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1-05『扉が開く音』

 狭い部屋だった。

 ベッドがひとつに、加えて粗末な木製の椅子と机、そしてその上に電灯のような光源が置いてあるだけの、とても簡素な部屋である。

 木材の風情が強い部屋の中を、薄暗くも照らしている灯り。電灯、とは言ったがコンセントやプラグに相当するものは見当たらない。おそらくは森の中の小屋で見た燭台のような、いわゆる魔法の道具アイテムの一種なのだろう。

 部屋の中には今、二人の人間がいる。迅と冬火だ。

 冬火はベッドの脇に、迅は椅子に、それぞれ腰を下ろして向かい合っていた。


「いったいなあ……。何も蹴ることないだろう」

 まだ鈍く痺れる腿をさすりながら、恨みがましく迅は言う。

 一方の冬火も、未だ怒りも冷めやらぬ様子で、

「うっさい馬鹿。ヒトに心配かけておいて、あんな態度取るほうが悪い」

「そりゃまあ、悪かったけどさ……」

 不満げに迅はそう言った。確かに心配はかけただろうが、何もそこまで往来で蹴ることはないだろう、と。おかげで周囲から、好奇の目線がひしひしと注がれてしまった。

 それを避ける意味もあって、迅は再会した冬火に案内され、この部屋へとやって来ている。

 大通りのすぐそばの、一軒の家の中だった。

 ただ、この場所がいったいなんなのかまでは知らない。見たところ誰かの寝室なのだろうが、そこで冬火が自分の部屋であるかのように振る舞っている理由は不明だった。

 異世界に来て、さっそく宿屋でも押さえたのだろうか。だとするのなら、その適応能力は迅を遥かに上回っている。

 だがそれも、冬火ならばあり得るかもしれない。

 そんな風にさえ思わせてしまう存在が、迅にとっての青山冬火という少女だ。


「――冬火もやっぱ、こっちの世界に来てたんだな」

 迅は言う。あの転移のとき、冬火と楽まで巻き込まれていたかどうかを迅は把握できていなかった。

 だがこれで確定した。この分なら、楽も巻き込まれたと見るべきだろう。

 それを喜ぶべきなのかはいまいち判然としない。だが少なくとも、こうして合流できたのことは不幸中の幸いと言っていいだろう。最悪の事態は避けられた。迅が抱いていた危惧の、これで半分が解消されたことになる。

 まだ不満げな冬火だったが、真面目な会話となれば切り替えは早い。

「ええ。まさかいきなり、異世界に来ちゃうなんて考えてなかったけど」

「まあ普通は考えないよね……」

「そうね。迅も楽もどこにもいないし、正直、途方に暮れたわよ」

「……楽は? 一緒じゃないのか?」

 迅は問うた。もうひとりの幼馴染みの所在を。

 冬火は、だが首を横に振って答える。

「……わからない。私もあれ以来、一度も会えてないのよ。迅と会うまで、こっちの世界に二人が来ているかどうかさえ、わからなかったから」

「そうか……」

「でもまあ楽のことだから、ひとりで勝手に楽しんでるんじゃないの。この異世界生活を」

「ああ。それは確かに楽らしい」

 冬火の言葉に迅は苦笑。その様子が、ありありと想像できたのだ。

 適応力という面で言うのなら、三人の中で、楽がいちばん優れていると迅は思う。あの斜に構えた皮肉な自由人ならば、たとえ異世界だろうとどこだろうと、気ままに自分の遊び場へ変えてしまうに違いない。

 と、そんな楽観を迅は抱く。

 それも冬火と無事に再会できたがゆえの余裕だったが。


「――それより迅。今までいったい、どこで何してたの?」

 声音を変えて、冬火は楽にそう訊ねた。

 その質問に、何と訊かれてもなあ、と迅は首を捻るしかない。

 別段、何をしていたわけでもないのだから。生き残ることにただ必死だっただけ。

 むしろ冬火がこんなにもあっさりと生活の地盤を築いていることのほうが、迅には不思議でならなかった。彼女が着ている衣服は、あの別れ際と違い制服ではない。おそらくこの世界で手に入れたものだろう簡素な布着。一緒に着ている前掛けを見るに、どうやら仕事まで手に入れているようだ。

 優秀すぎるというか、なんというか……いや、やはりどう考えてもおかしい。

 首を傾げたまま、迅は逆に問い返した。

「どちらかというと、それは俺が訊きたいんだけど。今、何してんの、冬火は?」

「何って……今は、肉屋で働いてるけど。バイトみたいなものかな」

「じゃあやっぱ仕事見つけたのか、冬火。すごいなマジで。冬火の真面目さはよく知ってるつもりだったけど、改めて驚くぜ……。よくそんな簡単に、異世界へ適応できたもんだ」

「まさか。そうじゃなきゃ、生きてこれなかったってだけよ。むしろ迅はどうなのよ? どこかで、何か仕事とか貰えなかったの?」

「そんな簡単に仕事なんて見つかるわけないだろ……。そんなの地球でも無理だ」

「はあ? じゃあ今までどうやって生きてきたのよ。服も変わってないし、ていうかすごい汚れてるし……迅、まさかいわゆるホームレス的な……? 食事とかどうしてたの?」

「待て待て。何言ってんだよ。俺はあっちの森から、命からがら逃げてきたところなんだぜ? メシなんか食べてる余裕なかったって」

「……迅、何言ってんの?」

「いや、だから冬火こそ何言って……」

「…………」

「…………」

 互いに、どうも話がすれ違っていることには気がついていた。

 噛み合っていない。何かずれ(、、)がある。

 そして、その理由にも――あり得ないとは思うけれど――お互いに察する部分があった。

 しばし間があってから、冬火が問う。

「迅。この世界に来てから、どれくらい時間が経った?」

「……そうだね。地球で言うなら、せいぜい三、四時間ってところじゃないかな。まあ、来たばっかりって感じだよ」

「――――」

 そんな迅の返答に、冬火はただ口を噤んだ。

 険しい表情で黙り込む冬火を見た迅にも、だから、おおよその事情は察しがついた。

「……冬火は? この世界に来てから、どれくらいの時間が経ってる?」

 果たして。

 冬火は、険しい表情のままで答えた。


「――だいたい、二か月くらいってところかしらね」



     ※



 そのことを、迅や楽に告げるつもりはなかったけれど。

 当初、この異世界に落とされた青山冬火は、突然の事態に恐慌状態へと陥ってしまっていた。

 有り体に言えば、パニックだった。

 見知らぬ土地。誰ともわからない人々。二つの月。そして魔法と称される超常現象。

 そんな事態を前にして、冬火は当たり前のように動揺した。何をすることもできるはずがない。はぐれた二人の幼馴染みを捜すなんてもっての外だ。

 どうして助けに来てくれないのか。そう泣き喚くことしかできないほどに、冬火は追い込まれてしまっていた。

 頼れるもののない異世界で、冬火は自身を失った。

 そのことを責めるのは酷だろう。どれほど優秀に見えても、結局はただの高校生でしかない冬火が、なんの助けもない異世界で当たり前に適応できると考えるほうがおかしい。

 むしろ迅のように、この場所が異世界であると素直に納得してしまえる人間のほうが少数派だろう。楽の影響で、いわゆる異世界ファンタジーの様式に理解があったから、かろうじて迅は現状を許容できたのだ。

 一方、その手の物語に触れることのない冬火では、まず異世界に渡ってしまったなどという発想がそもそも出てこない。

 見知らぬ世界にひとり投げ出された冬火は、知恵も力もない、ただの孤独な女の子でしかなかった。


 彼女にとって幸運だったのは、第一に、投げ出された場所がルルアートの街の中であったことだ。魔物の跋扈する危険な森の中ではなく、安全で人の多い栄えた街の中にいたこと。それが、冬火を守るひとつの要因になった。

 だが恐慌したまま街を彷徨っていた冬火は、やがて体力も気力も尽き、道端に蹲って泣いていた。

 何もわからない。何もできない。誰か助けてほしい――。

 そんな冬火の願いを、聞き入れた存在があったのだろうか。行き倒れ寸前だった彼女は、親切な中年の夫婦に拾われた。それが、冬火にとって第二の幸運だった。

 泣き疲れ、今にも折れてしまいそうだった冬火に食事と寝床を与え、手厚く保護してくれた親切な夫妻。頼るべきもののない冬火にもたらされた、それが唯一の救いだった。

 冬火は二人に事情を伝えた。その話を夫妻はほとんど理解できなかったが、結論として《無色の迷子》であると見做された冬火に、二人は行くところが見つかるまで自分たちの家に住めばいいと告げた。身寄りのない冬火を引き取ってくれたのだ。

 そうして冬火は居候となった。商人であるという夫妻の仕事を手伝い、今はもう独立したという、二人の子どもが使っていた部屋を貰った。

 ひとたび現状を把握してしまえば、そこから立ち上がれる強さを持つのが冬火という少女の特徴だった。

 不運な境遇にもかかわらず、ひたむきに働く健気な少女。そんな立ち位置で周囲から見られた冬火は、気づけばルルアートの市場で評判の看板娘として、ちょっとした人気まで獲得するに至っていた。そこには街の人々の同情もあったのだろうが、それ以上に、冬火の気立てが人々に受け入れられたのだ。

 その立場は、冬火にとってそこそこに都合がよかった。一度、縁談まで舞い込んできたときにはさすがに辟易したが、ともあれ基盤ができたのは素直に歓迎すべきだった。

 いずれ自分から、迅と楽を捜しに向かうために。彼女がはぐれた二人の友人を捜しているということは、常連客ならば誰もが知っていた。自分と同じ境遇の人間がいないか。その情報が、市場では集まりやすかったのだ。彼女が精力的に働いた理由のひとつがそれだった。

 もっともそれ以上に、冬火は自身を救ってくれた夫妻に対し、強い恩義を感じていたのだが。

 迅がナナの助けになりたいと思うのと同じように――あるいはそれ以上に。

 冬火は、自分を温かく迎えてくれた夫妻に恩を返すより早く、幼馴染みたちを捜しに行くことなどできなかったのだ。

 そのまま二か月。冬火は異世界の果物屋で、店員として過ごしてきた。

 だからこそ、彼女が迅と再会できたとき、どれだけの驚愕と安堵に包まれたのか。

 それはきっと、本人にしかわからない。



     ※



 というようなことを、冬火は手短に迅へと話した。

 言いたくない部分――特にこの世界へ来た瞬間のことや、市場でちょっとしたアイドル扱いをされていることなど――は隠しつつ、今まで自分がどうしてきたのかを迅に伝えておく。

 詳細が省かれた話を聞いて、迅はいたく感心を覚えた。

「はー、なるほど。それはすごいな。よく二か月もの間、自力で生きていけたものだよ。本当」

「いや、別に自力ってわけじゃ……。運がよかったのもあるし」

「それでも、俺にはできそうにないからな。いやさすがだよ、マジで。楽もびっくりだろ、これは」

「……あ、あはは……」

 珍しく手放しで称賛する迅。自身の経験も踏まえれば、そうそう二か月も生きていける気がしなかったからだ。

 だがそれに、冬火は曖昧な笑みで答えるしかない。実際は、決して褒められるような行動ができたわけではなかったのだから。

 特に一時期、この世界に来た当初は酷かった。生きる気力すら失い、餓死寸前まで追い込まれていたのだ。

 ――これは絶対に迅には秘密にしておこう。

 そう硬く誓った冬火は、「それよりも」と強引に話の矛先を変える。

「来たばっかり、って言ってたけど。迅も、この街の中にいたの?」

「や、違うよ。俺はこの街の外にある、えっと、なんだっけ? そう、《結界林》ってところに出た」

「――は?」

「いや本当に危なかったんだぜ? この数時間で、いったい何回死にかけたことやら」

「……迅、結界林にいたの?」

「うん。いやー、さすが異世界だよね。魔物とか本当にいるんだもん、驚いたよ」

「――――」冬火は絶句。

 それも当然だった。彼女は周りの人間から、それこそ耳にたこができるほど警告を受けていたのだから。

 曰く、『街の外には絶対に出ちゃいけない』『特に結界林には間違っても立ち入っては駄目だ』『結界の中は魔物の巣窟で、一度踏み入ったらまず生きて出られない』――。

 そんな話の数々を、彼女は強く言い聞かせられていた。

 いや、話だけではない。冬火は一度だけ、遠巻きからだが魔物の姿を見たことがあった。

 ルルアートから続く街道に、鳥型の魔物が出たことがあったのだ。街の入口、門の付近で仕入れの手伝いをしていた冬火は、行商に来た商人が魔物に襲われているのを目撃した。

 巨大な、醜い怪鳥の姿を。

 そのとき、冬火は安全圏にいた。行商隊には魔法使いが護衛についていて、人的被害もなく魔物はあっさりと討伐された。

 だが、そのときに見た魔物のおぞましさを、冬火ははっきりと覚えている。

 姿そのものは巨大な鳥に過ぎない。にもかかわらず、見ているだけで生理的な嫌悪感を強く掻き立てる、魔物という存在の異常さ。もしも対峙しようものなら、殺されるより早く気絶するのではないかと冬火は思う。

 まして、そんな存在が群れで棲息しているという結界林になど、冬火はそれこそ死んでも入りたくない。

 というか、入ったら死ぬ自信があった。

 この世界の《魔物》とは、人類にとって絶対悪の敵なのだ。


「……どした、冬火? なんかいきなり顔青くなってるけど」

 呆然とする冬火に、楽はあっさりとそう訊ねた。

 ――自分がどれほど異常なことを言っているのか、この男はわかっていないのか。

 呆れと安堵がないまぜになった、微妙な声音で冬火は呟く。

「よ、よく無事だったわね、迅……」

「まあ、魔法も少し覚えたし。それもあって」

「魔法……? 魔法も覚えたの、迅? たった数時間で?」

「初歩の初歩だけどね。俺も、親切な人に助けてもらったんだ」

「そう……なんだ」

「うん。あ、これ秘密な? どうもあの森、本当は入っちゃいけない場所らしいから」

「そんなこと、誰にも言えないわよ……」

 冬火の言葉に、迅は満足して頷く。

 もちろん、ナナとの約束はきちんと覚えている。それを破るつもりもない。

 だから誰に助けられたのかまでは迅も口にしなかった。冬火以外の相手には、自分が森にいたという事実さえ迅は話さないだろう。

 森にいたということが、どれほどの罪に当たるのかは知らないけれど。少なくとも、自分から吹聴して回るのはまずいだろう。そう迅は考えていた。

 だから。

 結界林から生還したという事実が、この世界においていったいどれほどの異常なのか。

 それを知る機会を、迅は自ら捨ててしまっていた。


「でも、なんにしても無事でよかったわ。……本当に。心配した」

 冬火が言う。本当に、心から安堵した表情で。目には薄く涙さえ浮かべて。

 この世界に来て以来、ずっと張りつめていた心の糸が、迅との再会で切れてしまったのだ。

 気の強い冬火が、他者に涙を見せることは滅多にない。幼い頃から一緒にいる迅ですら、数えるほどしか見たことがなかった。

 だからこそ、迅は苦笑しながらも、優しく冬火に告げていた。

「別に、泣くことないだろ。こうして会えたんだから」

「うるさい、バカ。わたしがどれほど不安だったかも知らないで」

「知ってるよ。わかってる」

「わかってない」

「わかってるって。俺だって、不安だったんだから」

「…………」

 鼻を赤くして、上目遣いに迅を窺う冬火。

 迅は、冬火がこの二か月で、どれほどの不安を感じていたのかなんて想像することしかできない。

 だけど、いやだからこそ、せめて言葉だけでも、冬火を安心させてやるのが迅の役目なのだ。それは今さら再確認する必要なんてない、とても自然な事実だった。単なる当然であり、ただの当たり前でしかない。

 見慣れた少女の、見慣れない弱さ。

 それくらい、笑って受けとめてやれなくて何が友達だろう。

「ごめんな。心配かけたよな。二か月も、独りにさせて本当にごめん」

「……うん」

「もう大丈夫だから。あとは楽を捜して、三人で元の世界に帰るだけだ」

「うん」

 そんな迅の言葉に頷いて、冬火も余裕を取り戻したようだった。

 服の袖で思い切り涙を拭うと、

「――ありがと」

 そう、ぶっきらぼうに呟いた。

 迅は微笑み、頷きを返す。

「ああ」

「でもこっち見んな」

「えー、どうしよっかな」からかうように迅は言う。「こんな弱ってる冬火、たぶんもう一生見れないだろうからなー。ちょっともったいないって言うか」

「――――」すっ、と。

 冬火は無言で、握った右手を翳してみせた。

 迅は黙った。

 殴られては堪らない。

 やがて、目を伏せていた冬火が、大きな声で宣言するように言う。

「……ん。もう平気。ごめん迅、私、顔洗ってくる」

「おう。そしたら、今後のことでも話すか」

「ん……」

 決まりが悪そうに、けれど素直に冬火は頷く。そんな幼馴染みが、迅の心を温めていた。

 これを逃すとは楽の間抜けめ。

 そんなことを勝手に思いながら、ごしごし顔を拭う冬火を、迅は苦笑しながら眺めておく。趣味が悪かった。

 ――と、


「トウカ、入るぜ!」

 こんこん、というノックの音が突然、部屋の中へと響き渡った。

 その音に迅は振り返る。その先で、返事を待つこともなく、部屋の扉が開くのが見えた。

 そして。

「おうトウカ、大丈夫か! さっき襲われたって聞いて、オレはもう気が気じゃなくてよう――」

 姿を現したのは、ひとりの中年の男だった。

 いかにも中年のオヤジ然とした男だ。ぼさぼさした、くすんだ鼠色の短い髪。切れ長の左目は濃い青の色をしている。その体格は並、だが身長が高い。たぶん二メートル近いのではないかと迅は思った。まるで針金のように思えるが、どちらかといえば曲がりやすい、柔らかい針金のそれだろう。

 特徴的なのは、その右目を覆う眼帯だった。先程見たあの雑貨屋の親父のように、体格から感じる威圧感はない。にもかかわらず眼帯のせいで、むしろあの親父より強面の印象を与えている。

 男は、眼帯のない左の目で部屋の中の様子を一瞥。

 そして、その切れ長の左目を大きく見開いた。

「誰だ、テメエ」

 言いながら、男は後ろ手に扉を閉める。

 これ閉じ込められてないか、と見ていた迅は狼狽だ。

「え……いや……」

 誰だと訊かれても。むしろそちらがどなたですか、と迅はぽかんと思っていた。

 男は迅の返答を待たず、続けざまに言葉を放つ。

 強く敵意が籠められた言葉を。

「いや、テメエが誰かなんてどうでもいい。ただひとつ聞かせろ」

 威圧のある怒声ではない。言葉遣いは荒かったが、その声音は静かなものだ。

 だが、静かであるからこその威圧感が、迅には強く感じられてならない。

「は、はあ……?」

 狼狽える迅。それにかまわず、男は言う。

「訊くぜ。――ウチの娘を泣かせたのは、テメエか?」

「え」

 ――ウチの娘? 何それ、冬火のこと言ってるの?

 目を白黒させる迅は、弁解すればいいものを、間抜けにも正直に答えてしまう。

「いやまあ、そういうことになるんでしょうけれど」

「よし。――死ね」

「うぉわぁ!?」

 いきなり振るわれた拳を、迅は反射的に回避していた。

 咄嗟に、魔力を身体に通わせて。

 無意識でも魔力を制御できるように、というナナの教えを、迅はこんなところで実践していた。

「な、な、何すんだアンタいきなり!? 今、思いっ切り、殺す気で殴ってきただろ!?」

「当たり前だ。トウカを泣かす輩に、生きてる価値があると思うのか? 何しやがった。あれか、トウカの可愛さにやられて、まさか襲いかかったんじゃねえだろうな? ――テメエなんて真似を!」

「いや待って待って待って待って!? 何勝手な想像でキレてんの!?」

「テメエ、トウカに襲うような魅力はないと!?」

「いや、これそういう話じゃなくね!?」

「じゃあ襲ってんじゃねえか!」

「話聞け――!」

 どこか漫才じみた掛け合いだったが、当事者の迅としては冗談になっていない。

 何が冬火を襲うだ。襲われているのは俺のほうじゃないか。

 狼狽しつつも、なんとか誤解を解こうとする迅だが、相手に話を聞く気がないのではそれも無理だ。ならもういっそ反撃するか、とまで迅は考える。

 救いは、そこで冬火からもたらされた。


「おじさん。違います。その人は、私の友達」

「おっと、そうだったのかい。それを早く言いなさい。はっはっは、危うくブッ飛ばすところだったよ」

 謎の闖入者は、そう笑い顔で宣った。

「一瞬!?」

 思わず突っ込む迅である。変わり身が早すぎだ。

 呆然とする迅の目前で、先程までの激昂をいったいどこへと捨てたのか、一瞬で落ち着いた男が、迅に向けて笑顔で手を差し出す。

「そんなわけで、トウカが世話になったみたいだね。ありがとう、少年」

「え……? はあ、どうも……?」

「祭りが近いからだろうね。最近、どうも街に怪しい人間が多いみたいなんだ。トウカが危ない目に遭うのは、私としても避けたいところなんだけれど……」

 男は迅と握手を交わしてから、その視線を冬火へと向ける。

 冬火は呆れたように溜息をつきながら、

「私だけサボってるわけにはいかないじゃないですか。今は忙しい時期なんですし、人手は必要でしょう」

「と、このように聞く耳を持たなくてね。君からも何か言ってくれないか?」

 そんなことを言いながら、男は眼帯をさらっと外している。

 その下には普通に眼球があった。こんな小道具はもう要りませんとばかりに、男はそそくさと眼帯を懐の中に仕舞う。

 その変貌ぶりに、ようやく追いつき始めた迅は、少し引きながらも言葉を作る。

「……なんか、さっきまでとキャラ全然違いません?」

「ん? はっはっは」

 男はやはり胡散臭い表情で、胡散臭い笑いを返すだけ。

 代わりに迅へ答えたのは、呆れたように頭を抱える冬火だった。

「……こういう人なのよ、迅。悪戯好きっていうか……楽みたいな人なの」

「じゃあ、さっきのアレ、わざとですか……?」

 驚愕して訊ねる迅に、作ったように胡散臭い笑みで男は言う。

「はっはっは。魔力を感じたからね、あれくらいはできると思ったのさ」

「……失礼とは思いますが、言ってもいいですか」

「ん、なんだい?」

「――頭おかしいんじゃないですか?」

 痛烈に罵倒する迅。だが男は、それすら笑って受け流した。

「はっはっは。――君が、トウカの探し人なのだろう?」

「え……?」

「私はこれでも、これまでトウカを守ってきたという自負があるからね。娘のように可愛い子を、なんと二か月も待たせてくれた男に、少しばかり意趣返ししてみたくなったのさ。悪かったね」

 お面を被ったみたいな笑顔のまま、男はそんなことを呟いた。

 それを言われては反論できない。だから代わりに、迅は訊ねてみることにした。

「じゃあ、貴方が」

 路頭に迷っていた冬火を、助けた商人だったのか。

 気づいて呟いた迅に、男はやはり、作ったみたいな笑顔で言う。

「さて、挨拶といこうか。――私の名は、アラム=ヴェルマニー。この街で商いを営んでいる」

「……どうも。明星、迅です」

「ふむ。ジン、というのが名前かな?」

「あ、はい」

「そうか。君もトウカと同じく、何かの事件に巻き込まれているみたいだね?」

「えっと……そうなるんですかね。よくわかってないんですけど」

「なるほど」

 と、瞬間、張りつけたような笑みが消え、アラムの表情が真顔に変わる。

 その変化に目を見開いた迅だが、何かを言う前にアラムがまた表情を笑顔に戻す。

「ただ申し訳ないけれど、その話はあとだ」

「えっと……はい?」

「ジンくん。それとトウカ。君たちに客が来ている。応対してもらえないかな」

「……誰ですか?」

 訊ねたのは冬火だった。

 アキムは「うん」と頷き、そしてから、扉の方向へと向き直って、


「――お待たせして申し訳ない。どうぞ、入ってきてください」


 そしてまた、扉が開く音がした。


「――――――――」その瞬間。

 迅は、時間が止まったかのような錯覚を覚えた。

 アラムの言葉に、誘われたように姿を現したひとつの人影。それが迅の時間を止める。

 呼吸の仕方がわからなくなった。ただ吸い込まれるかのようにして、迅の視線の全てが縫い止められた。全てを埋め尽くされたと、そんなことさえ思った。

 姿を現したのは、ひとりの少女であった。

 水のような少女だ、と迅は思った。

 何より目を惹くのは、その淡い水色の長髪だろう。さらさらと透き通るように柔らかい髪は、澄んだ小川の流水を思わせる。けれど円い瞳は、髪とは違って深い蒼。たとえるなら、母なる海に似ているだろうか。

 年の頃は、おそらく迅や冬火と同じくらいだろう。ただその佇まいは、とても同年代とは思えないほど洗練されている。

 見目を引く少女だ。着ている服装が派手なわけではない。造形は凝っているが、決して無暗な華美さは感じられない。質素な服装だが、着る側の素材がよすぎるのだろう。

 彼女が現れた瞬間、狭く薄暗い部屋が、まるで舞台のような彩りを帯びた気がした。そんな錯覚を感じるほど、少女の美しさは迅の理解を超えていた。

 その衝撃に、けれど迅は覚えがあった。

 そう、ナナと初めて出会ったときに抱いた感覚と、とてもよく似ていたのだ。

 明らかに別人だ。目の色も、髪の色も、体格も纏う雰囲気も、ナナと共通する箇所はひとつもない。

 それでも、どこか似た印象を覚えるのが迅には不思議でならなかった。


「申し訳ないね、ヴェルマニーさん。わたしのわがままで、時間を取らせてしまって」

 少女が、口を開く。その小さく赤い唇を、そっと動かすのが見えた。

 まるで澄んだ晴れ空を思わせる、清涼な色の声だ。

「いえ。ご心配には及びません。――では、私はこれで」

 それだけ言うと、アラムは一礼してから部屋を出て行った。

 ぱたり、と扉が閉められて、それと同時に冬火が言葉を舌に乗せる。

「ネ……ネイア。どうしてここに?」

「こんばんは、トウカ。三日振りだね」

 嫣然とした笑みで、けれど悪戯っぽく少女が呟く。

 冬火はどこか困ったような微苦笑で、

「あ、あはは。そうですね……」

 などと呟いていた。

 迅は完全に置いてけぼりだ。蚊帳の外に置かれたまま、二人の会話を聞いている。

「襲われたと聞いたけれど、怪我はないかい?」

「あ、はい。というか、別に襲われたってわけじゃ……」

「うん。まあ無事で何よりだよ。それよりも――」

 と、少女の蒼い瞳が、迅の方向へ向けられた。

 何も言えず、ただまっすぐと迅は少女の瞳を見つめ返してしまう。

 すると、どうしてか少女はわずかに微笑。

 そしてから言った。

「そちらの彼を、わたしに紹介してくれないか?」

「え、えっとぉ……」

 冬火は困りきった笑顔を迅に向けてくる。

 ――どうにかして。

 そう、アイコンタクトで迅に伝えたのだ。

 ――いや、俺には何がなんだか。

 迅もまたアイコンタクトでそう返した。だって意味がわからないから。

 そんな様子を、けれど目の前の少女はしっかりと見ていたらしい。

「仲がいいな。羨ましいよ」

 そんなことを言って、ますます冬火を恐縮させていた。

 ――どうしよう。何か言わないといけないみたいだ。

 冬火を横目に、迅はそう考える。よくわからないけれど、とりあえず挨拶くらいはするべきだろうか。

 しかし少女の名前を迅は知らない。先程、名前らしき音は聞いた気がするが、生憎と覚えられなかった。

 だから――訊ねた。


「えっと……どちら様で?」


 その瞬間、少女はきょとんと目を丸くした。

 同時、迅のふくらはぎを、痛烈な蹴りが撃ち抜いていく。迅の斜め後ろに立っていた冬火による、「バカ空気読めっ」という意味合いの蹴りだ。

 ――あれ、何か間違ったか?

 そう思って狼狽える迅の目の前で少女は、くすり、とわずかに微笑んだ。それから冬火に目をやると、少女は「しーっ」とばかりに唇へ人差し指を立てるジェスチャーをする。

 なんだ今のは、と迅が思うのも束の間。少女は迅へと頭を下げて、

「すまないね。名を訊ねるならば、先にわたしのほうが名乗るべきだった」

「え? ああ、いや。別にいいけど」

「ありがとう。名乗らせてもらっても、構わないだろうか」

「……どうぞ」

 流されるままに呟く迅。背後から、冬火の狼狽える気配が伝わってくる。

 だがその意味合いもわからない迅は、ただただ、少女の名乗りを受け身で聞いていた。


「――わたしは、ネイアリア=ウェアルルアという。親しい者は皆、わたしのことをネイアと呼ぶ」


 迅は返答した。

「それはご丁寧にどうも。俺は、えーっと、ジン=アケホシだ。よろしく、ネイア」

 そう言って右手を差し出す迅。その掌を、水色の髪の少女は――ネイアは、きょとんとした表情で見つめていた。

 ――ああもう、この馬鹿っ。気づけっ!

 という声が背後から聞こえたが、その意味が迅にはわからない。何かおかしいことをしただろうか。

 わけもわからず呆然としていると、

「――ああ、よろしく」

 ふと、その手を握る感触があった。

 一方、背後では冬火が頭を抱えているのがわかる。

 意味もなく冬火はそんな反応をしない。自分が、何か盛大に間違ったことをしているという危惧だけを迅は抱いていた。だがいくら考えても、その答えが見つからない。

 ただなぜだか、悪い予感だけは強く感じている。


「さて――ジンと呼んでも?」

 ネイアが訊かれ、迅は頷いた。

 するとネイアは悪戯気な微笑を浮かべながら、続けて迅に問いを投げる。

「ジンは、ウェアルルアの名前を知らないようだね」

「んー……いや、なんでか聞き覚えはある気がするんだけど……」

「いや、いいんだよ。好都合なくらいさ」

 なぜか満面の笑みでネイアは言う。いったい何がそんなに楽しいのか。

 首を捻る迅。その背後から、おそるおそる冬火が口を出した。

「……すみません。常識がないんです、こいつ」

「おい」

 突っ込む迅だが、冬火は無視。ネイアは微笑し、

「いいのさ。前から言っている通り、トウカにも敬語は使ってほしくない」

「そう言われましても……」

 曖昧に笑む冬火。

 そこから、迅はひとつのことを察して、それを疑問として言葉にする。

「もしかして。ネイアって、なんか偉い人?」

「……そういうレベルじゃないわよ、バカ」

「んん……?」

 迅にはいまいちわからない。それは異世界で二か月を過ごした冬火とは違い、迅にはまだこちらの身分制度がまるでわかっていないせいでもある。

 ただ、それにしても察しは悪かった。

 おそらく、ナナという少女を、迅が知っていたせいもあるのだろう。迅にとって、ナナが異世界人の基準なのだ。それとよく似た気配の少女に、ナナと大差があるとは考えなかった。

「もういいですよね」冬火が言う。

 ネイアはそれに、楽しげな笑顔で「うん」と頷いた。

 迅は冬火に向き直り、彼女の言葉を待つ。

 そして、

「――ウェアルルア家は、ルルアートに城を構える大貴族で、シュルツ州の代表貴族でもある」

「……は?」

「――その起源は、ヴァルシュ連合国シュルツ州が、まだシュルツ王国というひとつの国家だった百八十年前まで遡る」

「え? は?」

「――それは即ち、ウェアルルア家が、かつてのシュルツ王国を統べていた王族であることを意味する」

 まるで歴史の教科書を読み上げるかのような口調で、淡々と告げる冬火。

 その言葉の意味が徐々に浸透していくにつれて、迅の表情はだんだんと青褪めていく。

「おい――まさか」

「そのまさかよ」

 冬火は、まさしく阿呆を見る目を迅に向ける。

 阿呆に現状をを教えるために。冬火は、淡々と言葉を発した。


「ネイアは王族の末裔――正真正銘の、お姫さまってこと」


「…………」

 絶句して、迅はネイアの顔を見る。

 ネイアは微笑して、繋いでいる迅の手を、繋いだまますっと目の高さまで上げた。

 そして心底から楽しげに、


「――不敬罪だね、ジン。打ち首になっても文句は言えないよ?」


 なんて、そんなことを宣うのだ。

 迅は泡を食って狼狽した。そもそも現代日本人の迅にとって、身分制度は馴染みがない。この程度のことで打ち首獄門になるとは、迅はまったく考えていなかった。

 だから、

「あの……も、申し訳ありませんでしたあ――!」

 迅は――思いっきり土下座した。

 異世界人に土下座が通用するのかはわからない。だが泡を食って慌てる迅は、そんなことに気づきさえしなかった。

 プライドなんて知ったことではない。そんなことより命が大事。せっかくあの森を生き残ったのに、死ぬのだけは絶対に嫌だ。

 見事なまで情けない迅を見て、冬火は盛大に溜息をつく。

 そしてネイアは、

「ふ――ははっ、あははははははははっ!」

 と、これまた思いっ切りの大笑いを見せていた。

 ひいひいと呻きながら、腹を抱えてネイアは身を捩っている。

 ぽかん、と迅は間抜けに目を見開いた。

「ふふっ……ああ、おかしい」涙すら浮かべてネイアは言う。「冗談だよ。こんなことで、死罪になんてなるわけがないだろう」

「へ……?」

「トウカも言っていたが、ウェアルルアが王族だったのは、もう百年以上も前のことだ。今のわたしは、しがない地方の一領主でしかないのだよ」

「いや、それはそれで違うと思いますけどねー……」

 小声で冬火。だが迅はもはや聞いてすらいない。

 呆然とした表情でネイアに訊ねる。

「えっと――じゃあ、俺、からかわれたってこと……?」

「そうなるね」

「……マジ、かよ……っ!」

 そのまま迅は、床へと思いっ切り崩れていった。

 本気で殺されるかと思ったのだ。

「……いや、騙されるほうもどうかと思うけど」

 端的に冬火が言うが、迅は無視した。ふざけんな、と。

 代わりのようにネイアが口を開く。

「まあ、とはいえ――今でも貴族なことに変わりはないのだけれどね」

「うえぇっ!?」

「どうしようかな。不敬罪で罰することが、できないわけじゃないのだけれど……」

「……何が目的だよ……!」

 もう不敬なんて知ったことか。開き直って迅は叫ぶ。

 と、迅の言葉を利いたネイアは、ぱん、と乾いた柏手を打った。

「――それだ」

「え?」

「その話し方だよ。わたしに、敬語は使わないでほしい」

「……なんで?」

「貴族というだけで、意味もなく気を使われ続けて生きるのも、それはそれで息苦しいものだよ?」

 だから、とネイアは微笑んで。

 おそらくは生来のものなのだろう、悪戯っ子じみた笑みで言う。


「――だから、わたしに対して、敬語を使うことを禁じるよ」


「……ネイア」

「でなきゃ不敬罪で、牢屋に入れてしまうからね?」

「普通……逆だろ、それ」

 脱力して、溜息とともに迅は言った。実質の敗北宣言だ。

 一方のネイアは楽しげな笑顔で、だから迅は、せめてもの反抗を試みた。

「――とんだお転婆姫だな、お前」

「うん、いい不敬だ」

 ネイアは、ただただ嬉しそうだった。

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