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1-03『異世界であるということ』

 どこか遠くから届いた轟音。遠雷にも似たその音で、迅は自身を取り戻した。

 突然の展開に凍りついていた脳髄が、遅れを取り戻そうと高速回転。その過負荷で迅は動けない。

 地響きのような音の出どころは、森の木々が薙ぎ倒される音だった。数百メートルは離れた地点からまっすぐに、まるで極小の台風が駆け抜けたかのように、樹木という樹木が根元からへし折られていた。

 いったい何が、こんな災害現場みたいな情景を作り出したのか。

 ――決まっている。

 ナナの肩口を血で濡らした、黄金の獣以外にない。


「――――――――」

 と。唸るような音が迅の耳に届いた。

 黄金の獣が漏らした唸りだ。

 それは意味のない唸りというわけではなかった。言語ではないただの音。それが、けれど迅には意味を持つ概念として届いている。

 それは敵意だった。

 野生の獣のみが持ち得る、警戒と攻撃の意志の発露。侵された縄張りテリトリーを守るべく、外敵を排除せんとする決意だった。

 そして、それだけで迅は理解する。理性以前に本能が、魔物の特異性を感じているのだ。

 ――こいつは、この狼の姿をした金色こんじきの怪物は、他の魔物とは明らかに違う。

 ただ意味もなく人を殺す、システムのような魔物ではなく。明確な意志を持つ、一個の生命体であるのだと。

 そう、迅は理解させられていた。

 そして同時に悟ったのだ。

 ――ここで逃げれば、奴は自分を追ってこない。少なくともしばらくの間、金色の狼は、他の相手を優先するはずだから。


 要するに。

 ナナが殺されるまでの間、時間を稼げるということ。


「……ナナ」

 ぽつり、と声が漏れていた。意識して発したものではない、単に、勝手に零れただけ。

 気遣った言葉などではなかった。そんな欺瞞は、口が裂けても言えやしない。

 なぜなら迅は、この場から逃げ出したくて仕方なかったのだから。感情や倫理が叫ぶ「助けろ」という声を、理性と本能が「逃げろ」という絶叫で塗り潰している。

 それは、つまるところ、恐怖だった。


 ――こわい。

 歯の根が合わず、がちがちと震えて音を立てる。肌は痙攣するように震え、肉体の制御もままらない。

 こわい。こわいこわいこわいこわいこわい。

 嫌だ。死にたくない。逃げ出したい。

 なら逃げればいい。

 そうだ逃げよう。走って逃げてしまえばいい。

 脇目も振らず、一目散に。


 ――ナナを見捨てて、逃げ出してしまえ――。


 そこまで考えて初めて、迅は自らの震えを自覚した。身体を巡っていたはずの力が、いつの間にか消えてなくなっている。身体を巡る魔力の制御などすっかり忘却していた迅は今、たとえるなら極寒の地に、裸で投げ出されたようなものだ。

 もちろん、寒さとしての悪寒は感じていない。迅が感じているそれは、周囲の大気に含まれた、重く粘つくような気持ちの悪い魔力の気配。

 そして、そんなものとは比較にもならない、目の前の怪物の圧力だった。

 わかっていなかったのだ。

 ここが、異世界であるということの本当の意味を。迅は何ひとつ理解していなかった。

 舐めていたと言ってもいい。死の恐怖は確かに感じた。都合よくナナに助けられていなかったら、迅は間違いなく命を落としていたのだから。

 けれど、それでも、こうして助かってしまっている。そのことが、迅に現実を見落とさせた。物語のような展開に浮かれて、それを現実に置き換えて捉えられなかった。

 それがどれほど致命的なことなのかも気づかないまま。

 現実は、当たり前のように、迅へと牙を剥いたのだ。

 迅は動けない。思考は取り戻しても、身体のほうが言うことを聞かなかった。

 決して、ナナを見捨てられなかったというわけではない。逃げ出したくても、足が凍りついて動かないだけだ。

 そうして立ち竦んでいる間にも、ナナの肌からは止まることなく血が流れ続けている。

 あれほど頼もしかったナナの気配が、今や弱々しく消えかかっていた。そのことが、迅にも感覚で理解できてしまう。魔力という概念の存在を、感覚として把握できるようになったからだろう。

 だから気づいた。

 これまで驚くほど強くを感じられていたナナの魔力が、今や風前の灯火の如く消えかかっているという事実に。

 いわば、生命力が希薄になっているのだ。

 出血の量は、冷静に見れば、実のところそこまで多いわけではない。重傷ではあるが、致命傷とまでは言えないだろう。

 にもかかわらず、ナナの存在感は徐々に徐々にと薄れていく。


 このままでは――遠からず、ナナの魔力は消えてなくなってしまう。

 それが意味するところくらいは、教えられずとも察しがついた。


 ――助けなければ、と。そう思う。

 そう思っているはずだった。

 ナナが傷を負ったのは、間違いなく迅を庇ったせいだ。あるいは彼女ひとりなら、こんな怪我を負うことさえなかったかもしれない。

 今まであれだけ助けられたのだ。今度は自分が、彼女を助けなくてどうするのか。

 命を助けられた恩を、返すと誓ったはずではなかったか。

 動け。彼女を助け出せ。

 そう考える一方で、凍りついていく思考の一角に潜む、冷静な自分が告げていた。


 そんなことは、不可能だと。


 ナナは言っていた。この森には、弱い魔物しか棲んでいないと。また近づかれる前に、その存在を把握できるとも。

 この化物は、そんなナナの知覚を掻い潜り、一撃で彼女に重傷を与えたのだ。

 つまりそれは、魔法使いたるナナにとっても、この魔物がイレギュラーな存在であったということを意味している。

 他の魔物とは、明らかに次元が違っていた。

 そんな怪物がなぜこの森にいたのかはわからない。ナナですら想定していなかったのだ。迅にわかろうはずもない。

 彼にわかる事実はひとつだけ。

 すなわち、この金色の獣に刃向かえば、間違いなく殺されるということだった。

 ナナが一撃で滅ぼした、あのカマキリの相手さえ迅如きには荷が重い。ましてそのナナをも倒すような相手に、敵うはずがないのだから。

 ――逃げろ。ナナはもう助からない。

 けれど迅ひとりなら、逃げに徹すれば助かる可能性は、あるかもしれない。

 そんな願望じみた判断を、意志とは無関係に、脳が勝手に作っていく。

 醜い自分が、忌々しい。


「……、こほっ」


 と、そのときだ。

 迅の耳に、ひとつの音が届いた。

「――く、ふ……っ」

 掠れたように咳き込む声。それがナナのものであると、迅にはとても信じられない。

 その呻きに呼応したように、金色の獣はその巨大なあぎとからナナを離して一歩下がった。

 いや――違う。

 ナナが蹴り上げた脚を、回避するために下がったのだ。

 比喩でなく、目にも止まらぬ速度で金狼はナナから距離を取る。ナナが振り上げた右足の蹴りは、だから外れて空を切った。

 直後、ナナの正面の方向に生えていた木が、またしても爆発するように薙ぎ倒されていた。おそらくナナは蹴りと同時に、魔法での攻撃も放っていたのだろう。

 それを、狼がやすやすと回避したのだ。


「――――、っ」

 ナナが苦悶の声を漏らす。

 耐え切れなくなったかのようにナナは地面へ屈み込んだ。抑えられていたものが溢れ出すように、少女の肩口から鮮血が迸る。

 獣はそれに見向きもしない。すでに脅威と見なしていないからだろう。

 その代わりというように、獣の視線が迅へと移る。

 ――さあ、お前はどうするのだ。

 そう、迅に問いかけるかのような狼の様子。それだけでも、目の前の存在が他の魔物たちとは一線を画していることがわかる。

「……っ」

 漆黒の双眸に射竦められて、迅は動くことさえできなかった。身動きするのは、地面にくずおれるナナだけだ。

 声を出すことすらつらいだろうに、それでも彼女は言葉を発する。

 まるで、それが彼女に許された最後の行いであるかのように。

「……ジン」

 と。その名前が、口にされる。

 呼びかけに縫い止められたかの如く、迅の身体に震えが走った。

「ジン……!」

 呻くように、哀願するように、少女の声がか細く響く。

 この期に及んでなお、彼女が呼ぶのは迅の名だ。

 それがジンには堪えられない。そんな言葉は聞きたくなかった。

 けれどナナは最期の力を振り絞るように、ただただ悲痛に声を張る。


「……逃げ、て……、ジン……っ!」


 瞬間、迅の表情は大きく歪んだ。

 ――どうして、と。

 ナナの言葉に締めつけられて、迅の表情は酷く痛ましい形へと崩れてしまう。

 どうしてこの状況で、彼女は自分を気遣えるのだろう。それが迅にはわからない。

 自らの死を前に、それでも迅を気遣うナナの強さ。

 それが迅にとっては、もはや恐怖の対象ですらあった。

 なぜなら彼女の強さはそのまま、迅の弱さを浮き彫りにさせるからだ。

 そんな強さに、迅はとても堪えられない。

 彼は知っている。死の概念に相対することの、その恐怖を根強さを。余裕ぶった振る舞いなど所詮はポーズだ。あのとき、あの小屋の前で感じた死の恐怖を、迅は決して忘れていない。

 それなのに――、

「逃げて……!!」

 それなのに、少女は迅へと叫ぶのだ。

 保身を捨てて、ただ迅だけを気にかけて。自分を見捨てて逃げろと叫ぶ。

 反則だ、と迅は思った。それを言ってはお終いだと。

 そんな言葉を言われてしまって。そんな言葉を言わせてしまって。


 ――それで逃げ出せるはずがない。


「……はっ」という声が、迅の鼓膜を揺さぶった。

 笑い声に似た音だった。それが自分のものであると、迅は聞いてから自覚した。

 笑みとも言えぬ、乾いて掠れた声。

 だがこの期に及んで情けないと、自虐する程度の余裕はできた。

「馬鹿なこと言うなよ、ナナ」

 自然と、言葉が溢れてくる。思う気持ちが心で弾けて、勝手に口から飛び出していく。

 気分は、いくぶん楽になっていた。恐怖を感じていた回路が、あるいは壊れたのかもしれない。

 ただ代わりに、迅は怒りを感じていた。

 怒りのあまりに笑みさえ漏れる。

 どこまでも弱い自分自身に。理不尽極まりない世界に。

 そして、何より。

 勝手なことを勝手に言い放つ――ナナという少女に迅はいかっていた。

 だから言う。

 まるで、物語のヒーローを気取るように。

「ナナを見捨てて、ひとりで逃げられるわけないだろう」

「何を、言って……」

 驚愕すらを通り越し、まるで理解できないといった声音でナナが呟く。そのことが、今の迅には少しだけ痛快だった。

 そうだ、ナナの言葉は聞き入れられない。決して許せるものではない。

 自分より他人を優先するなんて、そんな考えは馬鹿げている。

 自己犠牲なんてクソ喰らえだ。残されたほうの身になってみろ。

 誰だって、人間は皆、自分をいちばん大事にするべきなのだ。迅はそう、頑なに信じて疑わない。

 だからこれは、決してナナのためなんかじゃない。あくまで迅のわがままだ。ひとりきりの異世界で、運よく見つけた頼れる相手。それを、手放すことができなかっただけ。

 格好つけの、下らない願望。陳腐なプライドを拗らせたようなもの。

 それでも。

 この状況で、ナナを見捨てて逃げるような真似を、迅は自身に赦せなかった。

 たとえ無謀で、無為で、それこそこの上なく馬鹿げた考えだとわかっていても。ここでナナを見捨てるような自分を、迅は絶対に認められない。

 きっと冬火や楽だって、自分の考えを後押ししてくれるはずだ。そんな思いがあるからこそ、迅は笑うことができる。

 笑ってみせることができる。

 少女の笑みが、青年を救ってくれたように。

 今度は青年が、少女を救ってみせるために。

「言っただろ、恩は必ず返すって」

 彼は宣言する。

 決意を表明するように。怯える自分を鼓舞するように。

 迅は、自ら舞台へと上がる。


「――今度は俺が、助ける番だ」


 格好のいい台詞ではなかった。声は見事に震えているし、気を抜けば今にも泣き出してしまいそうだ。

 理性は今でも、迅に逃亡を叫んでいる。本能は恐怖を喚くように訴え続けていた。いわば両挟みだ。それ以外の選択の末路など、考えるまでもなくわかっていた。

 地に伏して絶句するナナですら、同じ確信を抱いているだろう。

 ――きっともうすぐ、明星迅は命を落とす。

 そんなことはわかっていた。いや、やはりわかっていないのかもしれない。少なくとも迅に死ぬつもりはないのだから。

 陳腐で下らない感情論と、ほんのわずかな希望の種。

 それだけが、今の迅が持つ武器だった。

 もはや自分でも、何を考えているかなどまったくわかっていないのだ。

 ――どうせ俺は馬鹿だからな。

 そんな居直りを胸に秘め、迅は不敵に笑ってみせる。


 そして、次の瞬間。

 迅は地面を蹴り飛ばし、目の前の獣へ向けて勢いよく飛び出していった。



     ※



 勝算がある、などとは口が裂けても言えなかった。

 けれど決して無策だったわけでもない。

 確率としては、適当に見積もって、たぶん五分五分。そんな博打を策とは呼ばないが、それでも、敗北決定を覆せるのなら賭けるべき倍率だろう。

 魔力を身体に循環させる。ナナに習った身体強化を、最低限の保険として。

 いや、足りていない。ただの制御では不十分だ。ならばいっそ初めと同じく、暴走させたほうがまだマシだ。

 迅は魔力を思い切り加速させ、その場凌ぎの馬力を代える。

 途端、体内で魔力が暴れ始めた。

 まるで血液が沸騰するかのように、全身が熱くオーバーヒートする。

 それでいい。ナナを助けられるのなら、多少の暴走は許容範囲だ。

 そう信じて、迅は黄金の狼へと突貫する、


 ――その寸前で、勢いよく足を蹴り上げた。


 それは先程のナナと同じ行動だ。大袈裟にブレーキを掛けるように、迅は右足を前に振る。

 蹴りを当てようとした、わけではなかった。

 ただ盛大に巻き上げた土煙で、目潰しを狙っただけである。

 三流未満のこすい策。

 もちろん、そんなものは簡単に躱されてしまう。

 迅の突貫を悠然と待ち構えていた狼は、その刹那、ふっと身体をぶれさせた。

 あり得ない身のこなしだった。

 四脚の動きが目で追えない。身体に魔力を流した結果、動体視力さえ向上させている今の迅でさえ、ぶれるような残像しか見えないほどの驚異的な膂力だ。

 狼は左に身を躱す。その視線は、迅の急所をきっちりと射抜いている。馬鹿な特攻が生み出したのは、これ以上ないほど致命的な隙だった。

 当然、それを逃すような相手ではない。

 一歩を下がった狼が、ほとんど変わらない速度で跳ね返るように迅へと突進した。

 鋭い牙が、迅の首元を狙ってくる。

 喰らえばそれで、呆気なく人生の終わりになる一撃。

 まるで金属に吸い寄せられる磁石の如く、正確に頸動脈を狙ってきた巨大な牙を――


「――うぐ……っ!」


 迅がその手に構えていた、土鍋(、、)が正確に弾き返した。

 カマキリの鎌を防いだ土鍋。それが今度は、獣の牙をも防ぎきる。防いだ迅ですら疑問に思う、土鍋の硬度が頼もしい。

 ただ、

「ぬお――っ!?」

 無論、巨体が生み出す突進の威力を、片足の上がった迅が堪え切れるはずもない。

 ほとんど弾き飛ばされるような勢いで、迅は土鍋とともに、もんどりうって後ろへと吹き飛んだ。

 土の地面に、背中から盛大に激突する迅。

 息が詰まるような痛みがあるが、幸い地面は柔らかい土だ。下手くそな受け身で跳ね起きた迅は、ちょうどぴったり、ナナに寄り添う位置に立つ。

「あ――――あはははははは作戦通りっ! ざまあ見やがれクソ痛えな畜生っ!?」

 半分涙目になりながら、ほとんど自棄やけで迅は叫んだ。

 しかし、それでも。

 第一の賭けには、成功したと言えるだろう。



     ※



 ――初めに強襲を受けたとき、あの狼は迅の首を狙って攻撃していた。

 そのことに、迅はあらかじめ気がついていた。

 それが獣の本能だったのか、あるいは強者ゆえの余裕だったのかはわからない。思い返せば、あのカマキリ型の魔物も、初めは首を狙っていた。

 ただとにかく重要なのは、狙われたのが首の部分であるというその一点だ。

 遊びのない、一撃での致命傷狙い。迅より背の低いナナが肩口を噛まれたのは、跳び上がって迅を庇ったからだ。あるいはナナは、そこまで見越したうえで、致命傷を避けるためにあえて肩を犠牲にしたのかもしれない。彼女の身体能力なら、そのくらいは可能だろう。

 ともあれ、それが賭けの前半だった。

 相手が首を狙うという、その一点だけに賭けて迅は土鍋を構えていた。故意に隙を作るような動きで、獣の動きを誘導して――と言えばまだ聞こえはいいが、実際は願望でしかない自爆寸前の博打だ。

 本来なら、迅にこの強大な魔物の攻撃を防ぐ能力はない。

 攻撃される場所がわかっていて、かつ防ぐだけの防御力を持つ盾を持っていたこと。

 それだけが、迅にとって賭けの成立条件だった。

 もし外していたら、迅は他の部位をあっさりと食い千切られて、血みどろ撒き散らして死んでいたことだろう。また土鍋の強度が狼の顎の力に負けていても、やはり迅は死んでいた。

 土鍋による防御力が、狼の攻撃力を上回っていること。

 そして魔法未満の魔力操作で、向上した身体能力が賭けを十全にやり遂げること。

 それが、第一の賭けの後半だ。

 綱渡りと呼ぶのもおこがましい、馬鹿馬鹿しいほど不利な賭け。

 命を担保に、迅は数秒の時間を稼いでみせたのだ。


 無論、その程度でダメージを追うような獣ではない。むしろ吹き飛ばされ背中を打ちつけ、ついでに鍋の縁と顔面をしたたかに叩き合わせた迅のほうが遥かにダメージは大きいだろう。盾として使うには、土鍋の形状はやはり構えづらい。

 しかし幸いにも、狼は迅から距離を取って、様子を窺うようにして止まっている。どうやら土鍋の防御力自体は、脅威として認識してくれたようだった。競り負けた牙に異常がないか、どこか顎の様子を意識しているように見える。

 思っていたよりも、土鍋の防御性能が高かったのが幸いした。あの巨大な牙で上下から挟まれて、ヒビひとつ入っていないのは僥倖だろう。

 ありがとう土鍋。置いてこないで、持ってきておいて本当によかった。

 そんな感謝を捧げながら、迅は第二の賭けに入る。


「……」

 無言のまま、迅は地面にそっと土鍋を置いた。

 そしてその代わりに、ナナの身体をそっと抱き留める。

「ジ……ン?」

「……大丈夫か、ナナ? 俺の声、わかるか?」

 荒れた呼吸とともに、体内で暴走する魔力を鎮めながら迅は問う。

 過剰に身体を巡る魔力が、肉体の内側から迅を苛み続けていた。たとえるなら、過度なドーピングのようなものなのだろう、と迅は思う。

 きっと、この力は無償ただじゃない。異世界もののお約束以前に、感覚としてそれがわかる。

 水増しして得た力の代償は、いずれ請求されることだろう。

 ――知ったことか。

 今を生き残れるのなら、あとのことなど考えていられない。

「私は……、だいじょうぶ」

 迅の問いに、ナナは乱れた呼吸で、けれどしっかりと返事をした。

 それに頷きを返すと、迅は続けてナナに言う。

「よし……。じゃあ手を挙げて、それを、あの魔物のほうに向けて」

「それ、どういう――」

「いいから」と迅は一方的に言葉を切ると、ナナの返事を待たずに彼女の腕を持ち上げた。

 血を流す左腕とは逆の、無傷な右腕を迅は支えると、その掌を魔物へと向けさせる。

 それで、ナナにも意味がわかった。

 要するに牽制だ。動けば魔法を放つぞと、わかりやすい形で魔物へと示している。

 下らない時間稼ぎではあるが、しかし効果がないではないようだ。

 狼は警戒する様子で、こちらを窺って動かないでいた。


「バカ……。なんで、逃げなかったのよ……」

 ナナが言う。責めるような口調だが、それは迅を気遣っての言葉だ。

 不器用な奴だな、と迅は思う。

 だがいい奴だ、とも。だから助ける気になったのかもしれない。

「別に」と、迅はナナの口真似をして言った。

 その間も、もちろん迅は金狼から意識を離していない。

 金色の狼は、今も木々が薙ぎ倒されてできた道のほうを背後に立っている。まるで、そちらへ進むのを阻んでいるかのように。

 そうして思い返してみれば、この獣は確か、そちらのほうから現れたような気がしていた。

「いいから、もう……ジンは、逃げてよ……っ!」

 と、ナナはつらそうに言葉を絞り出す。この期に及んでまだ言うかと、迅は説教したいくらいの気分だ。

 それを堪えて、迅は冗談めかして告げる。

「一人で逃げたって、どうせ他の魔物に見つかって殺されるよ。ならナナと一緒にいるほう選ぶだろ」

 肩を竦めて放った言葉。言ってから初めて、迅はその事実に思い至った。

 そんなことも考えられなかったのか、と迅は自分の間抜けさを笑う。仮に金狼が追ってこなかったとしても、逃げた先で他の間もに遭遇してしまえば、その時点でもう終わりだというのに。

「……ああ、そうだな。考えてみればその通りだ」迅は笑う。「うん、だから俺は、やっぱり自分のためにここに残ったんだよ」

 自嘲するような迅の言葉。

 それが単なる強がりでしかないことは、さすがにナナにもわかったようだ。

 彼女は、繰り返すようにただ、呟く。

「……バカ」

「ばかばか言うなよ……」

「バカ。本当バカ。ジンみたいなバカ、他に見たことない……」

「えぇ……さすがに傷つくなあ。ここは普通、もうちょい感動的な――」

「――でも、ありがとう」

「…………」

 不意打ちだった。迅は思わず息を呑む。

 そんな場合ではないと、慌ててかぶりを振って誤魔化し、

「……まあ、礼は助かってからだ」

「どう、する気……?」

「どうもこうも。ナナ、魔法、まだ撃てるか?」

 迅は訊ねた。考えている第二の賭けに、必要な前提条件だったのだ。

 果たして、ナナは答える。

「……一発くらい、なら。魔力、喰われちゃった、から……」

 途切れ途切れに呟くナナ。

 その様は酷く苦しげだったが、彼女には無理をしてもらわなければならない。

 迅は言葉を重ねて問う。

「喰われた、ってのは?」

「言葉、通りよ……。私が持ってた魔力を……奪われ、たの。金狼が――喰ったのよ」

「……それで、そんなに苦しそうなのか?」

「魔力ってのは、生命力のこと、だから……。なくなれば、大変よ、そりゃ……」

「そうか。それで、もう一発撃って平気なのか?」

「なんとか、ね……」

「……わかった。なら――」

 と、迅はそこでナナにひとつの提案をする。

 それが、第二の賭けだった。

 手短に話を聞いたナナは、驚いたように目を見開いて言う。よくもまあ、そんな小細工を思いついたものだと、ナナは迅の対応力が意外でならない。

「どう、できる?」

 迅は訊ねる。

 ナナは目を見開きながら、

「できる……けど、無理……だよっ。それだと、ジン、が、危険すぎる……!」

「どうせ何もしなきゃすぐ死ぬんだから。ゼロよりましなら、賭ける価値はあるだろう?」

「……ホントにバカだよ、ジンは。……うまく、いくの……?」

「さあ。正直、出たとこ勝負だよ」

「……呆、れた……」

「もちろん、アレを倒せるならいちばんいいとは思うけど。できるか?」

「……無理よ。あれは、ただの魔物じゃない。金狼は……神獣よ」

「神獣?」

「神の獣よ……言葉通り。神様ってこと。見たところまだ子どもだけど、人間が敵う相手じゃ……ない」

「……神、ときたか」

 そう聞いては、さすがの迅も驚いてしまう。

 同時に、その神々しさの理由を知った気分でもあった。

「見れば、わかるでしょ……? 森の木を、ただ走るだけ(、、、、)で、あそこまで薙ぎ倒して、進んで来たん、だから」

「…………」言われ、迅は絶句した。

 竜巻が通過したみたいなこの惨状が、ただの移動によって為されたものであることを知って。

 そこまで気づいて、迅はさらに戦慄する。

 迅は、ナナが噛まれているのを目にした後で、木が倒れる音を聞いたのだ。

 つまりこの金狼は、最初の一本を薙ぎ倒してから、それが地面に落ちるよりも早くこの数百メートル近い距離を詰めたことになる。

 あんなカマキリの魔物如きとは、比較するのも馬鹿馬鹿しい。

「なんでそんなもんがいるんだ、ここに……」

「知るわけ、ない……。今までは、いなかった」

 その間の悪さに、迅はほとんど絶望すら覚える思いだった。

 なんで自分が通るタイミングで、そんな怪物が生まれやがるのか。

 しかし、

「生まれたってことは、親がいるってことだよな?」

「え……? それは、そうだろうけど――」

「なるほど」

 ――そいつはいいことを聞いた。

 そう迅は口の端を浮かべ、あくどい表情を作ってみせる。

 ならばこの作戦、上手くいくかもしれないと。



     ※



「五秒あればいい」というのが、ナナの言葉だった。

 魔法を撃つまでに五秒。それが現在の残存魔力や傷の具合を加味して、十全な威力を籠めるのにかかる時間だ。それだけあれば術式を完成させ、風の弾丸を放つことができるという。

 だが当然、術式を完成させるまでの間、金狼がこちらを呆然と眺めていてくれるはずがない。金狼を押し留めているナナの牽制など、そう長く続くものではない。もちろん彼女が魔法を発動させようとすれば、その魔力の動きは金狼にも伝わってしまう。

 それが、撃鉄の代わりになるだろう。

 睨み合いも潮時だ。ナナが魔法を完成させるまでの間、動き出すであろう金狼の妨害を、迅が防ぐ必要があった。

 僅か五秒。

 たったそれだけの時間を、しかし、金狼を前に稼ぎきる自信など迅にはない。

 それでも、他に生き残るすべがないのだから。

 やるしかなかった。

「……任せたぞ、ナナ」

「ジンこそ。失敗したら、許さないから」

 ――優しい言葉だ、と迅は思う。

 だって、もし失敗したのなら、そのときにはもう迅は死んでいる。

 つまりナナは、迅に《死んだら許さない》と、そう告げてくれているということ。

 それだけのことが、力になる。


「行くぜ――!」

 迅は叫び、そして駆け出す。

 その立ち上がり際に、迅は地面に置いた土鍋を拾い上げた。それ以外に、武器になりそうなものは小枝くらいしか見当たらないからだ。

 同時、ナナがその掌に魔力を集め始める。その矛先を、神なる獣へと向けて。

 強い魔力がナナの両手に収束していく。

 金狼の反応は顕著だった。

 丸太のような後肢に力が籠められ、膨れ上がるように魔力を帯びる。筋力だけによらない神獣の膂力。それはナナから習った魔力操作と同じ、しかし遥かに強力な強化によってもたらされている。

 たとえるなら、炸裂寸前の爆弾だ。

 それが方向性を得て、次の刹那、撃ち出された弾丸の如く飛び出していく。

 ナナへと向けて、まっすぐに。口元に輝く銀の牙が、今度こそ少女を噛み切るべく。

 だが、

「させ――るか……ッ!」

 その直後、金狼の疾駆を阻害する影が踊り出た。

 迅だ。

 金狼が最高速にならない初速時点、その出がかりを潰しにかかる。ナナを狙うとわかっていれば、その妨害も不可能ではない。

 ――先を読め。

 そう自分に言い聞かせながら、迅は土鍋を盾代わりに構える。

 対する金狼も、その対応は迅速だった。

 攻撃の方法を牙から爪へ――その太い腕による一撃へと変更させる。上から下へ。その巨躯で、邪魔な障害じんを刻み、潰してしまおうと。

 ――一秒。

「…………っ!」

 その一撃を、迅は土鍋を構えることで防ぐ。

 土鍋の硬度の原因が、ここにきてようやく迅にも理解できていた。

 理由はわからない。あるいは、あの転移の影響だろうか。いつの間にか、土鍋には魔力が籠もっていたのだ。それも驚くほど密度の高い。それが、この土鍋の高度に影響しているようだ。

 だが、いくら土鍋が硬かろうが、衝撃はそれを越して迅の腕にまでとおってくる。

 痺れるほどの衝撃を、迅は歯を食いしばりながら堪えきった。踏ん張った足が土を撒き、膝や肘、あらゆる関節に重みが伝わった。

 それに、気を取られている暇などない。

「いっ、てえ――」もがくように息を吐きながら、土鍋越しに迅は蹴りを放つ。「――なあ、この野郎!」

 ――二秒。

 腹を目がけた蹴り。金狼は、けれどその一撃を躱さなかった。

 いや、躱すまでもなかったのだ。

 蹴りを加えた迅の脚に、重い痛みが響くように走る。まるで鉄板を思いっ切り蹴り抜いたかのような反動に、迅は堪らず「ぎ――」呻きを上げる。

 微動だにすらしない金狼の体躯。威力はそのまま反動に変わり、迅の脚へと返っていた。

 痛覚が絶叫する。なまじ筋力が強化されていたせいだろう、骨が砕けたかと思うほどの激痛が迅を襲い、その動きを止めようとする。

 ただ、加速していく思考が冷静に告げていた。

 止まれば死ぬと。

 ならばこの程度の痛みで、止まることなどできないだろう。

 涙目を見開き、迅は金狼の動きを見る。

 ――三秒。

 金狼は、最初の一撃とは逆の腕を、今度は横薙ぎに振るってきた。

 倒すのではなく、邪魔な迅を振り払おうとする動きだ。金狼にとってより脅威なのは、迅よりもナナのほうだということだろう。

 その一撃を、迅はやはり土鍋で防いだ。ここに来て迅も、土鍋の扱いに慣れてきたらしい。

 だが。

「く――!?」

 強烈な破裂音が、迅の掌の中から起こった。

 ついに土鍋が限界を超えたのだ。

 迅の命を守ってきた盾は砕け、その破片を周囲へと散らばせる。

 破片は弾丸のように散逸し、迅の頬を掠めて小さな傷を刻んでいく。それはまるで小さな爆発を起こしたかのような勢いで、迅はそのまま、頭から落ちるように地面へと押し倒されてしまう。

 もんどりうって回転するかのように、迅は左肩から思い切り地面へと激突する。

 激痛。息が詰まり、迅は無防備に隙を晒してしまった。

 ――四秒。


 失敗した――と。そのとき、迅はそう確信した。

 まだ四秒だ。稼ぐと約束した五秒まで、あと一秒足りていない。

 迅は死んではいなかった。だがそれは金狼が迅を殺すより、ナナの排除を優先したからだ。

 倒れ、地面に身体を打ちつけ、そうしながらも迅は思う。

 加速する思考が、何十倍にも押し広げられていた。まるで走馬灯のように、周囲の景色がスローで流れていく。回る思考が、刹那に希釈されていた。

 だからだろう。その瞬間を、迅は確かに捉えていた。

 金狼がナナまで踏み込むのには、時間は一秒すら必要ない。ナナが魔法を放つよりも、金狼がナナの喉笛を食い千切るほうがずっと速い。

 そうなればお終いだ。ナナは死に、迅もまたおまけのように、あっさり殺されてしまうだろう。


 ――いや……!


 させて堪るか。そんな思考が、どこからともなく湧いてくる。

 それが強い意志を伴う勇気だったのか、それとも単なる開き直りの蛮勇だったのか。

 それはわからない。

 ただ迅は諦めてなどいなかった。様々な情報が竜巻の脳に脳内で乱れ、迅を冷静にさせていく。

 倒れていく身体、砕けた土鍋。教えられた魔力操作と、ナナが使った魔法との違い。駆け抜けようとする金狼と、その強靭な肉体。

 そして――今もまだ迅を信じたまま、必死で魔力を練り上げる白い少女。

 全ての点が線で繋がる。

 そうして、迅はひとつの境地へと至った。


「――は」という笑みが、自然に零れた。

 その確信が、いったいどこから現れたのかはわからない。今の迅にはわからないことだらけだ。確かなものなんてほとんどない。

 それでも確かに、ナナが待っているのだから。

 自分を信じて、今だって。

 ならばもう、できるできないなんて考慮する必要がない。

 ただ――やるだけだった。

 そして。

 倒れる身体を支えるように、迅の右手が地面に着いた。


「――喰らいやがれ、化物」


 瞬間、爆発が巻き起こった。

 迅の魔力を盛大に喰らった地面が、膨れ上がるように隆起する。それと同時、砕けて散らばった土鍋の破片が、魔力の昂りに呼応して輝きを発した。

 どんな乱数が、その奇跡を呼び寄せたのか。迅の魔力に触れた土は、貪るように次を欲する。

 迅は地面に求められるまま、その指先から魔力を流す。

 貪欲に吸い上げられた魔力は、やがて臨界に達し、堪えきれずに決壊した。

 まるで間欠泉のように、地面から魔力が吹き上がる。

「――――――――!!」

 土くれを連れた魔力の渦が、金狼の身体を撃ち抜いていく。さしもの金狼にとってさえ脅威となる、それは魔力の暴発だった。

 魔法などとは決して呼べない、垂れ流しの魔力流。

 それも、規模によっては大砲の一撃と同じだ。

 あるいはそれは、自爆だった。金狼の身体を撃ち抜く魔力流。その余波は当然、すぐそばで倒れ込む迅の身体にも及んでいる。

 攻撃の直撃を受けた金狼は、その全身に急制動を掛けて後ろへ跳ぶ。全力での回避。普通なら、それでも間に合わないはずの不意打ちを、金狼はわずかな負傷だけで躱してみせた。その身体能力は、まさに神なる獣の本領と言ってよかっただろう。

 結局、文字通りの自爆攻撃でさえ、迅はたった一秒の時間しか作ることができなかった。

 それでも。

 その一秒は、金狼にとって致命的だった。


「――五秒だ」


 と、迅が笑う。それは勝利を確信した笑みだった。

 一度に多量の魔力を使い、今度こそ何もできずに倒れていく迅。けれどその目には、前方へ向けて手を伸ばす、ナナの姿が映っていた。

 白い少女の小さな口が、わずかに動いて言葉を紡ぐ。

「私たちの――」

 勝利だと。

 刹那、少女が掲げた両の手から、風の弾丸が射出された。 

 吹き荒ぶ竜巻のエネルギーが、掌ほどにまで凝縮された弾丸。量り知れない運動量が一気に虚空へと撃ち放たれ、螺旋を描きながら飛んでいく。

 比喩ではなく、目にも止まらぬ速度の魔弾。

 それは迅の横を掠めて跳ぶと、さらに金狼すら超えて森を奥へと貫いていく。

 まるで金狼が作り出した破壊の道を、逆側からなぞるように。

「――――!?」

 咄嗟に、金狼は背後を振り仰いだ。自らをまるで無視するかのように、彼方へ向かう魔弾を追って。

 そう、それは初めから、金狼を狙った攻撃ではなかったのだ。

 二人は初めから、金狼を倒すという選択肢は捨てていた。理由は単純で、そんなことは不可能だからだ。

 金狼は神獣、神なる獣である。その体毛はどんな鎧よりも強固な魔力抵抗を誇っており、生半な攻撃魔法では傷ひとつ負いはしない。

 小技では傷つかず、大技は身体能力で回避する。その防御能力こそが、金狼の神獣たる所以だった。

 あるいはナナの最後の魔法ならば、金狼の防御を貫いて、傷を負わせることも可能だったかもしれない。あの風の魔法には、それほどの魔力が籠められていた。

 だがそこで終わりだ。傷は負っても、致命傷までには至らない。まして相手は魔の眷属だ。魔力の溢れている限り、受けた傷など数秒と経たない内に回復してしまう。

 そうなれば、力を使い果たしたナナと迅の運命など決まっていた。

 ならば、なぜ迅はナナに魔法を撃たせたのか。

 その理由は――、


「……やっぱり、ね」


 無言のうちに反転し、背後へと駆けていく金狼の姿が物語っていた。

 まるで飛んでいった風の魔法を後から追うように、金狼は元いた場所へと駆け戻っていく。

 それこそ矢か弾丸の如く。金狼は、現れたときと同じ唐突さで、二人の前から姿を消していた。

 その行動は、迅の推測が的中したことを意味している。


 ナナは言っていた。

 こんな魔物は、これまでこの森にいなかったと。

 それは言い換えれば、あの金狼が、つい最近生まれたばかりだということだ。

 そして当然、生まれた以上は、あの金狼にも親がいることになる。

 その推測は実のところ、魔物に関しては必ずしも正解だとは言えない考えだったのだが、少なくとも金狼に関しては当たっていた。

 この金狼は、迅とナナに対し、常に同じ位置取りを保っていた。初めに現れた方向を、金狼はずっと背にして戦っていたのだ。

 そのおかしさに迅が気づいたのは、金狼の身体能力を知ったときだった。

 その常軌を逸した敏捷性と、この森の立地を考えれば自ずと気づく。金狼はもっと縦横無尽に、跳ね回るように動いたほうが遥かに強いということに。

 それでも金狼は、どうしてか地に足をつけて、直線的な動きしか見せなかった。

 その理由を――迅は、背後に何か守るものがあるからだと考えたのだ。


 たとえば。

 出産直後で体力のない、母親の金狼がいるのではないか、とか。


 そんな推測が無論、正しいだなんて確証はない。むしろ盛大に願望が混じっていた。

 それでも、何もしなければ間違いなく死んでしまうのだ。賭ける理由としては充分すぎる。零パーセントの生存確率を、たとえ一パーセントだとしても、上げられるのなら上等だろう。

 諦めなければ望みは叶う、なんて言い回しは戯言だ。詐欺師でさえ、そこまで甘い台詞は吐かない。

 だがそれでも、諦めていたら死んでいた。

 ――さすが異世界。一筋縄ではいきそうにない。

 迅は、そう考えて笑みを作る。

 ともあれ、それでも、こうして二人とも生きているのだから。

 ならばとりあえず、足掻いた甲斐はあったのだろう。


「――ジン!」

 と、どこか遠くの方向から、名前を呼ばれたような気がした。

 それがナナだと気づくまで、一瞬の時間を要してしまう。それほどに迅はぼろぼろだった。

 魔力の量は、それでも少し余裕がある。

 ただ先程の自爆特攻が、多大なダメージを迅に与えていた。金狼よりもナナよりも、迅がいちばんの重傷だろう。

 なにせ金狼に傷をつけるほどの攻撃だ。たとえ余波とはいえ、生身で受けて無事なはずがない。

 朦朧としていく意識の中で、迅はナナの叫びを聞く。

「ジン! すぐに逃げないと――ジン! ねえ、しっかりして――」

 必死に声を嗄らせるナナ。

 その声に、なんとか返事ができないものかと、迅もまた必死で言葉を作る。


「……すまん。あと、任せた――」


 見事なまでの他力本願。

 その言葉が、果たしてナナに届いたかどうか。

 それさえわからないままに、迅はゆっくりと意識を手放していた。

 閉じる瞼の向こう側に、ナナの泣き顔を捉えながら。

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