1-02『魔法講座入門編』
「も、もういいでしょ……離してよ」
繋いでいる手を見つめるナナが、赤らめた顔で、上目遣いにナナは迅を睨んだ。
釣られて迅までが、なんとなく照れくさいような気分にさせられてしまう。
「あ、ごめん……」
「……別に」
慌てて謝罪し、手を離すす迅に、ナナもまた不器用に言葉を返す。
名状しがたい微妙な空気が、互いの間を流れていた。
「……とりあえず、一緒に来なよ」ナナが、何かを誤魔化すように言う。「訊きたいことはいろいろあるけど、こんなところで話すわけにもいかないしね」
「それもそうか……」
思い出したように迅も頷く。助けられたことに安堵しすぎて、他の脅威に頭が向いていなかったのだ。
あの化物――魔物が、他にも出てくる可能性はある。
「ま、幸いこの近くには、他の魔物はいないみたいだけど。今のうちに早く行くよ」
「……あの小屋の中なら安全なのか?」
ナナの発言に、引っかかるものを感じて迅は訊ねた。
ナナはきょとんとした顔で、
「そりゃ、こんな場所に建てる以上は結界くらい張ってあるわよ」
「ああ、うん。結界ね。なるほど」わからない。
とは思ったが、この場で話し続けるわけにもいかず、迅はそれ以上を口にしなかった。
あの昆虫型の怪物――魔物に襲われた経験は、迅に確かな恐怖を刻んでいる。
生まれて初めての死の恐怖を、迅は決して忘れていない。小屋の中が安全だというのならば、一刻も早く戻りたかった。
それに、実のところ。
ナナの告げる言葉の意味が、本当に全てわからないというわけでも、なかったのだから。
※
ナナに先導されるように、迅は小屋へと逆戻りした。
ほんの数分ほど前に通り抜けた扉。それを、今度は中へと通る。
そして、開いた扉をまた閉めた。
「これでもうだいじょうぶ。結界が作動するから、魔物はこの建物の存在にも気づけなくなる」
「……なるほど」
と零す迅。ようやく人心地をついた気分だった。
玄関を開けてすぐの部屋は、四角の卓と椅子のある、この小屋で最も広い部屋だ。
勝手知ったる、とばかりに部屋の奥へと進んでいくナナ。
それを目だけで追っていた迅に、彼女は振り返って告げた。
「今、お茶でも淹れるね。ちょっと待ってて」
その自然な様子に、今さらのように迅は問う。
「……ここは、ナナの家なのか?」
「いや、家っていうか」ナナは苦笑。「うーん……職場、かな?」
「職場って……」
「ま、その話はあとでいいでしょ。とりあえず、そこの椅子に座って待ってて」
迅の疑問をばっさり切って捨て、ナナは部屋の中央を片手で示した。手持ち無沙汰になった迅は、仕方なく言われた通りに腰を下ろす。
未だ持っていた土鍋を机の上に置き、すごすご椅子の上で小さくなる迅。
ナナはといえば、そんな迅など意に介する様子もなく、
「えーっと、お茶っ葉はどこにしまってたっけ?」
などと、すっかり寛いだ様子で壁際の棚を漁っていた。
他にできることもなく、迅はしばらく、そんなナナの様子を漫然と見つめていた。
それから、およそ一分後。
「あ、やっと見つけた」
とナナが言った。棚の奥から、目当てのものを見つけ出したらしい。
彼女が取り出したのは、茶葉が入れられた小さな瓶だった。ナナは同じ棚から水差しらしき容器と、さらにカップをふたつ取り出して言う。
「んー、自分じゃあんまり作らなのよね……うまくできるかな」
そこはかとなく不安になるような台詞だと迅は思った。
お茶を淹れる程度、そこまで難しい行為ではないと思うのだが。それとも、この異世界では何か別のやり方でもあるのだろうか。
と、そこまで考えたところで迅は、ふとひとつの疑問に思い当たる。
――そういえば、ナナはどうやってお湯を沸かすつもりなんだろう?
それが迅にはわからなかった。見たところ、火をつけられるようなものが部屋の中に見当たらない。まさか金属製の水差しの中に、湯が保温されているようなこともないだろうし、さてどうする気なのだろう。
首を傾げる迅の前で、ナナは左手に水差しを持つと、逆の右手を水差しの底側へと回した。
そして「えい」と可愛らしく呟くと、
――掌に、燃え上がる炎の塊を出現させた。
「うおわあっ!?」
思わず椅子から転げ落ちそうになる迅。
唐突な炎の発生に、文字通り動転するほど驚いていた。
「ん、やっぱ火属性は苦手だなあ」
ナナはといえば気楽なもので、特に慌てることもなく平然とした様子だ。
掌にちょうど納まるような、ソフトボール大の火炎。
ナナはそれを水差しの底に当てて、中の水を沸かしている。
「手から火って……」
呆然と呟く迅に、ナナは少しむっとしたように唇を尖らせる。
「何よジン、ちょっと大袈裟すぎない? 別に天井を燃やしたりしないわよ」
無論、迅が驚いたのはそんな部分じゃない。
というか、その可能性には言われてから思い至った。
「……何、それ?」
迅は訊ねる。その問いは、しかしほとんど確認だ。
本当は、訊ねる前から答えなんてわかりきっていた。
果たして。ナナは、当たり前のように言う。
「何って、魔法に決まってるでしょ」
「……ああ、魔法か。魔法ね。まあ、そりゃそうだよね」
口の端を引き攣らせて迅は笑う。
――魔法。魔法だ。本物だ。
そんなことを、ただ呆然と考えていた。興奮が抑えられなかった。
思い返してみれば、魔法らしきものは、すでに何度か目にしている。
土鍋から漏れた光とか、細切れにされた魔物とか。
それらが魔法だというのなら、確かに説明はつくのだろう。
不合理な事態に、不合理な解答で納得を作るというのも奇妙だったが、異世界だというのなら確かに、魔法くらいあってもおかしくない。迅は自然にそう思う。
ただ改めて、強く思い知らされたこともあった。
この場所が――異世界であるという事実。
その逃れようのない現実を、迅はこのとき、最も強く自覚していた。
「ナナは、魔法使いだったのか」
迅は言う。その言葉には、ちょっとした尊敬の色が含まれていた。
迅とて男子だ。魔法使いという存在に、憧れたことがないと言えば嘘になる。
そんな場合でないことくらいはわかっているけれど。
それでも、上がるテンションを抑えきれない。
「当たり前でしょ。そうでもなきゃ普通、結界林に入り込んだりしないわよ」
「じゃあ、あの……魔物だっけ。あれも魔法で倒したんだよね」
「風の魔法ね。私は、風がいちばん得意なのよ」
「ふぅん……強いんだね、ナナは」
「というか、あの魔物が弱かったのよ」
誇るでもなく、ナナは坦々とそう言った。それは要するに事実であり、つまり迅は、そんな雑魚の魔物にすら一方的に殺されそうになっていたというわけのようだ。
魔法だとか、魔物だとか。地球では創作でしか耳にしないような単語が当たり前のように連呼される世界に、迅の常識は盛大に揺らされ続けていた。
――こんな世界で、本当に生きていけるのだろうか。
魔法を見た興奮もどこへやら。迅の胸中には、暗い靄が立ち込めていた。
「――それよりも」
お茶を淹れ終えたナナが、カップをふたつ持って机のほうに寄っていく。
それを机の上に置くと、彼女は迅のちょうど対面に腰を下ろす。
「ジンはいったい、どうやってこんな結界林の奥まで来たの?」
「……えっと」
「だってジン、魔法は使えないでしょ」カップの片方を迅に渡し、ナナは言葉を続けていく。「魔法も使えずに、どうやってこんな結界林の奥まで来られたのか、私は不思議で仕方ないんだけど」
その言葉に、さてなんと答えたものかと迅は思案する。
仮に本当のことを言ったとして、果たして信じてもらえるものだろうか。
その可能性は、五分五分くらいだと迅は考えていた。
ナナの発言を鑑みれば、この小屋の外に広がる森には、おそらくあのカマキリ以外にも魔物が多く跋扈しているということなのだろう。中にはおそらく、あのカマキリよりも凶悪な魔物がいる。
そんな森の中を、まさか運だけで突破したと言ってもナナは信じないだろう。迅の存在を、ナナが疑問に思っているということは、この場所が森のだいぶ奥まった地点だということだ。
そこまでは、迅にも簡単に想像がついた。
だが、かといって「気がついたらこの場所にいました」などと言って、それを簡単に信じる人間がいるとは考えにくい。少なくとも、地球にはまずいないだろう。
ではこの異世界にはどうか。迅は、この世界の《魔法》というものについて思案する。
――魔法。
そんなものの存在を、迅はそれこそファンタジーな創作物の中でしか知らない。ゲームとか、漫画とか、あるいは小説とか。ともあれ、いずれにせよ現実のものだと認識したことはなかった。
それが今こうして現実に存在していることを、しかし迅はことのほかあっさりと受け入れることができていた。
確かに、迅は魔法なんてものの存在を知らない。けれどそれは決して、迅にとって縁遠い概念というわけでもないのだ。
それは迅に限らず、現代の日本で生きるたいていの人間にとって同じだろう。ゲームなり漫画なり小説なり、どこかで必ず魔法というものに触れる。現実のそれではない設定だけだとしても、捉え方の糸口くらいにはなるのだ。
迅は考える。この世界での魔法の在り方を――別の表現にするのなら、この世界における《魔法》の設定を迅は考察する。
この世界で、迅が今までに触れた魔法は全部で三つだ。
そのうちの二種類は、ナナが使った火と風の魔法である。彼女は《火属性》とか、《風の魔法》という表現を用いていた。現代っ子の知識からすれば、よくある魔法の設定だ、と捉えることができる。
こちらについての考察を、このとき迅は意図的に飛ばした。ナナの反応から察するにこの世界ではポピュラーな魔法であるらしいが、今のところは関係がない。
問題は、この世界で迅が最初に触れた魔法。
即ち、迅をこの世界へと送り込んだ、あの土鍋から漏れていた光の魔法についてだ。
迅はそもそも、あの現象が魔法であるという確証を持っていない。だが、かといって魔法以外の何かとして説明をつけるのも難しいだろう。ならばひとまずは魔法の一種だと、そう考えて問題ないはずだ。
さて、果たしてこの世界の魔法とやらは、いったいどの程度までの行為を可能とするのか。
迅の経験が魔法ならば、人間ひとりを瞬間的に、まったく別の場所に送ることは可能だと判断できる。
問題はそれが、この世界の人間にとってありふれたものであるのかどうかだ。普通の魔法使いには使えない、超高等魔法が云々――なんて設定は、割とありがちなもののように思える。
無論そんな創作上の考え方を、そのまま現実に当てはめることもできないだろうが。
――と。
そこまで判断した迅だったが、結局その疑問に答えを見つけることはできなかった。考察の材料が足りなすぎる。
一方、長々と考え込んでいた迅を不審に思ったのだろう。ナナが怪訝な表情で、迅に言葉をかけてきた。
「……ジン? どうかしたの?」
「あ、ごめん。なんでもない」慌てて誤魔化す迅。「えっと、なんで俺が、この場所にいるのかだっけ」
「そう」
「…………」
逡巡する迅。だが答えは出ない。
結局、迅は正直に答えることにした。遠回りに考え込んだが、そもそも嘘をつく理由がない。信じてもらえるかはわからないが、そのときはそのときだろう。
そもそも、考え込むなど自分には合わない。向いていないのだ。
迅は、そう開き直って、答えた。
「あー……っと。俺さ、実は気がついたらこの場所にいて。どうして自分がこの場所にいるのか、俺にもよくわからないんだ」
「――ああ、やっぱり」
と、ナナは言った。
その答えに、迅は思わず目を見開く。
まさかそんな風に返されるとは思っていなかった。
「え、やっぱり、って?」
「うん。そうじゃないかとは思ってたのよ。ジンがこの森をひとりで抜けられるわけないし。ならきっと、《無色の迷子》なんだろうな、って」
「……ごめん、なんて?」
「《無色の迷子》。言葉の通り、色のない、迷い人のこと」
「…………」
「ジン、そんなことも覚えてないんだね。魔法を見て驚いてたから、もしかしてとは思ったんだけど……」
目を細め、ナナは痛ましいものを見るような表情で迅を見た。
予想していなかった反応に迅は狼狽えるが、そんな様子は彼女にとって、むしろその考えを補強するものでしかなかったらしい。
ナナは自分の華奢な胸をどん、と叩くと、任せろとばかりに迅へ微笑みかける。
周章して首を捻る迅に、ナナは、
「だいじょうぶ。記憶がなくてつらいとは思うけれど、最低でも森の外までは、私がしっかり送ってあげるから!」
「は? 記憶? ……は?」
「名前を憶えてるんならまだ、希望はあるほうだよだから。諦めないで、自分をしっかり持ってなさいよ」
「……………………は?」
※
――無色の迷子。
それは、色彩を奪われた流離い人を指す言葉だという。
この世界には魔法がある。それはつまり、魔力があるということと同義だ。
魔力とは、暴論すれば不思議の源のことだ。魔力が溢れる空間では、様々な不可思議が自然に発生する。
たとえばこの《結界林》と呼ばれる森林が最もわかりやすい例だろう。魔力の溢れるこの森には、魔物が自然に発生する。ただ人を襲い、人を殺すためだけに発生する殺戮機構。それが魔物だ。魔物が自然に発生する空間を、結界で隔離してあるからこその《結界林》というわけだった。
魔力は他にも様々な不思議を発生される。
ごく稀に、ではあるが。まったく見知らぬ場所に、いくつかの記憶を奪われた状態で、唐突に放り出される人間がいるのだという。
それが《無色の迷子》だった。
どこから来たかわからない、そも自分が誰なのかさえ判然としない。そんな状態で、ふと魔力の濃密な場所に放り出される憐れな迷子。いつ誰がそうなるのか、どこに放り出されるか、どこまで記憶を失うのか。それは場合によって様々らしい。
ただときおり、ふと何かのきっかけで過去の自分を思い出し、故郷に帰れることもあるという。または故郷からの捜索人が、迷子を見つけ出してくれる場合もなくはないとか。
しかしたいていの場合は、そのまま第二の人生を生きる以外にないという。
ナナは、迅がその状況にあると考えたらしい。
「……怖い。異世界、マジ怖い」
頬を引き攣らせて迅は言う。魔法という言葉でテンションを上げた、少し前の自分が恐ろしかった。
よもやそんな神隠しみたいなことが起こり得るなんて。
思わず身震いする迅だったが、そんな様子もナナから見れば、自己喪失の不安に映るらしい。
「だいじょうぶ?」と、心配そうにそう訊ねてきた。
基本的に善人気質な少女なのだろう。会ったばかりにもかかわらず、そこまで気遣ってくれるナナが迅にはとてもありがたい。
そして同時に、強い罪悪感を与える存在でもあった。
なぜなら、迅は《無色の迷子》などではない。ただの異世界人だ。
ただの異世界人、などという表現がもう不自然極まりないが、それでも少なくともこの世界の人間ではない。
いや、ともすれば記憶が混乱して、自分が地球出身の異世界人であるという《妄想》を抱いているだけの可能性が、ないとまでは言い切れなかったが。
さすがに、それだけはないと信じたかった。
冬火や楽との思い出を、嘘だと考えることなんてできない。
「とにかく、私と一緒にこの森を抜けよう? ルルアートの街まで出れば、何か思い出せるかもしれない」
ナナが言う。親身な彼女に今さら、自分は無色の迷子とやらではない、とは言い出せなかった。
まあ、考えようによっては似たようなものか、と迅は自身を納得させる。
頼るところもなければ、この世界に関する知識もない。そんな迅は、確かに記憶喪失の迷い人と、状況としては変わらない。
「……じゃあ、悪いけど、いちばん近い街まで送ってくれるか?」
迅は問う。いささかばつの悪い思いではあったが。
先程は『恩返しをする』などと宣っておいて、早々にまたナナへ頼っているのだから。
格好悪いにも程があった。
けれどナナは、そんな事情など露ほども感じさせないような笑顔で言う。
どころか、むしろ頼られることを喜んでいるかのような節さえある。
「任せて。この森の魔物程度になら、私が負けることはあり得ないから。大船に乗った気持ちでいてよ」
「ありがとう」
「それよりもジン、街に着いてからはどうするのよ」
「……どうしようね。とりあえず、何か仕事でも捜してみるよ」
適当な思いつきを迅は言った。
もちろん、そんな簡単に職場が見つかるとは迅も考えていない。だが、かといってこれ以上ナナに甘えるのも憚られた。
いずれにせよ、まずは行動の基盤を作り、先立つものを揃えなければ、冬火や楽を捜すことさえできないのだ。仕事と寝床。それを見つけることが、最優先の目標になるだろう。
「もし困ったら、ルルアートでいちばん大きな建物に向かってみるといいと思う」
「大きな建物? あー、それは貴族のお屋敷とか?」
「厳密には違うけど、まあ似たようなものね。街の代表の、ウェアルルア家のお屋敷があるの。《無色の迷子》だって言えば、保護してくれるはずだから」
「……ありがと。いいこと聞いたよ」
迅が礼を言うと、ナナはすぐさま顔を赤くした。
「別に。どうなるかなんてわからないわ」
どうにも照れやすい性分のようだ。
そんな様子が、迅には素直に可愛らしく思えた。
「それよりも」
話を誤魔化す、というよりは、軌道を修正してナナが言う。
今までよりいくぶん真面目な顔つきになり、
「森を歩くなら最低限、魔力を身体に通せないと話にならないわね」
「……ん、どういうこと?」
首を傾げる迅に、ナナは右手の人差し指をぴんと立てて説明を始める。
「最低限度の魔法は、今から使えるようになってもらうってこと」
まるで出来の悪い弟を教導する、姉のような感じでナナは語った。
そういえば、ナナの年齢はいくつなんだろう。迅はそんなことをふと考える。
見たところは年下のようだが、さて。
「……ジン? 聞いてる?」
と、ぼんやりし始めた迅を、睨めつけるようにナナが言った。
少し不機嫌に頬を膨らませて、
「ちゃんと聞いてないで、あとからどうなってもしらないからね」
「ごめん、聞いてる聞いてる」慌てて迅は頷いた。「魔法だよね魔法、魔法……え? 魔法?」
「ほら聞いてない」
「いや聞いてたけど……」
聞いていたからこその困惑だ。
まさか、魔法を使うように指示されるとは思っていなかったからだ。
「え? 魔法って、そんな簡単に使えるようになるものなの?」
「ならないわね」
あっさりとナナはそう答えた。
言っていることが違うじゃないかと、今度は迅が、ナナに半目を差し向ける。
ナナは首を振って、
「別にからかってるわけじゃなくて。まあ、魔法というか、その前段階ね」
「えっと……具体的には?」
「自分の身体に、魔力を通してコントロールするの」
立てていた指を、すっと迅の胸の辺りに向けてナナは言う。
心臓のちょうど上の辺りへ、柔らかに触れた白い指。迅はわずかに緊張したが、ナナの表情は真面目だった。
指がすっと離れ、ナナが説明を再開する。
「森の中が、魔力で溢れているっていうのは、さっき言ったわよね?」
「うん。確かに聞いた気がする」
「よろしい。でもね、空気中に溢れている魔力って、身体にとっては毒なのよ」
「…………」
迅は自分が、毒ガスで満たされた空間の中へ無防備に入り込む姿を想像した。
そして身震いする。
先程の自分の行動が、どれだけ危険なものだったのかを自覚して。
「心配しなくても、大した毒性じゃないわよ」
青褪めた迅に気づいたのだろう、ナナは悪戯気にそう微笑む。
からかわれていたのだ。それに気づいて、迅はほっと息をついた。
ナナは続ける。
「でも空気中に溢れている魔力が、必要以上に身体へ入ってくるのはあまりよくない。それを防ぐために、自分の魔力で、自分の身体を守ってあげなくちゃいけないの」
「魔力で魔力を防ぐ、ってこと? なんか矛盾してる気がするけど」
「もちろん、自分の魔力も毒は毒だよ。でもさっきも言った通り、多少ならあまり問題はないの。最低限の魔力を全身に通わせておけば、それだけでもう、外から入ってくることはなくなる。結果的に、浴びる量は少なくなるってわけ」
「なるほど……」
「魔力を身体に通わせる恩恵は他にもあって、まあ、単純に言えば身体能力の底上げができる」
言うとナナは前触れなく、右の手をすっと持ち上げた。
その動きに誘われて、迅の視線は自然とナナの手を追った。
「見てて」と、ナナが告げる。
それと同時に、ふとナナの手に何か、無色の力のようなものが集まっていくのを迅は感じた。
目には見えない、エネルギーの塊みたいな何か。その存在に気がついた迅は、目を丸くしてナナの指先をまじまじ眺める。
「……わかるみたいだね。なら、迅には魔法のセンスがあるかも」
「そうかな……?」
「それとも忘れているだけで、本当は魔法使いだったのかも。……ね、ジン。私の手を押してみて」
唐突にナナがそんなことを言った。掌を見せるような形で、迅にその手を向けている。
首を傾げつつも、迅は言われた通り、ナナの左手に自分の右手を重ね合わせる。
そして、それを押してみた。
「…………」が。
ナナの手はびくとも動かない。まるで空中に固定されているかのように、文字通り微動だにしなかった。
ナナは続けて、「もっと強く。動くまで押して」と迅に告げる。
その言葉でジンも本気になった。
ゆっくりと、だが確実に力を籠めて、ナナの掌を迅は押す。
だが動かない。
迅は微塵の遠慮もなく、渾身の力でナナを押した。ついには椅子から立ち上がり、両手で思いっ切りナナの腕を押す。
そして、それでも、動かせなかった。
迅よりも一回りは身長の低い、華奢でか細いナナの片手が。
膂力で、迅の全力を上回っている。
早々に諦めた迅は、疲れた腕を振りながらナナに訊ねた。
「……ナナって、実は腕力世界一、とかだったりする?」
「そんなわけないでしょ」ナナは苦笑。「普通の腕力なら、もちろん迅のほうが強いよ」
「じゃあ……」
「そう、これが魔力を身体に通すっていうこと。こんな感じで、筋力とか、他にもいろいろ身体の性能を強くできるの。便利でしょ?」
「……いや、便利っていうか」
いっそ怖ろしいとさえ迅は感じる。
こんなにも簡単に、常識外れの筋力を手に入れることができるというのだから。
魔法が現実になっている世界。
その恐ろしさを、思い知らされたかのような気分だった。
「それじゃ、次はジンの番ね」
とナナはまた迅の心臓へ手をやり、「目を閉じて」と静かな声で言った。
その声に誘われるかのように、迅はゆっくりと瞼を閉じる。
なんとなく、全身の神経が拡大されていく感覚があった。まるで意識が空気に融けて、部屋の中へと広がるかのような、そんな感覚。
どこか遠くのほうから、柔らかな少女の声が聞こえてきた。
その声が、迅へと向けて優しく告げる。
「イメージして。自分の心に、強い力の塊があるという感覚を」
とく、とく、と。強く大きな心臓の律動が、その存在感を増していく。
それは迅の肉体の、精神の、心と魂の奥底に、何か強いエネルギーが眠っているという確信の音色だ。
「その無色の力を、自分の心で支配する想像をするの。身体の奥深く、心の真ん中のほうから、次第に全身へと広がっていくみたいに」
そのとき、迅が想像したのは、強烈な勢いで炸裂する爆弾だった。
自分の心臓が、一個の爆発物と化しているイメージ。
大きな力の塊が、瞬間、爆発するように全身へと広がっていく――。
「――――ぐ――――あ」
刹那。迅は真実、自らの肉体が弾け飛んだかのような錯覚を得た。
魔力というエネルギーの奔流が、迅の全身を一気に駆け抜け、内側から突き破らんばかりに暴れ出す。
身体が火のように熱い。いや、氷のように冷たい。いや、何も感じていないのか。
何もわからない。
ただ喘ぎたくなるような息苦しさと、強烈なまでの吐き気だけが感覚の全てになっている。
気持ち悪い。気持ち悪すぎて、死にそうだ。
「――ジン! 出しすぎ! もっと抑えてっ!」
ナナの声が、迅の耳朶を揺さぶった。
それでどうにか意識を取り戻すが、けれどどのように魔力を制御すればいいのかがわからない。
体内を暴れ回る強烈な不快感を必死で抑え込みにかかる。
「広がらせるだけじゃダメ。その力を制御して、全身を循環させるの!」
もはや、ナナの声など聞こえてはいなかった。
ただ念じるように繰り返す。
――収まれ。暴れるな。収まりやがれ。
勝手は許さない。言うことを聞け。
俺の力なら、俺の指示だけに従っていろ――!
「――――――――、収まった」
と。そして、迅はそう、息も絶え絶えに呟いた。
その目の前には、ほっとしたように胸を撫で下ろすナナの姿だ。
「……びっくりした……」
「……俺もだ。こんな風になるなら、先に言っておいてほしかった……」
「ふ、普通ならないわよ……」
「……そうか」
それだけ呟くのが精いっぱいだった。
と、いうほど体力を消耗したわけではないのだが。ただ、精神的な疲労があった。
――本当に、死んでしまうかと思ったのだ。
身体の中で爆発が起きて、毒物が撒き散らされた感覚だと本気で思った。
あるいは迅は、あの魔物に襲われたときよりも強く死を意識したかもしれない。
それくらいの疲労感がある。
「ともあれ、いちおう成功したね」
とナナが言う。
そこで迅は、初めて自分の中に、今までは気づいていなかった新しい力が宿っていることを自覚した。
その感覚を、言葉で説明するのは難しい。
たとえるなら血流か。物凄いエネルギーを持った何かが、血管の中を勢いよく流れているみたいな感覚。
それが、魔力の感覚だった。
「いや、ひやひやしたよ……」
ようやく落ち着きを取り戻し、迅はほっと息を吐いた。
ナナもはわずかに微笑んでから、困ったように答えを返す。
「それはこっちの台詞ね。普通、あんな風に魔力が過剰に溢れたりしないよ?」
「……やっぱ俺、魔法の才能ないんじゃない?」
「どうかな、一概には言えないかも。魔力が溢れるってことはつまり、一度に扱える総量も多いってことだから。訓練次第だね」
「んじゃ、俺も鍛えれば、魔法使いになれるのか?」
半ば冗談で、迅はそんなことを口にする。
するとナナは、何か意外なものを見るような目になって、
「ジン、魔法使いになりたいの?」
「え? まあ、ちょっと憧れはするかな」
「そうなんだ。少し意外」
「そう?」
首を捻りながらも、迅はナナに淹れてもらった茶を口の中へと一気に流し込む。
少しぬるくなった茶が、喉の渇きを潤していく。生き返るような心地だった。
異世界のお茶は、しかし別段、地球のものとそう変わらない味だった。近いもので言うならマテ茶かな、と迅はなんとなく考える。
「ジン、力入れすぎよ」突然、ナナがそう言った。
「え?」と迅は首を傾げる。
ナナは目線で、迅が持つカップを示してくる。
従うように目線を落とした迅は、自分が握っているカップに、小さな亀裂が走っているのを目にした。
「……これ、もしかして俺がやった?」
「うん。まったく、壊さないでよね」
「ご、ごめん……」
頭を下げて迅は謝罪する。向上した自身の身体能力を、まだ制御できていないらしい。
ナナは苦笑し、「気にしないで。初めはみんな、そんなものだから」と迅を慰める。あまり怒ってはいないらしい。
「ま、まずはその状態に慣れるところからね。魔法使いへの第一歩は」
「なんか、学校の先生みたいだな、ナナ」
「え……そ、そう?」
その表現が嬉しかったのか、ナナはわずかに頬を赤らめる。
そんなナナに、迅は冗談めかして、
「ご教授ありがとうございました、師匠」
ナナもまた微笑み、
「いえいえ。弟子に教えるのは、師匠の勤めですから」
そう言って、ふたりはお互いに視線を合わせた。
そしてそのまま、ふたりで笑った。
森まで響いているかのような、それくらい大きな笑い声。腹の底から、止まることなく溢れてくる。
ようやく、ナナと本当に打ち解けられた気がする。迅は、そのことが自分でも意外なほど嬉しかった。
ただ、その一方で。
この状況でも笑っていられる。そんな自分を、どこからか冷静に俯瞰している別の自分の存在もまた、迅は自覚しているのだった。
※
その後、ぬるくなったお茶を、ふたりはゆっくりと飲み干していく。その間、迅は魔力制御の特訓を続けつつ、今後のことについてナナと話を交わしていた。
そして。
小屋の外で迅がナナに助けられてから、およそ小一時間ほどの時間が経過した頃だろうか。
迅とナナは、揃ってログハウスから外へと出た。
ナナは、素人の迅よりも前を歩く。まずナナが先んじて外に出て、周囲の様子を窺った。
魔法使いであるナナは、ある程度まで近くにいる魔物の存在ならば見なくても感知できるのだという。
「――ん、いいよジン。今は周りに何もいない」
扉を開けて外の様子を窺っていたナナが、そう言って迅を手招きする。
ナナから借りた、この小屋に元からあったという革靴を履いて、迅はゆっくりとナナの後ろについた。
「よし、行こっか。魔力の制御は上手くいってる?」
「大丈夫。今なら何時間でも歩ける気がする」
「実際、それくらいはできるだろうけど――油断はしないこと。それで魔物を倒せるようになったわけじゃないんだから」
魔力を肉体に流すことで、身体の状態がこれまでになく好調な迅。
それに釘を刺すように、ナナは厳しめの口調で言う。
「わかってる。ナナの前には出ない、だろ?」
「ちゃんと守ってね。守るにしたって限度はあるんだから」
「……悪いな、世話になりっぱなしで」
迅はナナへと頭を下げた。
もし彼女と出会えていなかったら。そう考えれば、いくら感謝しても足りない。
けれどナナは首を振り、気に病まないようにと迅へ告げる。
「私も、久々に人と話せて楽しかったから。気にしないで」
「……ナナは、普段ここで何をしてるんだ?」
「いろいろだよ」
迅の問いに、ナナは端的にそう答えた。
訊くな、ということなのだろうか。その本心はわからなかったが、迅は追及しなかった。
今はまず自分が、この森を突破できるよう祈るべきときだ。
迅は今、ナナの案内で近場の街まで送ってもらうことになっている。
ナナの言っていた《ルルアート》という街。
それが、この森を一時間ほど進んだ先にあるのだという。
「普段なら走り抜けちゃうんだけどね」とナナは言う。「いちいち倒していくと時間がかかるでしょ? だから本来なら、魔物より速く駆け抜けちゃうってわけ。私の全速なら、森の終わりまで五分ってところなんだけど――」
そんなことができるのは、もちろんナナが魔法使いであるからだ。
魔力の制御を覚えた今の迅ならば、訓練次第で同じことができるようにはなるという。
だがそれはあくまで、これから鍛えれば、という前提の話だ。
現状、迅の脚ではナナの全速について行くことができない。
というか、普通なら一時間以上かかるという道のりを、五分に縮めろというほうが無理な話だ。
迅は改めて、魔法使いという存在のでたらめさを思い知っていた。
「――それじゃ、行くよ」
森の方角を確認していたナナが、迅を振り返ってそう言った。
相変わらずの粗末な布着。鎧を着込むでも、武器を携えるでもない。どう見ても戦う人間の装いではないナナの姿。それが、今の迅にはこの上なく頼もしかった。
華奢で、少しでも力を加えれば折れてしまいそうな矮躯。単純な筋力なら、迅のほうが遥かに上だろう。
にもかかわらず、迅など足下にも及ばない戦闘能力を所持している白毛の少女。
ナナ。
彼女がいなければ、迅はどうなっていたかわからない。
まるで物語のように都合よく現れて、迅を救ってくれたナナ。
けれど、その幸運が冬火や楽にも同じく適用されている保証などない。
「さっきも言ったけど、迅は私の後ろにしっかりついて来てね。絶対に前には出ないコト」
ナナは言う。迅を守って森を進むために、それが最低限必要な警戒だった。
もしも彼女ひとりなら、こんな森に棲む魔物如きは脅威とさえ言えないレベルのものだ。ナナにはたとえ目を瞑っていても森を踏破できる自信があったし、事実それは決して過信ではなかった。
ただ迅という足手纏いを抱えた今、ナナも普段通りに動くことはできない。
それがいったい、この行程にどのような影響を及ぼすのかは、ナナにとっても未知数だった。
どんな場合であれ、魔力の満ちる場所で警戒を怠ってはならない。
それは、魔法使いにとっては当たり前の常識だった。
――魔力とは即ち、不思議の源である。
それはつまり、魔力が存在する場所では、何が起こっても不思議ではないという意味なのだから。
迅とナナは、最大限の警戒を払いながら、ゆっくりと、確実に森を進んでいく。
もっとも、ナナはともかく、所詮は一般人でしかない迅の警戒には意味などなかった。迅が安全に歩けているのは、ナナが魔法で周囲の状況を常に探っているからだ。
風の魔法を用いて。
そのことにすら気づくことなく、迅は警戒しているつもりで、ナナの背後を歩いていた。
――このときの迅はまだ、欠片も理解できていなかった。
この場所が、迅の常識が通用しない異世界であるということ。
その本当の意味を。
迅は未だにわかっていない。異邦人である迅になど、わかるはずもなかったのだ。
それは決して責められるべき事柄ではなかったのかもしれない。
けれど世界が、現実が。
そんな迅の事情など、鑑みたりするわけもなく。
常に同じだけの犠牲を、その内側にいる者へと求めるのだ。
清算は、唐突に開始された。
※
危機は予感が知らせるとか。窮地には前兆が訪れるとか。
そんな都合のいいことが、世界にそうそう用意されているはずもない。
現実は誰にとっても平等だ。
厳格で、容赦がなく、そして残酷。
それが平等ということだった。
危機には予感などなく、窮地には前兆などない。
それらはただ、起こるべくして起こるだけ。
「――――、な」
という呟きが迅の耳に届くのと、反射的なナナの行動はほぼ同時だった。
――衝撃。
を、迅は自分の肩に受ける。
「痛――っ!?」
鈍痛に顔を歪めた迅。強い勢いで突き飛ばされ、迅は背中を強く地面へ打ちつけたのだ。
その状況を理解するまでに、迅は数瞬の間を要した。
わずか経ってから迅は気づく。
自分が、ナナに突き飛ばされたのだという事実を。
「――ナナ……ッ!」
咄嗟に迅身体を起こし、迅は白い少女の名を呼んだ。
なぜ彼女が突然、迅を地面へと突き飛ばしたのか。
その理由に、迅は無意識のうちに至っていた。
――突き飛ばされて、庇われたのだ。
何かから。――何かから?
決まっている。それは、迅を襲ったなんらかの危機からだ。
なぜならナナは誓ったのだから。迅を守って、街まで送り届けると。
その誓いを反故にするような真似を、ナナは決してしないだろう。少しの付き合いにもかかわらず、彼女の義理堅さを迅はよく知っていた。そうでなければ、誰がこんな面倒なこと、そもそも約束するものか。
この状況で、呆けていられるはずもない。倒れた迅は、受け身を取って立ち上がる。
そうして前を見た彼の、その視界に映ったもの。
それは。
「――――――――は?」
凄惨なまでに美しい、鮮やかな紅の色だった。
「……ナナ?」
再度の問いかけ。だが答えが聴覚を刺激しない。
代わりに視覚を犯された。
美しくなびく白髪が。
白磁のようにまっさらな肌が。
口が。
頬が
肩が。
腕が。腰が。脚が。
服が靴が掌が指が背が肘が膝が爪が腿が脛が踵が全身が。
白い少女の全身が。
酷く美しい紅に染まっている。
美しい光景だった。ナナに寄り添うように立つ、一匹の獣もまた美しい。
そう、獣だ。迅の視界には、いったいどこから現れたのか、一匹の獣が映っていた。
その巨大な全身で、ナナの身体を抱き締めるように立つ、神々しい巨獣。
それは黄金の毛並みを持つ、一体の狼だ。
いや、狼ではない、のだろう。
それは魔物だ。ただ姿が酷似しているだけの、人を害する魔の獣。
ただ、その姿は迅が初めて見た、あのカマキリの魔物とはだいぶ趣を異にしている。
ただの魔物如きとは、比較にならないほどの神聖さを湛えている一体の狼。その黄金の毛並みは、百獣の頂点に君臨するであろう王の気質を反映していた。
漆黒の瞳には強い意志。圧倒的弱者としての生物を、見下すように輝いている。
そして鋭利な白銀の牙が――絶対的強者を示す鋭利な光が――今は紅に塗られていた。
弱肉強食。
そんな単純な、当たり前すぎる摂理を示すかのように。
ナナの肩口に深く深く食い込んで、その血の色で輝いていた。