山に住む人魚の話。
※ 2009年5月2日にブログに掲載していた作品を加筆修正しました。
特にこの設定でやる必要はなかったようなSFもどきです。
池野夜咲花は人魚だった。
とおいとおいむかし、故郷である海から陸へとすまいを移した、人魚の末裔だった。
真夜中を映した海のような瞳をもった、少女だった。
池野雨夜星も人魚だった。
海溝を覗きこむと見える青と深淵のはざまのような眼をした、少女だった。
夜咲花とは遠い親戚の幼なじみで、彼女たちはお互いを人魚の末裔と理解していた。
彼女たちは、陸に上がった人魚を他に知らない。
血族の血は薄れても、身に流れる血潮は海よりも濃く、彼女たちに本質を自覚させた。
海が恋しいと泣く、本能を。
そして、彼女たちは。
風にまぎれて潮の香がする。
それが物理的に不可能と知っていながら、夜咲花は勘違いでなく、そう思う。
内陸の深い山中にある、古い日本家屋。
海から全くかけ離れたその場所で、夜咲花は生きている。
けれど、彼女は生まれてかつて一度も見たことのない『海』というものを知っていた。識っていた。解っていた。
この家の風呂桶はかなり小さい木の桶で、四肢を折りたたんでもまだ狭い。
以前の風呂桶が壊れるまでは、同じ木桶でももう少し大きく、四肢の伸ばせるものだった。
小さな風呂桶を、夜咲花は気に入らない。
しかし、身近に「水を溜める」最大のものがこれしかないので、今日も夜咲花は水を溜め、底に沈む。
一度、山中の池に身を沈めていて大騒ぎになったので、それ以降、自然の水たまりは諦めた。
木枠でしかない窓の向こうに広がる星空を水を透して見つめる。
ゆらゆらゆれる、その輝きは、彼女の郷愁をほんの少しだけやわらげる。
山中は空気が澄んでいて、星がまぶしいくらい大きく瞬く。
そんなの当たり前のことなのに、ひどく驚かれたことを、夜咲花は昨日ごとのように覚えている。
いくら水につかってもふやけない体で、ただじっと、水ごしの夜空をみつめた。
「夜咲花。火を入れましょうか?」
木枠の向こうから声がかかる。
水を介して鼓膜を揺らす声に、応えようと仕方なく、ぷかり水面に顔を出した。
「……いらないよ、冬銀河。私のことはほうっておいて」
「しかし、体が冷えます。もう初夏ですが、山は、夜はまだ冷えます」
「必要ない。水は私を傷つけない。知ってるくせに、きかないで」
冬銀河は黙り込む。三泊の沈黙ののち、ざしりと砂のこすれる音。
長い髪が水中で海藻のようにたゆたう。体を覆う。顔に張り付いて気持ちが悪かった。
また、とぷんと水に沈んだ。
冬銀河は、何年か前に、街の方からやってきた。
「『人魚伝説』を調べてる」言い切った少年のあどけなさを残した青年は、その情熱のままに、高山の山腹にかくれすんでいた池野家を探し当てて、押しかけてきた。
そのころはまだ生きていたおばばが滞在を許し、何年もたった今も、まだ帰らない。
畑やまきわりなどの、女手では手の回らない力仕事や、ときたまの街へのお使いを宿賃に、この家に居座った。
冬銀河は、夜咲花を崇拝する。
そして余計な世話を焼きたがる。おびえたように。
人魚の資質として、夜咲花は水に好かれた。
彼女は誰に教わるでもなく泳げ、そして誰よりも深く深く長く、息継ぎもなく潜水し続けることができた。
水に住む生物から無条件の親愛と憐れみを注がれた。
雨夜星は、力ある声をもっていた。
ライン川のローレライが、ギリシャ神話のセイレーンが、その歌声で船乗りを魅了したように、その声には絶対的な圧力があった。彼女の声は人を狂わせる声だった。
雲の機嫌を読み、その声で、ほんの少しだけ、水を従えることができた。
ごくごく薄く残った、人魚としての能力の残滓。
雨夜星とは違った、夜咲花の資質。
夜咲花とは違った、雨夜星の資質。
冬銀河が求める、人魚の。
「冬銀河」
ぽつり、囁いた。水の中で吐き出された言葉は、泡となってごぼりと消えた。
またゆっくり、水面に顔を出す。顔の皮膚の上を滑る水の感触にうっとり目をつむった。囁く。
「冬銀河」
「夜咲花」
どきりとした。まだ、そこにいるとは思わなかったもので。
「夜咲花、御用ですか?」
「まだいたの?」
「ええ」
「別に、呼んじゃいないわ。言ってみただけ」
「そうですか」
「冬銀河」
「はい」
「………雨夜星、無事に着いたかな」
「大丈夫でしょう。雨夜星は、あなたほど方向音痴ではない」
「悪かったわね。方向音痴で」
「いえ、相対的に見て、という意味で」
「冬銀河」
「はい、夜咲花」
「……あなた、街へ戻りなさい」
風が森を揺らした。
ざわざわ、潮騒に似たざわめく緑のにおいにまぎれて、潮の香を、確かに感じるというのに。
ここは海ではない。狭い真水の風呂桶の中。
恋しい恋しい、海ではない。
ざしり、足音がして、夜咲花は薄い壁ごしに、冬銀河が額づくのを見た気がした。
「どこにも行きません」
冬銀河は、夜咲花を崇拝する。
「ここ以外、どこにも行きません」
陸に上がった人魚の末裔として。
「夜咲花を、独りになんて、しません」
恋い慕う、少女として。
いつの頃からか熱を帯びてゆく視線に、夜咲花は気づいていた。
いつも夜咲花の隣にいた雨夜星ではなく、夜咲花を。
ひそやかに日々は過ぎて行った。
最初はおばばと、夜咲花と雨夜星と冬銀河。四人で。
おばばが死に、その後は三人で。
夜咲花はそれでよかった。
雨夜星がいなくなってから。
冬銀河は、足りなくなった。
それから夜咲花はどうしたらよいのかわからない。
冬銀河をどう扱ったらよいのか。
雨夜星と一緒に行けばよかったのか。
冬銀河に対する感情の名前を、夜咲花はどう態度に出していいのか、わからない。
ほうっておいてほしいと思う。
でもそばにいてほしいと思う。
雨夜星とはあまりにも長くそばにいすぎて、言葉を交わさずとも考えてることなんて筒抜けだったから、余計に戸惑う。
どうしてほしいのか全く分からない冬銀河を、恐ろしく思う。ほんの少し。
冬銀河は夜咲花を崇拝する。
雨夜星のように、いつ海に帰らんと、姿を消すのではないかとおびえる。
少しでも近くに留めようと、余計な世話を焼く。それは独占欲にも支配欲にも似てる。
ひまさえあれば浴槽に沈む夜咲花を、少しでも陸に留めようと小さな風呂桶を作るくせに。
しかし彼はこの壁ひとつ越えてこない。それでも。
「夜咲花」
縋り付くように、名を呼ぶ声に、夜咲花は。
思い出す。冬銀河がこの家に訪れた時のことを。
まだ若かった、青年だった、冬銀河の姿。
そして、今とさして変わらない、自分と雨夜星の姿。
血族の血は薄れても、身に流れる血潮は海よりも濃く、人魚の本質を顕した。
とぷりと沈む。
四肢を赤ん坊のように折り曲げて、窓枠に切り取られた瞬く夜空の星を、真夜中を映した海のような瞳で見上げた。
雨夜星は消え、海に帰った。何も言わずふらりと姿を消した彼女の行方を、夜咲花は感じ取っていた。
彼女は海へ帰った。
先の戦争と降り積もった環境破壊に汚染され、微生物すら生きていくことのできないほどに壊された、先祖の故郷に。
第一級保護指定生物『人魚』のほぼ最後の生き残りとなり、国から世界中からあらゆる優遇と保護と、監視をむけられて、なお。
それでも、帰りたかった。
夜咲花も海が恋しい。海に帰りたい。帰りたい。
いずれは堪えられなくなるであろう本能の訴えに、希求に、渇望に、夜咲花もあらがえなくなる日がいずれ来る。夜咲花が押さえ込んでいてなお無駄だった、雨夜星のように。
「……冬銀河」
しかし、海が恋しいと泣く、それと同じぐらい、冬銀河への未練を嘆くであろう。
それも真実と、彼女は知っていた。識っていた。解っていた。
どちらも選べない。
本能と抑制。
願望と希望。
絶望と切望。
苛立ちと諦念。
さまざまな感情がかもすまだるっこしさと、同じ時を生きれない冬銀河への八つ当たりに似た感情と一緒に、まなじりからあふれた夜咲花の海が真水に溶けて消えた。
* * *
池野 夜咲花 人魚の末裔。山中に住む。染色を生業とする。外見年齢16、7だが、冬銀河より年上。
冬銀河 民族学と亜人の研究者。20代で夜咲花たちと出会う。40に手が届く小父さま。
池野 雨夜星 人魚の末裔。一足先に海に帰った。
戦争や汚染で環境が破壊され尽くされた世界の話。
以下、設定など。↓
人間……《ドーム》という隔離空間で市町村ごとに管理され、滅多なことでは外に出れない。
人間が人工的管理されている間に、自然環境は回復のためにあらゆる手を尽くされている。このころには大地の回復はよい所まで終えている。それでも戦争から云百年は経過。
海はまだ回復には至っていない。毒水のまま、生き物の死に絶えた水たまり。これが大地の回復に悪循環をひきおこしている。しかし海の回復は進まない。
第一級保護指定生物『人魚』……海中を住処とした魚の亜人。現在確認されているのは世界でニ人。うち一人は雨夜星だったので、実質今は一人。女型は非常に人族を惹きつける容姿をしている。
戦前には、多種多様な亜人が自然環境に適応して暮らしていた。でも先の戦争でほぼ全滅。現在は数少ない生き残りを保護する方向に。
その多くが、人魚のように回帰願望や望郷感が強く、自然の中を好む。
環境破壊により故郷を奪われた種族も多数。
保護目的でそれまでとは真逆の環境(人魚だったら海からはるか離れた山中)に種族ごとに隔離される場合も多い。
『亜人』……ヒト型を有すか人語を解する、人間とは異なった生物を『亜人』と定義づける。
夜咲花は、ハウル原作から引っ張ってきた名前。日本語ってきれいですね。
冬銀河は、凍てつく冬の夜空にちりばめられた星群のことらしい。
雨夜星は語韻で。