スイッチ
ボタンって、普通押したいですよね?
押すなって言われると、たまらなくなりませんか?
では、押せって言われても、絶対に押したくないボタンってなんでしょうか?
目の前に、三つのスイッチがある。横並びに三つ。それは綺麗に並んでいた。私の右に男がいた。左には女がいた。共に色のない目をしていた。きっと、私の目にも色はない。鏡は無いのに、それを知っていた。私達は色の無い目で、スイッチを見ていた。虚ろな眼で何かを眺めていた。遠くを見ている風だった。足が動かなかった。腕が震えた。私はスイッチを見た。これを呪った。私はこれを押したくない。押すべきではない。だが、押さねばならない。必ずだ。両隣も同じくだ。私だけがその義務を放棄することなど、決して許されない。何故か、それを確信していた。夢であるはずだというのに、私はその光景を知っているようであった。既視感、というのだろうか。いや違う、一度としてこんなスイッチを見たことなどない。実際に見たのは「間違いなく」これが初めてなのだ。だのに、何度見た光景だろう、なんて「想像通り」の気分なのだろう。押したくない。まだ、その時は来ない。だが、じきに。嫌だ。見るな。やめてくれ、私は何も悪くない。私が罪を背負う確立など「三分の一」なのだ。まだ、そしてこの先も、私は何も悪くない、悪くない。悪寒が全身を駆ける。口の中はとうに乾ききっていた。何もない口の、何かを無理やり飲み込もうとした。それは喉で膨らんだ風であった。息までが苦しくなった。
ぼんやりとした視界の何処かでもう一人、虚ろな目をした男が手を挙げた。気が動転しかけた。心の臓が泣く音が聞こえてきた。両隣はスイッチの前に手をかざしていた。気づけば私の手もスイッチの前に在った。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。体と心は別の所にあるようで、いかにも夢で、なんと生々しかった。私はこれから罪を負うのだ。三分の一、嘘だ、そんなものは大嘘だ。その可能性を知りながら、このスイッチを押すならば、その時私は罪を認めるのだ。認めた上でこの手が動くというなら、私は紛れもなく「罪人」だろう。それは、たとえ私の行為が法に守られたものであってもだ。誰が私を赦しても、私は「私」を赦せないことを、私は知っていた。腕が、指が、ひどく震えていた。あぁ、神よ、仏でも良い。誰か私を納得させられる者よ。どうか私を赦してください。どうか私を救ってください。視界がぼやけ始めた。
男が腕を振り下ろした。
私はスイッチを押し込んだ。あまりにも重く、軽い感触のスイッチであった。何も見えなくなった。
目を開いた。その瞬間、床を踏む感覚が消えた。腑に落ちた。こういうことか。「死」というのは。私はまた一つ、罪を負った。名も知らぬ誰かを殺したことを、今、私は知った。
以上です。
もうほとんどの方がお分かりだと思いますが、死刑執行制度について書かせていただきました。
死刑自体の是非はよく問われるというのに、それを行う人については話されない。
日本の形って、少し歪んでいる気がしませんか?
なんて思いながら書いておりました。
知識量も腕も磨いたら、この制度について、もっと描いてみたいなと考えております。




