わったのだ。
わたしはヘルメット男とのやりとりが多かったため、他の人より長くかかった。あまつさえ
「本当に、ダイナマイトを所持してないんですよね」と質問される始末だった。
だが、ため息を突いたのは、馬鹿な質問に受け答えしたからではなかった。
わたしはキョロキョロとあたりを見回した。
哲平にわたしが終わるまで待つように言ったのだけれど、署内にはいなかった。そこで、哲平の担当をしていた警察官に聞くと、すっとんきょんな顔をされて
「帰りましたよ」の一言。
――まさか
一縷の望みをかけて、外にでてきたものの、人っ子一人しかいない。
「振られたかぁ」
わたしは空を見上げる。春の季節の穏やかな雲たちを眺め、突っ立っていた。なんだか、気持ちがふわふわしていた。
すると、パトカーが駐車場スペースに止まって、二人の婦人警官が玄関に近づいてくる。二人ともわたしの顔を見て、小さく吹きだした。
不思議に思ったが、わたしの傍らを通り過ぎた後で、どうしてなのか納得した。
「あの人でしょ。脇毛見せて、強盗犯を撃退したのって?」
「違うよー。撃退じゃなくて、気を引いたんだってぇ」
後ろで笑いが大きくなった。わたしはアスファルトの地面にかかわらず、その場でへたり込んだ。
「だから、嫌だったんだい」
脇毛を人様に見せるだなんて。
いや、本当は……
朗らかに笑う哲平の顔が思い浮かんだ。
わたしの胸にひだまりのような暖かさが沁みる。
同時に、わたしを奈落に突き落とすかのような現状。
哲平のバカ。なんだい、女に脇毛が生えていたらいけないっていうのかい。男なんて、男なんてぇ。
道端で両膝をついているわたしの眼前に、もう一つの影が重なる。
「明日、新聞とかニュースで報道されちゃうね。脇毛で強盗撃退、不衛生女って」
聞き慣れた声に、わたしは顔を上げる。
「――哲平」
維持の悪い笑みをした哲平は、弁当屋さんの袋を自分の顔の高さまで持ち上げた。袋から美味しそうな匂いがして、アンニュイに浸っていたのが嘘かのように、わたしのお腹を刺激した。
「帰ろう。まだ脇毛剃ってないから、もう部屋デートね」
「うん」
そんなことまで言う必要性はないと思うが、正直その申し出は有り難かった。哲平は哲平なりに気を遣ってくれているみたいだった。
わたしが立ち上がると、哲平は肩に手を回す。
「今度の誕生日プレゼント、永久脱毛にしようかな」
「バカァ!!」
「ゴフッ」
哲平の鳩尾にわたしの裏拳がめり込んだ。ぷんすかさぷんすか怒っているわたしの一撃。哲平はよろめいていたが、それでもわたしの肩を抱いた手を離さず、一緒に青空の下を歩いていた。
数分後、ちょっとだけ、気分が晴れている自分に気づいたことが悔しかった。
当初のは五千文字で納めるつもりでしたが、結果的に、ながっ!! という感じに。
閲覧してくださった人に大感謝です。