翡翠の山頂②
最初の数年間、帝国は、大佐と同じ心持ちになった。
秘境に隠された驚くべき、単なる偶然を、神の意志と感じたのだった。
またこのような奇跡と信じられる、単なる偶然の結果を保護しようと考えた。
しかし最初の飛行船が離着陸に成功し、すぐに大型船が完成し、やがて量産され、空中艦隊が出来、遂に陸海軍から独立した空軍が編成された。
こうなると野心ある空軍提督たちは、新しいヘルゲンになった。
空軍は、植民地の測量局がそうであったように野心と冒険を胸に巨大な翡翠の頂を本国に持ち帰ることを計画した。
自然保護と迷信に取り付かれた中世的な人間は、絶叫してこれを批判した。
彼らは、翡翠の山頂は、侵すべからざる聖地だと主張した。
対して軍国主義者と確信犯的な愛国者が、この計画を褒め称えた。
前人未到の、この試みは、帝国の力を示す絶好の機会であり、そのような大自然の至宝は、世界に冠たる大ヴィネア帝国が所有するべきものだと唱えた。
また女王もこの計画の結果が神の裁定となると宣言した。
もし成功すれば、それが帝国の更なる栄光を約束する神の御徴だというのである。
さらにここへ王室崇拝者の学者たちも太鼓持ちになった。
彼らは、計画を支持した女王を学術的に価値ある試みを後押ししたと持ち上げた。
翻ってこの計画を非難する人々は、無知で迷信的だなどと痛烈に侮辱して議論を封じた。
「如何なる現象が巨大な翡翠の塊を山頂に押し上げたのか。
これは、学問の上で尽きぬ興味であります。
さればこそ、翡翠の山頂を持ち帰り詳しく調査したいと思います。
またこのような危険で壮大な計画を科学的見地の有意義を認め、勇気をもって決断された女王陛下の聡明さは、開明的な主君の鏡と言えます。
逆に昨今、市井で叫ばれているような戯言は、この科学の時代に対する後退的行為で無知と言わざるを得ない!」
こう帝国科学院の重鎮が吠えると自然保護の市民団体は、沈黙した。
別のところで記者たちは、翡翠の山頂をはじめ隠したヘルゲンが、これを嫌がるだろうと思って取材した。
この時、すでに彼は、軍を退役し、政治と軍の人脈、植民地で手にした金品を使って実業家となっていた。
「女王陛下の御聖断に対し奉り、退役軍人として成功をお祈りするのみである。
陛下の強大な御力は、この計画を成功させることでしょう。」
このようにヘルゲンは、表面上、計画の成功を祈っていると答えた。
あるいは、本当は、彼も快く思っていないようだ、と記者が読者に印象付けるような記事を書いた。
庶民は、神秘の山を隠そうとしたヘルゲンと、そこを穢そうとする冒涜的な空軍の企みという絵に描いたような善悪の対決を面白がった。
前者を支持するのは、宗教家や自然の擁護者を気取る教育関連や自称・知識人の連中で総じて収入の少ない人々であった。
対して後者を支持するのは、軍人や政治家、貴族といった金と権力を振りかざしたい人々だった。
前者は、金も権力もないために頭でっかちに正義を主張し、後者は、持っている権力を行使したい欲求があり、両者の志向があからさまに見え透いていた。
別の場所では、ヘルゲンが陸軍出身者で空軍を快く思っていないと想像した。
または、測量局時代のヘルゲンを知っている者は、自分が翡翠の山頂を持ち帰れなかったので今回の計画をやっかんでいると冷笑した。
1856年。
しかしヘルゲンは、翡翠の山頂を帝国本土に略奪する計画に参加した。
ヘルゲン山の登頂者という経歴から計画のアドバイザーとしてである。
こうなるとヘルゲンをシンボルに自然保護を訴える連中も青褪めた。
彼らは、一転してヘルゲンを人非人だとか裏切り者と罵った。
ごく一握りの人は、ヘルゲンにも事情があったと想像して勝手に同情した。
最初に触れたようにウルゲル・ヘルゲンは、愛国主義者である。
彼の価値観に乗っ取れば国家の名誉をかけた事業に協力しない訳にはいかなかった。
当初は、彼も会社の経営者になっていたため世間体を考える必要に迫られた。
しかし早い段階で翡翠の山頂を切り取る計画に賛同していたらしい。
実を言えば殊更、翡翠の山頂を神聖視するような口振りで取材に答えたのは、自分の功績を大きな物として印象付ける演出を行っただけであった。
ただの軍人ではなく腹芸も達者な男だった。
ヘルゲンは、自己の功績を出来るだけ大きな効果を上げようと工夫した。
俗物として彼は、相当の曲者だったのである。
「御協力を感謝します、閣下。」
退役の前に少将に昇進していたヘルゲンを若い将校らが出迎える。
すっかり作り笑いが板について商人然としてしまったヘルゲンが軍人たちの敬礼にお辞儀で応える。
「しかし立派な飛行船団ですな。
これが十年前にあれば、あの山の登頂もずっと楽だったでしょう。」
「はっはっは。
この空中機動艦隊は、閣下がご苦労された様な状況を考えた結果、完成しました。
いわば閣下の功績のひとつと申せましょうな!
この空軍が実戦に投入されれば我が帝国軍の地上展開は、容易になるでしょう。
偵察、攻撃、進軍…。
あらゆる場面で我々は、敵の一歩も二歩も先んじることができます!」
内外の批難と賞賛に見舞われつつ飛行船団は、マッチンマンガに向かって出征した。
3月中にマッチンマンガの奥地に部隊は、展開した。
今回は、食料などは、空輸できるため計画は、速やかに進んだ。
ヘルゲンは、高齢に差し掛かっていたこともありマッチンマンガ総督府に残った。
実際の作戦は、若い空軍の士官らが行ったのである。
11月15日。
ヘルゲン山の翡翠の山頂部分を飛行船で運搬する処理がひと段落した。
翌1857年の初めに彼らは、山頂を本国に持ち帰ることを目指した。
既にこの頃の本土は、成功を疑わない声で溢れていた。
もうこの計画を非難する者は、非国民と謗られても当然という風潮すら起こっている。
大ヴィネア帝国は、周辺の多くの国や地域、民族を併合した国家である。
彼ら被征服民とやがて侵略に晒される人々は、この一連の事件を見守っていた。
計画は、既に帝国の権威に賭けて行われる戦争だった。
1857年1月2日。
新年の喜びに満ちた帝国本土にヘルゲン山の翡翠の峰が持ち帰られた。
約300tにもなる巨大な翡翠の塊は、見る者を圧倒した。
その深い緑に遥かな大自然の力強さすら感じさせた。
連日のように記者と人々が、それを見物に訪れた。
ひとしきり騒ぎが続くと女王ソナタ四世は、これを帝国科学院に送り、調査を命じた。
もっとも尋常でない大きさと言ってもただの翡翠の塊である。
今更、調査も研究もないものである。
それでも科学者たちは、話題作りのために些末な情報を大袈裟に発表して記者や庶民を喜ばせてやった。
しかしやがて小さな毒が関係者を刺した。
それは、はじめ小さな、掻き消えるかと思われたが、じわじわと帝国に広がりつつけた。
「持ち帰られた翡翠の山頂は、偽物である。」
というそれは、何の変哲もない流言だった。
余りに発想が貧困でありきたりなものだったので誰もが笑止と思った。
だが深く考えれば、あの巨石が本当に山の頂にあったという証拠は、切り取られた段階で永久に失われたのだ。
勿論、切り取るまでの写真が公開されている。
しかしそれがトリックでない証拠もなくなった。
疑問と疑惑が溢れ出し新聞は、面白がって風説を取り上げた。
計らずも同じ時期にレービニア・アイビーという新種の鳥の発見は、嘘だと知れたばかりだった。
発見者オジュロー・ワイルドは、ロンウェー精神病院に収監された。
「翡翠の山頂は、神秘的な自然の宝だ。
しかし山頂から切り取られた瞬間に、その価値は、永久に破壊された。
この点を自然保護団体や宗教家は、叫び続けて来た。
それが今更、どうしてずっと気付かなかったのか。
軍人たちの想像力は、欠如している。」
このように叫んだ作家は、女王の名誉を傷つけたと判断されたのだろう。
数日後、精神病院に送られた。
そんなこともあって著名な者は、後難を恐れて一斉に口を噤んだ。
しかし名もない者たちが騒ぎを続けた。
彼らにとって数こそ武器だった。
数千人のうるさい群衆を精神病院に送ることは、難しかったからである。
だが。
「彼らには、木棺で祖国にお帰り頂こう。」
嘘か誠か。
ずっと後になって分かった話である。
1862年に北方戦争が始まった。
この時、陸軍大将で女王の弟、オファイレス公爵がそう周囲に漏らしたといわれている。
既にこの時代では、珍しく大規模な徴兵令が発布され、職業軍人でもない市民が戦場に送られた。
しかも明らかに身体的に好ましくない者であっても兵役に合格した。
また北方戦争は、まるで兵を死なせるのが目的であるかの如く拡大し続けていった。
さらに女たちも戦場に送られた。
はじめは看護婦、次に狙撃兵、砲兵と役割は、拡大し続け、際限なく拡充されていった。
秘密警察が女王批判をやった市民を執拗に捕捉し、まとめて処刑する方法として戦場を選定した。
そんな憶測が生まれたのは、戦後四半世紀も経った頃である。
ただ女王自身も戦場にあり、多くの女が軍部の様々な分野で勲章を得た。
これをヴィネア帝国における女性の社会進出と考える馬嫁もいる。
実に女兵士の10人に1人は、敵に強姦された。
また5人に1人は、味方に強姦された。