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1-04『別離と再会』

 閉じた瞼の向こう側から、わずかな眩さを感じて、迅はゆっくりと目を覚ました。

 身体に伝わるゆるやかな振動が、まるで揺り籠のように感じられる。疲れた身体を優しく包んで癒すかのような、心地のいい断続的な揺れだ。


「……ジン?」


 微睡みで満たされた迅の意識に、ふと柔らかな声が伝わった。

 柔らかな中に芯のある、強い音色の声だった。

 その呼びかけに聞き覚えを感じた迅は、ゆっくりとその声の方向に目を向けた。

「ジン……! よかった、やっと目を覚ました!」

「……ナナ、か?」

 視界に映った白い長髪と、水晶のように碧い瞳。見覚えのあるそんな容貌に、迅は自然と言葉を作っていた。霞がかったように鈍化していた意識がじわじわと覚醒し始めて、次第に記憶が蘇る。

 自分が異世界に転移したこと、そこでナナに命を救われたこと。

 そして――ナナと一緒に神獣との戦いに臨んだこと。

 様々な記憶が渦を巻き、しっちゃかめっちゃかになって脳内で暴れ回っている。

 その断片を繋ぎ合わせた迅の思考は、そこでようやく現状へと追いついた。

「――っ、アイツは――!?」

「心配ないよ、ジン。もうすぐ森を抜けるところ。金狼は、追ってきてない」

 慌てて訊ねた迅へ向け、ナナは静かに返答する。

 その返答を咀嚼して、嚥下することで消化した迅は、ナナへと静かに問いを重ねた。

「……撒いた、のか?」

「どうかな。たぶん単純に、追ってこなかったんだと思う」

「そう……か」

 どうやら自分たちは、なんとか命を拾ったらしい。

 その事実を認識した瞬間、迅の身体をどっと疲れが襲った。気絶していた間は、魔力を身体に流していなかったのだから。貫き通した無茶の反動が、きっちり全身へ響いている。

 ――よかった、助かった。

 疲労と安堵を全身で感じていた迅は、そこで身体に感じる揺れの原因に気がついた。

「ナナが、ここまで運んでくれたのか?」

 迅は訊ねる。いや、それは疑問ではなく確認だった。

 なぜなら現在、迅は走るナナの腕の中に抱えられているのだから。

「そうだよ? ジンってば、突然倒れるんだから。私が運ぶしかないじゃない」

 答えるナナの顔が、覗き込むように迅を見ている。

 ――この体勢は、いわゆるひとつの、お姫様抱っこというヤツでは……?

 そう思い至った迅の頬が、にわかに朱を帯びていく。

「お、降ろしてくれ、ナナ。もう大丈夫だ!」

 というか、この体勢は恥ずかしすぎる。まさか高校生にもなって、こんな風に抱えられてしまうなんて。

 しかも相手は自分より小さな女の子ときた。確かにナナならば迅ひとりを運ぶ程度、苦労もなく行えるだろうけれど。

 それにしたって、普通は逆の立場だろう。この体勢で運ばれるのは、男してそこはかとなく屈辱だ。

 何より、ナナが近すぎる。顔も――それに、慎ましい胸も。

 羞恥心と、なんだかよくわからない青少年的な感情を刺激された迅だったが、この格好では赤らむ顔をナナから隠すこともできない。早急に降ろしてほしかった。

 だが、そんな青少年の心の機微は、ナナには伝わらなかったらしい。

「ダメ。まだ降ろさない」

 あっさりと、迅の要求は却下されてしまう。

「な、なんでさ。ナナも怪我してるんだ、あんまり負担をかけるわけにはいかないだろ?」

 思わず訊ねた迅に対し、ナナは坦々と呟き返す。

「だいじょうぶ。怪我はもう魔法で治してる。魔力のほうも、勝手だけど、ジンから少し貰ってる」

「ならどうして――」

「――ジン。自分が、どれだけ無茶したかわかってるの?」

 ナナが告げた返答には、予想だにしない色が含まれていた。

 傷ついた迅を慮る色。それが含まれているのがわかる。だがそれだけじゃない。迅は思わず言葉を失い、ただナナの瞳を呆然と見遣った。

 見下ろすようなナナの視線。そこにはどこか、強い熱が籠められている気がする。

 というか。ナナは、明らかに怒りの感情を露わにしていた。

「……え? ナナ――さん?」

 思わず敬称をつけてしまう迅。だって意味がわからない。

 せっかく二人とも助かったのに。どうしてナナは、自分へ怒りを向けているのだろう。

 わけもわからず訊ねる迅。

 その言葉は、しかしナナの怒りをさらに刺激してしまった。

「この――大ばかジンっ!」

 天すら貫こうかというナナの怒声。それが迅の鼓膜を盛大に揺さぶり、その肉体を硬直させる。

 怒髪天を突く、とはまさにこのことか。その迫力はは、もはや金狼さえ超えているのではないかと迅に思わせるほどだった。

 できれば今すぐにでも逃げ出したい。そう思う迅だったが、抱えられているためそれもできない。

「あんな風に魔法を暴発させて! どれだけ危険だったかわかってるわけ!?」

「いや、そんなこと言われても……」

「わかってるのかって訊いてるんだけど!!」

「わかってません、ごめんなさい!」

 ほとんど反射で迅は叫んだ。反抗の意志は完全に挫かれている。

 迅は知っていた。こういう風に怒らせた女性には、決して逆らってはならないのだと。主に冬火を経由して、迅はそのことを学習している。

 とはいえ、それは決して慣れているということを意味しない。

 迅はただ、盛大にびびっているだけだった。

 ナナは怒りのままに言葉を続ける。

「魔力制御の練習したとき、暴発しかけたのを忘れたわけ?」

「覚えてます、すみません」

「なら魔法が危険だってくらい想像つくよね?」

「つきました、すみません」

「じゃあどうして――」

 ナナはそこで、大きく息を吸い込んだ。肺が空気を貯め込んで、小さな胸が少し膨らむ。

 その様子を、迅はすぐ近くで目にしていた。

 だからだろう。

「どうしてあんな自爆みたいな形で、魔法を発動させたりするの!?」

「――――」迅は。

 ナナの瞳が、少しだけ潤んでいることに気がついてしまった。

「あんなこと……しないでよ」

 抱えている迅の胸に顔をうずめるようにして、ナナが迅へとそう言った。

 懇願に近いその言葉が、迅の心を締めつけている。

「……ごめん。ああでもしないと、俺には、アイツを止めることさえできなかったから」

「わかってるわよ、そんなこと」

「そうだね。ごめん。うん、心配かけて――ごめん」

「……ううん」とナナは小さく零す。「私こそ、ごめん。ジンのこと、危険な目に遭わせて」

「お前だって、バカじゃねえか」

 迅はそう告げて小さく笑い、ナナの白い髪へと手を伸ばした。

 柔らかく、絹のように美しい長髪に触れる。

「なんでナナが謝るんだよ。俺が礼を言うならともかく」

「……ジン」

「気にするなよ。――ありがとう。ナナのお陰で命を拾った。この恩は、死ぬまで絶対に忘れない」

「別に……恩なんて。私だって、ジンに助けてもらったのに」

「そうかな。まあ、そういうことにしておこうか。俺たちは助け合った。それでいいだろ?」

「でも……」

 苦笑しながら告げる迅だが、ナナはどこか納得いかない様子だ。

 責任感が強いのだろう。まるで冬火みたいだと、ここにはいない友人のことを迅は思い出していた。

 だから。その言葉を伝えることに、迅はまったく抵抗を覚えなかった。

「俺、言ったよな。恩は必ず返すって」

「……うん」

「あれ、やっぱり取り消してもいいか?」

 迅は言う。言いながら考えていたのは、冬火と楽のことだった。

 幼い頃からずっと一緒にいる、家族同然の二人の友人。

 迅は別段、自分のことを善人だとは思わない。かといって悪人だという自覚も持っていないが、あのときナナを見捨てようとさえ考えた自分のことを、善人だなどとは口が裂けても言えなかった。

 ただ、もし仮に迅が、自身の命を棄てることで、冬火や楽の命を救えると仮定する。そんな事態に陥ってしまったとする。

 そのときは、きっと迷わず死んでみせるだろうという自信が迅にはあった。もちろん、そうならないために最大限の努力をする意志もある。けれどどうにもならないと思ったら――きっと自分を犠牲にしてでも、冬火と楽を選んでしまう。それくらい、迅にとって二人の存在は大きかった。

「でも俺は、あの二人以外なら、きっと見捨てるんだろうと思ってたんだよなあ……」

「……ジン?」

「ほら、やっぱ降ろしてよ、ナナ。俺が今からいいこと言うから。でもそれ、この体勢だとまったく決まらないから」

「え、あ、うん……?」

 突然に妙なことを言い始めた迅に、ナナは押され気味で頷いた。

 どこまで人が好いのだろう。どれだけ突き放すようなことを言っても、根っこの部分でナナは持ち前の素直さが隠せていない。それこそ、いっそ愚直ですらあるほどに。

 地面に降りた迅は笑顔だ。

 命を助けられたから、なんてことは言ってしまえば些末な問題だ。

 そんなこととは関係なく、迅は、彼女と出会えたことを嬉しく、誇らしく思っていた。

 だから告げる。

「なあ、ナナ。――俺と、友達になってほしい」

 きっと彼女とも、いい友達になれると思ったから。

「……とも、だち……?」

 ナナは、ぱちりと目を見開いてそう零した。まるで、そんな単語は初めて聞いたとでも言わんばかりの表情で。目を丸くして、少女は迅を見つめていた。

 そんなに驚くことだろうかと、苦笑しつつも迅は続ける。

「ああ。友達同士なら、ほら、助け合うのなんか当たり前だろ? だから重荷に思う必要なんてない。俺たちは、当たり前のことをしただけなんだから」

 以前どこかで、誰かに言われた受け売りを、迅はそのまま言葉にしているだけだった。

 友達同士なのだから。助け合うくらい、当たり前だと。

 いつだったか。一人きりでいた迅に、そんな当然を教えてくれた、二人の友人を思い出して。

 それを世界へと誇るように、迅は言葉を作っている。

「考えてみればさ、今は俺、この世界のどこにも友達がいないわけだろ? うん、だからできれば、ナナが最初の一人になってくれれば――俺は嬉しいと思うんだよ」

 照れの感情を隠すように、顔を逸らして迅は言う。

 こんな言葉を口にしたのは、いったいいつ以来だっただろう。この歳になって改めて、そんな言葉を口にすることがあるなんて迅は考えもしていなかった。

「ともだち……か」

 ナナが言う。まるでその言葉を舌の上でゆっくりと味わうように、小さな声で呟いて。

 それからにわかに、そして静かに、少女はくすりと微笑んだ。年下のわがままに呆れを覚える、優しい姉のような表情で。

 ナナは言う。

「……私にも、ともだちはいないからわからないけれど」

 ちょっと返答に困ることを言いながらも。

 迅は、ナナに笑顔を作った。

「ともだちなら、助け合って、当然なんだよね?」

「もちろん。当然のコトだ」

 高校生にもなれば、誰かに『友達になってほしい』だなんて、そんな確認はいちいち行わない。

 会って、話して、気が合えばそれでつるんだりもするし、疎遠になればそれきりだ。思い返せないほどずっと昔にしか、迅はその言葉を口にしていなかった。

 けれど――決して悪い気分でもないのだ。

 だから迅は笑っていた。ナナもまた苦笑とともに言う。

「でもやっぱり、あんなことはもうやめてよ? ジン、あんまり魔法に対する感覚は鋭いけど――でも、体質がそれに見合ってないから」

「ん……? どういう意味?」

「魔法はね、失敗することはあっても、暴発することなんてほとんどないんだよ」

 ナナの言葉に、首を捻りながら迅は問う。

「……俺は二回も暴発したんだけど」

「たぶん、迅は一度に放出できる魔力の量が多いんだと思う。出口が広い、って言えばいいのかな? それは一度の魔法にたくさんの魔力を籠められるって意味だから、何も悪いってわけじゃないんだけど……」

「なら何が駄目なのさ」

「制御しきれてないうちは、危なすぎるってこと。自分の魔法で自分を傷つけるなんて、魔法使い失格なんだから」

「……なるほど。了解したよ、師匠」

 肩を竦めて迅は頷く。

 実際、そうそう何度も自爆したいわけがなかった。

 というか二度としたくない。

「なんにも教えられてないけどね。これからも魔法を使いたいなら、ちゃんと習ったほうがいいと思うよ」

 ナナが言う。迅は「考えておくよ」と頷きを返した。

 友達同士に相応しい、それが、当たり前の会話だと迅は思う。


 ――異世界における、初めての友達ができた。



     ※



 金狼から逃れた迅とナナは、そしてついに、森の終わりへと辿り着いた。

 迅が気絶していたのは、せいぜい十分程度のことらしい。ただ、迅を抱えたまま全速力で駆け抜けたナナが、街への距離をほとんど詰めていた。

「最初から、迅を抱えて走ったほうが速かったかもね」とは、ナナの談だ。

 もっとも金狼がいた以上、ナナの両手を塞ぐのは悪手だった。結果論的には、僥倖だったと言えるだろう。


「――着いたよ」と、ナナは迅に振り返る。「向こうに見えるのが、ルルアートの街」

「……凄い景色だな」

 遠くに見える景色を前に、ぽつりと迅はそう零した。

 ――まさに、中世西洋風の街並み。

 そう表現してしまうのが、最もわかりやすいだろう。物語的な異世界ファンタジーに相応しい、圧倒の景色が広がっていた。

 初め、迅はそれが街であるということが素直に納得できなかった。映画のセットとか、何かのテーマパークだとか、とにかく現実ではない、作り物のようにしか迅の目には映らなかった。

 石で築かれた城壁。その上から、豪奢な尖塔が覗いていた。あのいちばん背の高い建物は、たぶん教会ではないだろうか。目を惹く造りでありながら、荘厳かつ瀟洒な佇まいをしている。突端に設えられた十字架が、周囲にその聖性を誇示している。

 そんな建物が、街の至るところを埋め尽くすように続いていた。

 もちろん粗末な建物もある。煉瓦造りの壁はひび割れ、粗末な木戸など、ちょっと強く蹴り飛ばせばそれだけで破れてしまいそうなほど小さな家だ。場所によってはツタが蔓延り、まさに街外れという感がある。

 ただ、それを含めてさえ美しい街だと迅は思った。

 観光都市とさえ言えない。それこそ意図的に保存された、たとえば世界遺産でもなければ、地球でこの街並みは眺められないだろう。

 無論、こんな放棄されたみたいな森の周辺だと、さすがに人通りも少ない様子ではある。街の全体図もいまいちつかみづらい。

 それでも、そんな場所から見てもわかるくらい、ルルアートの街は迅の常識を超えていた。


「まあ、これでもシュルツの州都だからね。大きな街だよ。世界中でも、上から数えたほうが早いくらい」

「なるほど……」

 ナナの説明に、迅は小さな頷きを返す。

 もちろん迅には、彼女の言う《シュルツ州》とやらがいったいどのような行政区分なのかはわからない。

 ただそれなりに大きく、栄えた国の中にあるということは納得した。

 ――文明のレベルは、まあ、まさに中世くらいって感じかな……。

 美しい街並みに圧倒されつつも、しかし迅は、そんなことも冷静に考えている。

 見える建物は、木製か、あるいは煉瓦造りがほとんどだ。森から街へと続く道も、舗装されてはいるものの、コンクリートではなく石畳である。

 ――電気もガスもないだろうな。燃料は木炭か、よくて石炭ってところか? でも蒸気機関があるような気配はあんまり……産業革命よりは前って感じか。下水道くらいは整備されててもいい気がするけど、いずれにせよ科学技術はそう発展してないかな。問題は、魔法がどれくらい生活に影響しているかだけど、その辺りは出たとこ勝負かな――

 などと、そんな考察を迅は働かせる。

 もっともそう意味のある考察ではなかった。別段、迅は歴史に詳しいというわけではなかったのだから。高校レベルの世界史知識――それも、そのかなり浅い部分程度しか、迅は記憶していなかった。

 こんなことなら、もう少し真面目に授業を受けていればよかった。と、そう思う一方、学校で習う程度のことがどのくらい役に立つものか。そんな疑問も抱いていた。


 結局、迅はその辺りで文明についての考察を中断する。

 馬鹿の考え休むに似たり。こんなところであれこれ考えているよりも、実際に目で確認したほうが遥かに早いと気づいたのだ。

 それよりも、今は街に行くほうが先決だろう。

「送ってくれてありがとう、ナナ」

 迅は言う。本当に、心からの感謝を告げたつもりだった。

 ナナはわずかに首を振り、

「ううん。それより、ごめん。私には、ここまで送ってあげることしかできないから」

「贅沢は言わないけど。それよりナナは、これから?」

「私はこれから、ちょっと知り合いを捜さないと。あの森に金狼が出たことについて、相談しないといけないから」

「……あれ。ナナは、この街に住んでるわけじゃないの?」

 今さらのように迅は訊ねる。

 友達、などとは言ってみたものの、思えば迅がナナに関して知っていることは少ない。

 それ以上に、この世界に関しての知識もほとんどないのだが。

 気になった迅は、そう、なんの気もなしに訊ねていた。

「……違う」果たして、ナナは言う。「私は、この街には入れないの」

「……、……」それはいったいどういう意味なのか。

 そう訊ねようとした迅は、しかしその直前で口を噤んだ。

 ナナの表情が、追及を躊躇わせるほど重いものだったということもある。

 だがそれ以上に、迅自身、不可解ではあると思ったのだ。

 そもそも、ナナはどうして、こんな危険な森の中にいたのだろうか。

 今さらな疑問ではある。まさか、あの小屋に住んでいるというわけではないと思いたいが。

 しかし、ならばそもそもあの小屋自体、なんのために建てられたというのだろう。

 ――そのことを。

 安易に考えてもいいものだろうか――。


「……じゃあ、ここでお別れかな」

 結局、迅はそう告げるに留まった。

 何か事情があるのだろう。異世界から来たという背景を迅が持つように、ナナにもまた、複雑な背景があって不思議じゃない。

 それを追求しようとは考えなかった。そもそも現状、迅は自分が異世界から来たということさえ秘密にしているのだから。それを棚に上げて、ナナの事情を訊き出そうなんて思えない。

「ありがとう、ナナ。この恩は、いつか必ず」

 迅はそう言って、ナナへ右手を差し出した。

 出会いのそれではなく。

 今度は、別れの挨拶を求めて。

「……ともだちなんだから、助け合うのは当然じゃなかったの?」

 ナナはそう言って、苦笑しながらも迅の手を握り返した。

「それはそれ、これはこれだよ」

「何それ」

 肩を竦めて嘯く迅に、ナナは苦笑を零して言う。

 強く握られた右手。迅はそこに、温かな繋がりを感じた気がした。

 ふと、その手に何か硬い感触を感じる。

「これは?」

 訊ねる迅。手を開いてみると、そこには数枚の金貨があった。

 そっと手を離してナナは告げる。

「当面のお金。大した額じゃないから、考えて使ってね?」

「いや……さすがに受け取れないよ。そこまで世話になるわけには」

「でもジン、今は無一文だよね?」

「まあ、それはそうだけど……」

「これからどうするつもりなの?」

「…………」答えられない。

 そんなこと、思いつくはずもなかった。

「ともだちでしょ? なら、これくらいはさせてよ」

「友達だからって、それに甘えるわけには……」

「それはそれ、これはこれでしょ?」ナナは苦笑する。「いいから受け取って。これくらいしないと、私の気が済まないの」

「……ありがとう」

 結局、深く迅は頭を下げて、ナナの心づけを受け取った。

 いつか絶対に、倍にして返すと心に誓って。彼女の優しさに、報いることができ日を願って。

 そんな日が来ればいいと、心から迅はそう思う。

「どうなるかはわからないけど、何もなければ俺はたぶん、しばらくこの街にいることになると思う。……ナナも、この辺りにいるんだよな?」

「……まあ、そう、かな」

「じゃあ何かあったら、どうにかして俺に連絡してくれ。なんでもいい、俺で力になれることなら、迷わず呼んでくれると嬉しい」

「うん。……ありがとね、ジン」

「いやまあ、俺が役に立つかはわからないけどな」

「かもね? ジン、なんにも知らないし」

「うわ。そりゃ手厳しい」

 そう言って、お互いに向き合って二人は笑う。いかにも友達同士らしい、それは自然な微笑みだった。

 と、そこでナナは、にわかに片目をぱちりと閉じた。

 ウインクをするような、愛らしい表情。残りの目で、迅の瞳をまっすぐに見据えながら彼女は言う。

「そうだ。さっそくだけど、じゃあひとつ、ジンにお願いしてもいいかな?」

「ん? おう、もちろんだぜ、どんと来い」


「――私と森で出会ったことは、絶対に誰にも言わないで」


「――……そりゃまたどうして?」

 と。自然に訊ね返すことができた自分を、迅は褒めてやりたいくらいだった。どこか冗談めかしたその《お願い》が、決して冗談などでないことがわかってしまったからだ。

 けれどナナはといえば、まるでなんでもないことのように、可愛らしく手を立てて続ける。

「この森、ほんとうは立ち入り禁止なの。勝手に入ってることがばれたら、偉い人に怒られちゃう」

「……ああ」なんだ、その程度のことだったのか。

 迅は安堵して息をつく。そのくらいなら、確かに可愛いお願いだろう。

「まあ、別に言う相手もいないし。黙っておくよ。というかそれ、俺も共犯だしね」

「そうだね。それもそっか」とナナは微笑んだ。

 ――どうしてか。

 その笑顔が、ナナもまた何かに安堵しているように見えて――、

「お別れだね、ジン」

 と、ナナが言った。繋いでいた手をぱっと放して、儚い笑顔で微笑むように。

 そして。

 だから迅も、それまでの考えを忘れて、ただ答えた。

「……まあ、また会えると思うけど」

「そうだね……。最後まで付き合ってあげられなくて、ほんとうにごめんなさい」

「だから、謝るのはなしって言っただろ? ただでさえこっちは世話になりっぱなしなのに」

 頭を下げてくるナナを、押し留めるように迅は言う。

 どうしてこう優しいのやら。

 いろいろと誤算はあったにせよ、あくまで迅は、ナナを《利用》して街まで連れてきてもらったのだ。

 と、今さらそこまで悪ぶることもできない迅だったが、しかし謝られては立つ瀬がない。

 彼女はあくまで、純粋な好意から迅を救ってくれたのだから。

「こういうときは、再会の約束をして、笑顔で別れるもんなんだぜ?」

 迅は言う。せめてそう言うことでしか、彼女の力にはなれそうもなかったから。

 ナナはきょとんと首を傾げて、

「……そうなの?」

「そうなの。だから――ほら」

 迅は右手を上げて、その掌をゆっくりと振る。

 いつかまた出会えることを祈って。

「また会おう、ナナ」

「……うん。またね――ジン」

「ああ」

 それだけを呟くと、迅は踵を返して、街の方向へと歩いて行った。

 後ろ髪を引かれる思いはある。だがいつまでも、ナナに甘えているわけにはいかない。

 決意とともに、迅は新たな一歩を踏み出した。その胸にあるのは、これから始まる異世界での生活に対する大きな不安と、ほんのわずかな期待だけ。

 ――でも、心配する必要なんてない。俺は俺で、しっかりやっていくから。

 そう、迅は背中でナナへと告げるつもりだった。


 そして。

 去っていく迅の背中を、白い少女は、その影が見えなくなるまで送っていた。

 やがて迅の姿が消え、ひとりになった少女は、その表情をそっと陰らせた。今まで無理矢理に作っていた笑顔を、一瞬で凍りつかせてしまったかのように性急な変化で。

 少女は小声で、呟くように懺悔を零す。

「ごめんね、ジン。やっぱり、私は謝らないといけないんだ」

 それは神に赦しを乞う、敬虔な宗教者を思わせる響きだった。

 自身の悪徳を突きつけられた、罪人つみびとの悔恨に似た響きだった。

 少女は、少年に――生まれて初めての《ともだち》に。

 幾度も謝罪を繰り返す。


「嘘ついて、騙して――ほんとうにごめんなさい」


 その言葉が、決して届かないことを知っていながら。



     ※



 ナナと別れてから、およそ十分ほど歩いただろうか。

 城壁に備えられていた、解放されっ放しの大きな木の門を抜けた迅は、ルルアートの街へと足を踏み入れていた。

 衛兵らしき見張りの横を抜けるとき、多少の緊張を迅は覚えていた。その恰好が異世界人から見れば異様だから、視線そのものはひしひしと感じた迅だったが、結局は声すらかけられることもなかった。

 背後を振り返れば、結界林はもう遠く感じられる距離だ。魔力に溢れる、魔物の森。いくら結界で覆われているとはいえ、こんな人里のすぐ近くに、あんな恐ろしい土地が存在しているというのだから信じられない。

 そもそも、この異世界において《結界》という言葉が指している意味もいまいちわからない。どの程度の安全性が保障されているのかは知らないが、少なくとも自分なら、こんな場所には住みたくないと迅は思う。

 しかしながら、ルルアートの街は、やはりかなり大きな規模の都市であるらしかった。

 近づいていくに連れて、活気や喧騒が徐々に勢いを増していく。

 今、迅はルルアートの街の中心を貫く大通りに足を踏み入れていた。この通りはそのまま市場として機能しているらしく、雑貨や食料などを販売する露店が、数多く軒を連ねている。

 通りを挟むようにして広がる露店。それをさらに挟むようにして、煉瓦敷きの家々が立ち並んでいる。商店であったり、酒場であったり、あるいは他の何かであったり。どれも赤煉瓦で統一されているのは、この街に特有のことなのだろうか。わからなかった。

 広い街だ。人通りもそこそこにある。そう多いわけではなかったが、この世界の文明のレベルを考えるならば、日本と繁華街と同じくらいの人間がいるとは思えない。ならばやはり、これは多いほうなのだろう。

 様々な背格好の人間が道を歩いている。特徴的なのはその髪色で、赤や黄、青や緑など様々な個性の髪を持つ人間で溢れていた。いちばん多いのはブロンドや、迅のようなブラウンの髪色だったが、それにしても全体の三割を占めるかどうかだ。逆に日本人に多い黒や、ナナのような白い髪を持つ人間はひとりもいなかった。

 それにしても、なぜこんなにも様々な髪色の人間がいるのだろう。迅には不思議でならなかった。そういう流行でもあるのだろうか。それとも異世界人は、生まれつき毛の色が様々なのか。


「そういえば、今は何時くらいなんだろう……」

 通りを歩きながら、迅はふと独り言つように呟いた。

 どことなく、空腹を覚え始めていたのだ。

「結局、鍋は食べられなかったわけだしなあ。ていうか、壊れちゃったよ鍋。まあいいか、安物だし」

 そんなことをぶつくさ零しながら歩く迅。

 その耳には、威勢のいい露店の店主たちの声が届いていた。聞く限り、そろそろ店じまいであるというようなことが聞かれている。まだそれなりに明るいが、それでも月は見える時間。おそらくは夕方過ぎくらいだろうと迅は思うのだが。

 市場と聞くと、なんとなく早朝に開いているイメージを迅は持っていた。この感じだと、あるいは祭りの露店とでも言ったほうが、感覚としては近いような気がする。

 ――でも考えてみれば、異世界の一日が二十四時間だとは限らないんだよな……。

 ふとそんな考えに至る迅だ。なにせ月が二つ浮いているわけだし。加えて魔法なんてものまである。その他にどんな違いがあるか、わかったものではないだろう。

 ――だからこそ、言葉だけなぜか通じるのが、こう、おかしいというか……。

 かといって、もし言葉が通じなくては途方に暮れていただろうが。

「ん、あれ……? というか、これ、もしかして……」

 周囲の光景を窺いながら歩いていた迅は、そこでふとあることに気がついて足を止めた。

 目線の先には、木の板で作られた簡素な看板。肉類を売る露店の前に置かれていた。

 そこには、白い塗料で何か文字が描かれているのだが、

「……文字が、読めない」

 見たことのない文字だ。ひらがなや漢字とは似ても似つかない。それよりはアルファベットに近い、かくかくとした文字だった。けれど、アルファベットとも確実に違う。

 単純に考えるならば、

「これが、この異世界の文字ってことなんだろうけれど」

 どうも会話は都合よく変換されても、文字まではその対象にならないらしかった。

 微妙なところで融通が利かないというべきか、それとも、そんなことを期待するほうが間違いなのか。

「どっちにしろ、文字が読めないってのは結構なマイナス要素だよな……」

 働き口に影響するかもしれない。さて、この世界の識字率は、いったいどの程度なのだろうか。

 そんなこと思案する迅だったが、意味がないからとすぐにやめた。重要なのは、文字が読めないという事実自体だ。果たして、文字は簡単に覚えられるものだろうか。

 ――というか、それにしても腹が減った。肉屋か……肉いいな、肉食べたい。でもこれ生だし、どこで調理すれば……。

 なんて。そんなことを、つらつらと考えていたときだった。

 迅の背後から突然、女性の声が聞こえてきた。


「――すみませんが。店の前で、あまり不審な行動を取らないでいただけますか」


 思わず迅は硬直した。気まずい思いももちろんあったが、何より自分はそんなに不審だっただろうかと、わずかに落ち込みかけたからだ。

 ――まあ、服装的には確かに浮いてるよな、うん。制服だし。

 そんな理屈を脳内でねて、自身を納得させてから迅は振り返る。

「あ、えっと、すみませんでした。でも別に怪しい者では……あ、いや実際、確かに怪しいんですけど」

「ちょっと! 何をしてるんですか――」

「……ん?」そこで突然の違和感。

 だがその正体に至るより前に、迅の視界では新たな事態が進行し始めていた。

 振り返った先で目にしたのは、ひとりの少女の姿だった。

 迅の方向に背を向けて、ちょうど反対側を向いている。見えるのは、赤茶けた長髪を馬の尾に纏めているところだけで、表情までは窺えない。

 どう見ても、少女は迅の存在など認識すらしていなかった。どうやら、迅が話しかけられたと思ったのは勘違いだったらしい。

 ちょっと恥ずかしい気分になる迅。

 だが直後すぐ、そんな場合ではないということに気がついた。


「――ちっ、どけ!」

 突如、罵声が響いた。迅の視界に映っていた少女が、「きゃっ!」と叫ぶ。

 正面から、何者かに突き飛ばされたのだ。

 後ろ向きに倒れてくる少女を、咄嗟に迅は両手で支えた。抱え込むように少女を受け止めた迅の目の前には、煤けて汚れたローブで全身を包んだ、見るからに怪しい輩がひとり。

 顔は影になって見えないが、どうやらそいつが、ポニーテールの少女を突き飛ばしたらしい。

 一瞬、迅はその謎の人影――声からすればおそらく男だろう――と目が合ったような気がした。顔は見えないのに、どうしてか射竦められたような気分になる。

 だがそれも刹那、ローブの男は身を翻らせると、大通りを駆け抜けて逃げ去ろうとし始めた。

「あ、おい――待て!」

 ほとんど反射で、迅はその男を呼び止める。

 その直後、抱き留めていた少女が大声で叫んだ。

「泥棒っ!」

 通りの人々が、一斉にこちらを見た。すぐ近くの雑貨屋からガタイのいい中年の男が現れて、「おう兄ちゃん、この通りで盗みたぁ、ずいぶん太ぇ真似しやがるじゃねえか」とかなんとか言いながらローブの男の逃げ道を塞ぐ。周りの商売人たちも敵意を露わにローブの男を見遣っていた。

 ――チームワーク抜群の市場だな。

 そんなことを考えながら、迅は抱き留めた少女に「立てるよな?」と確認を取る。

 少女はその問いに「え……?」と目を丸くしたが、それを返答だと受け取って迅は駆け出した。

 不審な男を捕らえるために。

「そこのおっちゃん、そいつ止めといて――」

 そう叫んだ迅だったが、直後、状況が一変する。

 ふと、ローブ姿の謎の男が、その右手をゆったりと上に掲げたのだ。

 開かれたまま、天へとかざすように持ち上げられた掌の中に、目に見えないエネルギーの渦が集まっていくのが迅にはわかった。

 それを、男はそのまま、道を塞いだ雑貨屋の店主へと向ける。

 ――魔法で攻撃するつもりか――!?

 瞬間でそれを察した迅だったが、その危険を周囲に叫んでいる暇がない。

 それよりも、自分が飛び込んで止めたほうが速い――。

「させるか!」

 叫びながら、迅は男に飛びかかる。殴り倒してでも魔法の発動を止めるつもりだった。

 だが男は瞬間、その手を向ける先を、雑貨屋の店主から迅のいる方向へと移す。ローブからわずかに覗ける口元が、にやりと弧を描くように歪んだ気がした。

 嵌められたのだ。飛び掛かった迅には、もうその勢いを殺すことができない。

 ローブの男の掌が、自分のわずか数センチ先に見えて――

「く、お……っ!」

 瞬間、迅は殴りかかった右手の軌道を強引に変え、男の腕を上に弾いた。

 それとほぼ同時、まるで迅の攻撃が引鉄となったかのように、男の手から魔法が射出される。

 炎の塊だった。ナナの風とは違う、もっと直接的な脅威。

 掌を銃口に見立てれば、弾丸がその火炎に当たる。迅の頬を掠めてまっすぐ空へと射出された炎は、周囲の屋根よりさらに高く上った時点で突如として爆発を起こした。

「ぬわ――!?」

 その衝撃に煽られて、迅はそのまま地面へと思い切り落下した。

 柔らかい土などではなく、硬い石畳の上に。背中から思い切りぶつかって、迅は思わず呻きを発する。頭の片隅で、今日は背中を打ってばかりだと迅はその身の不運を嘆く。

 周りの人間の目も、全てが爆発に惹き寄せられていた。

 小規模な爆発だ。辺りの商店にも、ほとんど被害を与えていない。

 だがその音と爆風、そして煙が目晦ましになったのだろう。

 痛みを堪えて身体を起こす迅。その視線の先に、ローブ姿の男が映ることはなかった。

 いったいいつの間に姿を晦ませたのだろう。ローブの男は、忽然と姿を消してしまっていた。

「……野郎。初めから、目晦ましのために魔法を使ったな……!」

 地面に座り込んだ迅は、悔しさから思わずそう零した。

 これでは男を追うどころか、男が逃げる手助けをしたに等しい。

 咄嗟に飛び出して、できたことといえば間抜けを晒しただけ。不甲斐なさに迅は唇を噛む。


「――おい。大丈夫か坊主」

 しばし呆然としていた露店の店主が、そこで迅へと声をかけてきた。

 年齢は四十代くらいだろうか。日に焼けた浅黒い肌に、濃いヒゲと禿頭とくとう。筋肉質で肩幅のある体格の、なんとなく《親方》とでも呼びたくなる容貌だ。

「ケガねえか? おら、いつまでもそんなトコ座ってねえで起きろ」

 そう言って男は、迅に手を差し伸べてくれる。粗野な口調ながら、人情の感じられる声音だった。

 なんとなく気分がよくなって、迅は笑いながらその手を取った。

「ありがとう、おっちゃん」

「誰がおっちゃんだ」

「えっと……じゃあ、親方?」

「なんでだよ。俺は職人じゃねえぞ。――おら立て」

「うおっ!?」

 ぐいっ、と力強く引っ張り上げられる迅。魔法を使わない、素の筋力が窺えた。

 釣り上げられた魚のように引っ張られた迅は、「痛いな、もう」と笑いながらも立ち上がる。

「悪い、おっちゃん。泥棒、逃がしちゃったみたいだ」

「ああ? まあ、ありゃ仕方ねえだろ。相手は魔法使いだからな。一般人の手に負える奴じゃねえ」

「……そういうものなんだ?」

「見りゃわかんだろうが。つーか坊主、お前もよく魔法使い相手に立ち向かったもんだ」

「いやあ……」

「底なしの馬鹿だな。命知らずっつーかよ。坊主、たぶん早死にするぜ?」

「……ぐ。褒められる流れかと思ったのに……」

「褒めるわけねえだろ。ああいうのは騎士団にでも任せときゃいいんだよ。一般人の出る幕じゃねえ」

 粗暴に言い放ちながらも、男の表情は柔らかなものだった。

 この男も盗人の前に立ちはだかっているのだ。迅のことばかり言えた義理でもないのだろう。

 実際、周囲の通行人や商人からも、「大丈夫かー」と気遣うような声が聞こえてくる。

 こういう事態に、慣れているのかもしれなかった。


「それよりも」

 と、話題を変えるように男が言う。

 迅の背後を、顎でしゃくるようにして指し示して、

「そっちの嬢ちゃんが、オメェに話があるみたいだぜ」

「ん、……ああ。そうだね」

 男の言葉に頷いて、迅はゆっくりと背後を振り返った。

 そこには。

 ひとりの少女が、仁王立ちになって迅のことを睨んでいた。

 先程、ローブの男に押し飛ばされた少女である。柳眉を逆立てた、まるで鬼のような形相だ。本人にはとても言えないが。

 ――振り返りたくないなかったなあ。

 などと現実逃避をしていた迅だが、感じる威圧が尋常ではない。このまま先延ばしにしていては、より悲惨な事態になってしまうだろう。

 そう考えて、意を決して、迅は少女へと言葉をかけた。


「……その服は、何? バイトの制服か何かかな」

「――。似たようなものよ」

「あー……いや、悪かった。泥棒、取り逃したみたいだ」

「別に。ていうかアレ泥棒じゃないし。逃げそうだったから、咄嗟に叫んだだけ」

「あ、そうなの? 頭回るね……」

「――ねえ」

 少女が、底冷えのする声音で小さく呟く。

 背後から「さーて、俺は店に戻らねえとなー」などと演技臭い男の声が聞こえてきた。

 他人事だと思いやがって。事実そうなのだが、八つ当たりしたい気分の迅だ。

「私に言うことは、本当にそれだけなの?」

 少女は目を伏せてそう口にする。その表情は窺えない。ただ静かで重い、地獄の最下層から響くような声だけが迅に届いていた。

 ――怖すぎる。

 迅は素直に思った。ナナの怒声も、いや、あの金狼の唸りですらこの恐怖には届かない。

 さてどうしたものやら。そう、しばし逡巡した挙句。

 迅は、少女へ向けて、謝罪の言葉を口にした。


「えっと。ごめん、冬火」

「それはなんの謝罪なのかしら、迅」

「……土鍋。あれ、壊しちゃった」

「なるほど――」


 少女――青山冬火の、明星迅に対する返答は。


「――――跳べ、この馬鹿迅」


 大腿部を痛烈に打ち貫く、華麗な軌道の回し蹴りだった。

 痛みに呻く情けない迅の泣き声が、大通りの空へと高く響き渡り、周囲の人々を驚かせる。


 ――幼馴染みの少女との、それが、再会の一幕だった。

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