混濁
その日、俺はいつも通りの日常を送っていた。メアリーにこき使われ、ラニウスと殴り合いの喧嘩をし、リュドミラと町を歩く。それが俺の日常となっていた。
悪くはなかった。そんな日常が俺は結構好きだった。そう、好きだったんだ。
その日の夜、俺は騎士団本部の近くを歩いていた。ふと、馬小屋が目に付いた。
「……あれ……んだろうな……なーんか忘れてんだよなぁ……そういや、あれ……あいつ等……誰だっけ……あの……」
俺は確か日本の────阿久津? 下の名前は? 誰と一緒に居た? 何をしていた?
「…………記憶が……ない……? 待て待て待て待て……」
何故だ。何を忘れている。俺は何を思い出せない。俺は何処から来た。俺は一体何者だ。俺は────誰だ?
「…………」
俺は体が動かなかった。自分の名前さえ忘れそうだったのだ。この世界は楽しい、メアリー、ラニウス、リュドミラと過ごす日常は楽しかった。だからこそ忘れたのか。だからいけないのか。
「はっ……はは……俺は誰だ? ここは何処だ? なんだ? 誰だ? 何処だ?」
俺は一体────誰だ────
「何や、阿久津のドアホはまた休んでんのか?」
「あぁ、ここ最近、顔すら見せないな。全く何をやっているのだ。リュドミラ、お前も阿久津とは?」
「会ってない……家にも帰ってない……もう二か月も経つ……」
二か月前から阿久津は姿を消した。特に仲の良かった三人にも何も言わず、忽然と姿を消したのだ。メアリー曰く、人が一人消えるのは珍しくないそうだ。それは恨みを買い殺されたなど、恋人と駆け落ちしたなど、理由は様々であったが監視カメラやGPSが無い世界、行方不明者を探すのは簡単な事では無かったのだ。
「勝手に消えおってからに……会ったらバチバチいったんねん」
「メアリー!! 大変だ! スラム街が!」
突如ラニウス達の家に慌てた様子で入って来た一人の騎士は顔を真っ青にして、息を切らしながら自分が見てきた光景を説明し始めた。
「す、スラム街の中心で突然大爆発が起きて大変なんだ! それで俺は自分の部隊と共に急行したんだが……それが……」
「何だ、早く言え」
「スラム街に阿久津が……阿久津が居たんだ!」
「なんやて!?」
三人が驚くのは仕方のない事だ。スラム街を探してないわけではなかった。むしろ重点的に探したと言っても過言ではない。それなのにその阿久津がスラム街に居た。三人は爆発に巻き込まれていないかが心配だった。
「そうか……阿久津が居たのか……よかった」
「よくないぞ! その爆発を起こしたのは阿久津なんだ! あいつ……笑いながらスラム街の人間をぶっ殺してやがった……!」
その言葉にリュドミラは崩れ去りその場に膝を着いてしまった。
言葉はきつくてもあんなに優しく、誰にでも平等に接する阿久津がそんな事をするはずがない、そう否定したリュドミラだったが騎士の見た事は本当で何人も部下がやられていた。
「アイツ……どうかしちまったのかよ……しかも……まるで魔法使いんのようだった……」
リュドミラの行動は早かった。もしかしたら阿久津も魔法使いなのかもしれない。もしかしたら苦しんでいるのかもしれない。そう思い、彼女は燃え盛るスラム街へと駆け出したのた。
彼女がそこで目にしたモノは壮絶なもので、燃え盛る民家、血まみれで時には肉片のようなモノ、人間の死体がそこら中に散らばっていた。
催す吐き気を抑えながら、スラム街の奥へと進んでいった。するとそこには二か月前に行方不明となった阿久津の姿があった。
だがそこに居たのは以前のように親しみのある笑顔をする男ではなく、三日月の様な不気味に口を歪ませた男が立っていたのだ。
「あ……あく……あくつ……」
「……んぅ? あぁ……これはこれは……誰かと思えば、魔法使いリュドミラじゃないかぁ……機嫌はどうだぁ? いやぁ聞くまでもなかったなぁ。俺は最高にいい気分だぁ……」
「阿久津……もうやめて……アナタ……らしくない……」
「人は見かけだけが全てじゃなぁない……そう、全てじゃぁないんだぁ……人間は誰しも心の中に悪魔を飼っている。はぁぁ……それより、阿久津とは誰だぁ? 俺の事かぁ? 俺は名前の無いしがない魔法使いだ」
阿久津は正気を失っていたが意識ははっきりとしていた。これが、これこそが本当の自分だと、むしろすっきりしたような顔で笑顔を作った。親しみのある、優しい笑顔を。
「ドアホ!! 家事もせず何しとんねんボケ! さっさと帰るで!?」
「あぁ? 煩い雌豚が……」
「なっ、お前……死なす! おいリュドミラ! このドアホを正気に戻すで!」
「うん……!」
ラニウスはキリっと目を尖らせて阿久津だった者を睨みつけた。そこには恐れや畏怖の光は見いだせずとりあえずこのボケをしばき倒す、そんな目をしていた。
「っはっはっはっはっはっはっはっははは!! ならお前らもこいつら同様焼き豚にしてやるよ! おらぁぁ! 獄炎の宴!!!」
楽しそうにそう叫び阿久津が掌を前に出すと大きな炎の弾がリュドミラ達に向かって勢いよく発射された。
くっ、と苦虫を噛み潰したような顔でラニウスの前に出た魔法使いリュドミラは同じように叫んだ。
「……もう……やめて……! 盾となる炎!」
炎の弾はリュドミラが作り出した炎の盾により相殺され、二人の魔法使いはお互いを睨み合った。
魔法使い同士が戦う事は珍しくもない、しかし、魔法使いというのはその力が強大過ぎる為か、辺り一帯を焦土に変えてしまうのだ。
「ねぇ……阿久津……覚えてる……? 私……阿久津のおかげで……この町の皆と仲良くなれたんだよ……? 魔法使いである私が……アナタのおかげで……普通の女の子として生きられた……殺しはダメだ……って教えてくれたのは………阿久津なんだよ?」
「……阿久津…………誰だそれは……俺に名前なんてモノは無い……あるのは不思議と体の底から湧き上がる殺意だけだぁぁぁ!!!」
魔法使いとしての阿久津の力は凄まじかった。何もない所から剣を出現させ、それを数十本も出し、全て巧みに操りながらリュドミラに斬りかかっていた。
しかし、その全てをリュドミラは杖一つで受け流し、躱し切っていた。これは魔法使い同士の戦い、ただの人間であるラニウスと、今しがた駆け付けたメアリーには手出しできない戦いであった。
「俺はぁ!」
「……阿久津……全部……思い出そう?」
無防備に手を広げてリュドミラは阿久津の次を全てその体に受け止めた。
血を吐きながらも目の前の自身を救ってくれた男を優しく包み込むように抱き締めていた。すると阿久津はそのまま気を失ってしまった。
「……ケホケホ……辛かったね……阿久津」
「お、終わったのか……? い、今の内に阿久津を確保しろ! リュドミラの傷も手当してやれ!」
「……良くて永久追放……悪くて公開処刑……やなぁ」
「仕方あるまい……ここまでの事をしてしまったんだ……極刑は免れないだろう」
阿久津は騎士団に確保されて気を失ったまま、厳重に拘束され牢獄へ入れられることとなった。
「……こ……ここは……」
「目が覚めたか……大バカ者」
「メアリー……俺は何てことを…うっ……おえぇぇ」
目を覚ますとあの時の光景を思い出したのかその場で吐しゃ物をまき散らせてしまった。
それを憐れむように見るメアリーは顔を背けてこれからの阿久津について語った。
「……広場で公開処刑される事となった……」
「ゲホゲホ……そうかい……そりゃぁそうだろうな。あんな事をしちまったんだ……仕方がねぇ……」
「何故……何故だ。何故……魔法使いだと言う事を隠していたんだ」
「……俺も自分が魔法使いだったなんて知らなかったのさ……けど過ぎちまった事は仕方がねぇ、大人しく殺されるしかねぇだろう。どの道、ここからは逃げらんねぇしな」
自分のこれからを知ってもなお、阿久津は笑みを崩さなかった。穏やかな笑みでは無く三日月の様な笑みを。