旅立ち
啓太は急いで旅支度をした。
「権蔵。おれは旅に出る。おそらくもう会うことはなかろう。」
またぎ仲間の権蔵は気のいいやつだった。しかし、そんなやつでも山神様や九十九神のことは信じてはいなかった。彼には、年老いた母が一人、里で暮らしてる。そんな彼を巻き込むわけにはいかない。
啓太は手紙ともに添えられていた衣と袈裟をまとった。里を出て、托鉢の僧となった。かれが唱えられる経は一つしかない。しかも彼自身、その経の意味は理解していない。
「経をあげるのに、その真意を理解する必要はない。ただ、目の前の者に救いたいという心をこめることじゃ。さすれば、苦しみから解放することができよう。」
法海がいつも彼に言っていた言葉だ。経を習いたてのころだった。
「ぎゃあてーぎゃあてー、はらぎゃあてー。」
法海の言葉を繰り返す際に
「いてーいてー、はらいてー。」
といってしまったことがある。並みの僧侶なら激昂するところだろうが、
「お主にはそう聞こえたんじゃな?」
と、言葉をかけただけで修行を続けた。ふざけていたわけではないが、以来、一言一句聞き逃すまいと修行に打ち込むようになった。
またぎとして山々を渡り歩いていた啓太にとって、経を唱え、托鉢する旅に不自由は感じなかった。多くの食べ物は山や川が与えてくれる。たとえ個人所有の山であっても、信仰の厚い地方では托鉢僧の姿を見れば、誰も怒るものはいなかった。