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1-01『土鍋トリッパー』

 初めに感じたのは、頬骨や膝に当たる、硬く冷たい感触だった。

 たとえるなら、横着して床で寝たあとのような。身体の節々に硬さを感じる、不快な目覚めのそれに似ている。

「づ――――ぁ」

 思わず吐き出した呻き。それと同時に、迅の意識が覚醒を迎えた。

 そうして初めて、迅は自分が意識を失っていたという事実を認識した。

「あ――? なん……だ?」

 酩酊に似た浮遊感。視界と思考が、白い靄のようなもので阻害されている感覚がある。

 それも、目覚めに続いて徐々に薄れてきた。

 わずかに開いた目に見えるのは、木板で敷かれた床の模様だ。硬く冷たい床の上に、どうやら俯せで寝そべっていたらしい。

「……、っ」

 かぶりを振って意識を奮わせつつ、迅はゆっくりと身体を起こした。

 そして辺りを見回す。

 見覚えのない場所だった。どこかの建物の中ではあるらしい、粗末な木造の部屋といった風情の光景が見える。その広さは、通っている高校の教室の、だいたい半分ほどだろうか。少なくとも自宅アパートの一室よりは広く、つまり間違いなく迅の住処ではない。

「……どこだ、ここ……?」

 泡立つような違和感が、迅の脳内へじわじわ充満していく。

 ――おかしい。

 そう、考えるまでもなくおかしい。

 どうして自分は、こんなところで倒れているのだろう。ついさっきまで、冬火や楽と一緒に自宅で料理をしていたはずなのに――、


「――ってそうだ、冬火! 楽!?」


 跳ね起きるように立ち上がり、二人の名前を咄嗟に叫ぶ。

 答えは、けれど返ってこなかった。

 呼びかけはただ部屋の壁に反響し、虚しく吸収されていくだけ。

「……………………」

 あまりにも不可解な展開に、迅の思考はむしろクリアになっていった。

 ――まずは現状を把握しよう。考えるのはそれからだ。

 そう気を取り直して、迅は硬くなった関節をゆっくりと回し、ほぐしていく。

 そしてから、改めて周囲の様子を窺ってみることにした。


 板敷きの部屋だった。学校の教室か、あるいはキャンプ場のペンションといった風情のある、木材の趣きが強い部屋だ。

 出口らしき扉が、正面にひとつ。他に扉や窓はない。代わりに光源となっているのは、燭台に置かれた蝋燭だった。なぜだか炎の色が青く、そのせいで室内の雰囲気が奇妙におどろおどろしい。

 床面には、これまた奇妙なことに、円と線を組み合わせたような幾何学的紋様が赤で描かれている。その周囲にはさらに見たこともない文字らしき何かまで記されていて、

「なんだコレ、楔形文字か?」

 適当なことを迅は言う。もちろんイメージで言っただけで、実際の楔形文字がどんな形だったかなど記憶していない。

 ただ、まるっきり見覚えがない紋様というわけでもなかった。見たことがあるというわけではないが、似た形のものには心当たりがある。

 ――まるでファンタジー系の漫画に出てくる、魔法陣のようだ。

 そう迅は思った。ならばさしずめ、ここは悪魔を召喚するための儀式場、とでもいったところだろうか。

「って笑えないな、そりゃ」

 つまらない妄想を振り払うように、肩を揺らして迅は呟く。

 次いで身体の様子を確認した。

 身に着けているのは、通っている学校の制服だ。その姿は覚えている最後の記憶と変わっていない。灰色のスラックスに黒の革ベルトと、上は淡い水色のワイシャツ。上着のブレザーとネクタイは、帰宅したときに外していた。足は裸足で、靴どころか靴下もない。

 それ以外の持ち物は、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話と――

「……土鍋」が、脇にぽつんと落ちていた。どうも一緒について来たらしい。

 同時に思い出す。あの、土鍋から漏れていた光のことを。

「俺がここにいるのは、もしかしてあの光のせいか?」

 普通に考えればそんなわけがない。とはいえ、あの光も今の状況も、どちらもまったく普通じゃない。

 迅は土鍋を拾い上げ、その底をこつこつと手の甲で叩いてみた。

「…………」

 何も起こらない。そこにあるのは、なんの変哲もない安物の土鍋でしかなかった。

 ――参ったな、いきなり手詰まりだ。

 溜息とともに迅は思う。どうしてこんな場所にいるのか、その答えを示す明確な根拠が見つからない。

 ただ少なくとも、この場に留まり続けたところで事態が好転することはないだろう。

 ならば、

「ま、……行動あるのみ、かな」

 意を決するように迅は呟く。部屋から出て、外へ向かってみようと。

 今の状況下、まず真っ先に疑うのは誘拐の線だ。幸い拘束はされていないが、それがイコール安全を意味するわけではない。

 ないのだが、

 ――迷ったら、まずは行動してみよう。いずれいい考えが浮かぶかもしれない。

 楽観的にそう考える。

 明星迅とは、そういう性格の青年だった。


 土鍋を左の小脇に抱え、迅は扉へと近づいていく。

 この近くに、せめて現在位置がわかるものでもあればいいのだが。

 そんなことを考えながら手を伸ばし、迅は警戒しながらも木製の扉を押す。

 扉は、果たしてゆっくりと開き始めた。施錠はされていないらしい。

 無音の空間に、木材の軋む音だけが響いていた。


 扉の奥には、これまた似たような部屋が造りの部屋が続いていた。

 ただし雰囲気はだいぶ違う。先程の、どこか魔的な空間とは異なり、こちらの部屋はずいぶんと生活感に溢れていたのだ。

 どうやら、居間のような部屋であるらしい。

 壁には窓があり、わずかだが外から光が入っている。蝋燭のような光源は必要なさそうだ。

 中央には机と、椅子が四つ。どちらも木製で、造りとしては粗末なもの。他にも戸棚や他の部屋への扉も目に入ったが、どれも木製であることに変わりはない。

 たとえるなら、やはり高原のペンション、とでもいった表現がしっくりくるように思う。

「人の姿は……なし、か」

 住んでいる人間の姿もなければ、冬火や楽たちの姿もない。

 ただ掃除はそれなりに行き届いているようだった。少なくとも、人の出入りはある場所だと考えられる。

 よく見れば、戸棚には食料らしき瓶詰などもいくつか見られた。あとは水場さえあれば、ここで暮らすこともできそうだと迅には思えたが、

「肝心の、住んでいる人間がいないんじゃな……」

 ぼやくように零す迅。

 ただ、差し迫った危険がないらしいことは安堵できる要素だ。

 未だに自分が、どのような理由からこの場所にいるのかはわからないけれど。


「…………」

 いや。実はひとつ、迅には疑っている可能性がないわけではなかった。

 ただ、それを意図的に考えないようにしているだけだ。

 そんなこと、あり得るわけがないのだからと。

 そう迅は、自ら思考を停止させる。


「……とにかく。まずは二人を捜さないと」

 そう呟いてから、迅はこの小屋の内部を捜索することにした。

 とはいえ、いくつかある部屋を適当に覗いて回るだけだったのだが。

 この建物の中からは、人の気配を感じられない。

 迅の感覚はそう告げていたし、実際、他の部屋にも人の姿は見つからなかった。

 他人の家を無遠慮に眺め回るのも躊躇われ、迅は早々に捜索を打ち切る。

 もう、あとはこの家から出て、他の場所を探すしかない状況だ。

「…………」

 けれど。それはそれで躊躇われる、というのが迅の思いだった。

 窓から見えるこの小屋の周囲の光景が、明らかに深い森であるというのがその大きな理由だ。

 どうやらここは、どこかの森か、あるいは山の奥かに位置しているらしい。

 そんなところへ装備もなく立ち入って、遭難でもしようものならそれこそ一大事だ。

 冬火や楽を捜すどころの話ではない。

「……さて、どうするよ俺。誰かが来るまでここで待つか、それとも自分から外に出るか……」

 あえて口に出しながら、玄関の扉を迅は睨む。

 不安がない、わけではないのだ。現状がわからないということは、それだけで強い恐怖になる。

 ――加えて迅は、何か奇妙に嫌な感覚を抱えていた。

 それを予感と呼ぶのかはわからない。

 ただ、なぜか脳裡の奥のほうに、言い知れぬわだかまりのようなものを感じるのだ。

 迅は別段、自分が勘に優れた人間だとは思わない。むしろ鈍感なほうだという自覚さえある。

 だから、その違和感の正体までは、掴むことができなかった。

「あー……こういうとき、冬火ならどうするんだろうなあ」

 幼馴染みの少女を思い浮かべる。彼女の勘はよく当たるのだ。その鋭さに、迅も楽も何度となく助けられたことがあった。

 冬火なら、いったいどちらを選ぶのだろう。

「……よし」

 結局、迅は外へと出ることにした。

 何か考えがあったわけじゃない。

 ただ、ここで動かないのは自分らしくないと、そう思っただけ。


 結論から言えば。

 その不用意な行動を、迅はすぐに後悔する羽目となるのだが。



     ※



 玄関の戸を押し開き、迅は小屋から外へ出た。

 出口には小さなステップがついており、それを数段降りると地面に着く。

 裸足の土踏まずに、柔らかな土の感触が返ってきた。

 靴がないのは痛いところだったが、これならばそうそう怪我もしないだろう。その点だけは、不幸中の幸いか。

 そんなことを考えながら、迅は土の地面を歩く。ひんやりと冷たい感触が、どことなく心地いい。


 そこは森だった。それが最も適当な表現だと迅は思う。

 見渡す限り一面が、鬱蒼と茂る背の高い木々で覆われている。青々と繁茂する植物たちは、人の手が入っていない自然のものだろう。

 それがどこまでも、少なくとも視界が届く範囲全てに続いている。

 ただ小屋の周囲数メートルの半径だけ、木々が円状に伐採され空間が生まれていた。

 小屋を建てる木材として使われたのだろうか。この場所からだけは、空も見ることができそうだ。

「……どうするかな、これ」

 迅は思わず途方に暮れる。

 わかっていたことだが、やはり不用意に森へと立ち入るのは危険なように思えたのだ。

 ある意味では現状、すでに遭難しているようなものではあるが、かといって本格的に森の中を彷徨うような羽目に陥りたくはない。

 果たして、森を抜けるのにはどれほどの時間がかかるだろう。

 数時間程度ならいい。迅は別段、体力に自信があるわけではないが、その程度ならば歩き通すつもりだ。

 ただ方向の指針になるようなものがない中で、本当にまっすぐ同じ方向を目指せるだろうか。

 一応、獣道らしきものはうっすらと見えるのだが、

「熊とか出たらやばいよな……」

 そんな危惧もあり、思わず途方に暮れてしまった。

 どうしたものかと考える迅。

 その耳に、ふと何かがこすれるような音が聞こえた。

「……ん?」

 その異音は、前方、森の方角から届いている。

 がさがさと草がざわめくような。風に揺らされるのとは違う、明らかに不自然な音だ。

 迅は警戒するように、音の方向へと目をやった。

 音が徐々に大きくなって、迅の鼓膜を不気味に震わせていく。

 それはつまり、何かがこの場所へと近づいている、ということで。

「おいおい……マジか」

 思わず迅は顔を引き攣らせる。

 人か、それとも獣か。

 文字通りに鬼が出るか蛇が出るかもわからない迅の目の前に、それは、ゆっくりと姿を現した。


 巨大な、虫だった。


「――――…………は?」

 その姿を目に捉え、思わず迅は間抜けな声を漏らしてしまう。

 それがあまりにも現実離れした光景だったからだ。

 突然現れたその生物を、果たして、なんと表現したものだろう。

 最も近い昆虫でたとえるなら、それはカマキリによく似た姿をしていた。

 しかしカマキリではない。

 こんなモノがカマキリであって堪るかと迅は思う。

 なぜなら。

 その体躯が、常軌を逸して巨大だったからだ。


 体長は、優に二メートルは超えているだろう。巨躯と呼ぶのもおこがましい、迅の身長をも明らかに上回る大きさの昆虫。

 いや、それが本当に虫なのかどうかさえ迅にはわからない。

 だって大きすぎる。こんなに巨大なサイズの虫が、この世に存在していたなんて迅は知らない。

 自然の法則とか、生態系とか。そういった諸々を明らかに無視している。

「なん……だよ、これ」

 乾いた声が口から零れた。それが自分の声であるとさえ、今の迅には認識できない。

 それくらい、目前の光景は常識から逸脱している。

 体躯とはアンバランスな、細い四本の脚。震えるように蠢く巨大な翅。剥き出しの、いっそグロテスクに見える丸い眼球。毒々しい緑の体色。

 そして何より特徴的なのは――二対の、巨大な鎌だった。

 腕のように生えているそれは、鈍い銀色の光を反射させている。生物の器官には到底見えない。金属製だと言われても、迅は何ひとつ疑わないだろう。それほどの光沢があった。

 人ひとり身体くらいなら、それこそ一刀で両断できそうな鋭さを持っている。


 そんなバケモノが、森の奥からゆっくりと姿を現す様を迅は見ていた。

 あまりにもあり得ない光景に、言葉がまったく出てこない。

 硬直してしまっていたのだ。驚愕のあまり、身体も思考も固まってしまった。

 だから。

 その一撃を迅が回避できたのは、文字通りに、奇跡のようなものだったのだろう。


 襲撃は突然だった。

 いや、前触れはあったのだ。それが現れたということが、何より確かな前兆だったのだから。ただ、硬直していた迅が、それに気づけなかっただけで。

 突如として。バケモノが、迅に向かって突進してくる。

 巨大カマキリはその巨体に似合わぬ俊敏さで迅へ近づくと、右の鎌を大きく振り被るように持ち上げた。

 迅がかわせたのは、偶然以外の何物でもない。

 巨体の接近と、それに伴う威圧と風圧にされ、迅は転んで尻餅をついたのだ。

 それが幸運だった。

 縺れた足が土を巻き上げ、カマキリの身体へわずかにかかる。

 それと同時に、ごう、という空気を巻き散らすような音が迅の頭上で轟いた。

 ちょうど、つい一瞬前まで迅の首があった空間を。

 巨大な鎌が、横一文字に薙がれていた。

「――な、」と迅は声を零す。

 その段階で、彼はようやく気がついたのだ。

 ――目の前のバケモノが、自分を襲ってきているという現実に。

「嘘だろ……っ!?」

 吐き捨てるように零しながらも、迅の身体は反射的に動き出していた。

 無様に地べたへ倒れ込んだ身体を、転がすようにして迅は逃げ出す。

 その一瞬後には、背後でまた土煙が巻き起こっていた。

 視界に入れるまでもない。迅を狙って振り落とされた鎌が、辺りの土を巻き上げたのだろう。

 確認する余裕などあるわけもなく、迅は這いつくばるようにしてその場から距離を取ろうとする。

 巨大な鎌の刃渡りは、迅の身長に迫ろうかというサイズだ。そんな凶器を身体に受けて、無事で済もうはずがない。

 とにかく、逃げることしか考えられなかった。

 文字通りに死ぬ思いで身体を起こし、脚に鞭打って迅はカマキリから距離を取る。

 対するカマキリは余裕の表れか、地面に刺さった大鎌をゆっくりと引き抜くだけ。

 逃げながら背後を窺った迅は、そんなバケモノの動作を、唇を噛む思いで目にしていた。

「くそ……っ、なんだよアレ! あり得ねえだろ!!」

 迅は叫ぶ。本当に、どうしてこんな事態に陥ってしまったのかちっともわからない。

 少し前までは、幼馴染みたちと楽しく料理をしていただけのはずだった。

 それが何をどう間違えば、得体の知れないバケモノから命を狙われる羽目になるというのか。

 超展開にも程がある、と迅は見も知らぬ神を呪う。

 ――どうすればいい。

 どうすれば、あのバケモノから逃げられる――?

 迅は必死に思考を回す。

 だが都合のいい答えなど思いつけなかった。

 森の中へ逃げ込むべきだろうか。いや、それは愚策だろう。

 なぜなら、このカマキリのバケモノは森から現れたのだから。逃げた先で、別のバケモノに遭遇しては目も当てられない。

 けれど、それならば、他にどこへと逃げればいいのか。

 とにかく足だけは止めずに、迅は対策を考える。

 けれど何も思いつかない。

 恐慌しながら背後を見れば、またしてもカマキリがこちらへ向かって突進してくるのが見えた。

 迅は必死で脚を動かすが、カマキリのほうがずっと速い。追いつかれるのに数秒とかからないだろう。

 迅を追うカマキリは、背後でまたしても大鎌を振り上げている。

 もはや迅に、それを回避する方法など残されていなかった。

 迅を目がけて、大鎌が真っ直ぐ振り抜かれる。

 死の目前だからだろうか。迅は、その動作をやけにゆっくりと感じていた。

 そして。

 ちょうど、迅の首をまっすぐに切断する軌道で振るわれた大鎌を。

「――お、らあ――っ!」

 迅は、渾身の防御で弾いていた。

 重く鈍い、けれど響くような音が周囲の木々へと木霊する。

「おおおおお間一髪ぅ――!」

 ほとんど涙目で呻く迅。その右手には、小さな土鍋が掴まれていた。

 それこそが、大鎌を防いだ盾だった。

 攻撃が行われた瞬間、首を狙った横薙ぎの斬撃に対し、迅は手に持った土鍋を逆に自分から叩きつけていた。小ぶりの土鍋は、縁を持てば片手で振り回すことができる程度の大きさだ。持ちやすいとは言えないが、振り回せないほどでもない。

 今の今まで、それを落とすことなく持っていたのは偶然に過ぎなかった。自分と一緒に来たものだから、なんとなく持ち運んでいただけだ。

 だが結果として、その土鍋こそが迅の命を繋いでいた。

「くっそ死ぬかと思った! ふざけんなよマジでチクショウ!!」

 迅は喚く。そうすることで、自分を鼓舞するかのように。

 だが鍋を鎌で防ぐような綱渡りが、そう何度も続くはずはない。先程の一撃は、首を狙うとわかっていたからこそ防げたのだ。武芸の心得などまるでない迅では、どこを狙うかもわからない大鎌を的確に防ぎ続けることなど不可能だろう。それこそ、奇跡でも起こさない限りは。

 それでも、今はそうする以外に生き残るすべがない。

 もうこうなったら我慢比べだ。何度でも、土鍋が壊れるまで防いでやる。

 そう考えた迅は、脚を止めてカマキリへと振り返った。対するカマキリは大鎌を振り上げ、迅の身体を縦に狙ってきた。

 大丈夫、受け止められる。

 そう確信して、迅はカマキリの一撃を土鍋で防いだ。

 そして痛烈な勢いに押され、背中から地面へと思い切り叩きつけられた。

「か――は!?」

 苦悶の吐息が、迅の喉から勝手に漏れる。痺れる腕が力を失い、取り落とした土鍋が地面へと落ちた。

 土台、奇跡など起こらないから奇跡と呼ぶのだ。

 土鍋の崩壊など待つまでもなく、迅の身体のほうが攻撃の威力に堪えられなかった。最後の一撃を受け止めることができただけ、まだしも上出来だとさえ言えるだろう。

 土の地面に押し倒された迅は、巨大なカマキリを見上げるような姿勢で、ただ呆然とするしかない。

 結局、そこまでだった。

 迅の足掻きもそこで終わり。弱肉強食の掟に従い、迅の人生はそこで終了を迎える。

 そのことを、悲しむ余裕すら迅にはなかった。

 とどめとばかりに振り上げられた大鎌は、迅にとっての死の具現だ。

 それをただ、見ていることしか迅にはできない。

 攻撃が、為される。

 天へまっすぐに向けられた大鎌が、迅の身体へ向けてまっすぐに振り下ろされる――、 


 その瞬間。

 迅は、今度こそ本当の奇跡をその目にした。


 突如として。

 カマキリの全身が、バラバラに切り裂かれた。

「は……?」

 わけもわからず迅は目を見開く。

 カマキリの全身は、数十近いパーツにまで細切れになっていた。

 それらは重力に従って地面に落ちると、そのまま光の粒子になって、空気の中へと融けていく。

 あとには何も残っていない。まるで全て幻であったかのように、巨大カマキリはその姿を消していた。

 その光景に理解が追いつかない。

 唖然とする迅の耳に、


「――よかった。なんとか間に合ったみたいね」


 凛とした、鈴の鳴るような声が届いた。

 少女の声だ。力強く、それでいて温かみに溢れた声音。それが前から聞こえてきて、迅は最初、とうとう幻聴を耳にしたのかと自分を疑ってしまった。

 そんな間抜けな勘違いを、視界へ飛び込んだひとつの光景が否定する。

 ――即ち、見も知らぬひとりの少女の姿が。

「だいじょうぶ? ケガ、ない?」

 少女が、迅にそう訊ねる。

 それが自身へ向けられた問いであることに、瞬間、迅は気がつかなかった。

 もう長い間、人間の言葉を耳にしていなかったような。そんな気分すら感じていた。


 ――まるで人形みたいだ。

 と、迅は思った。そんな創作物でしか目にしないような表現が、こんなにもぴったりと当て嵌まる人間を見たのは、生まれて初めてのことだった。

 雪のような少女だった。

 まるで絹糸のように柔らかな、長く、そして白い長髪。こんなにも綺麗な白髪しろかみを、迅はこれまで見たことがない。


「ねえ――」と、少女は迅へと近づいていく。

 長い髪をなびかせながら、足早に近づいてくる少女に、迅の意識はただ呑まれた。

 翠色の瞳が、迅をまっすぐと見据えている。吸い込まれそうなほどに鮮やかな双眸だった。

 白髪に翠眼、そして西洋風の顔立ち。まず間違いなく日本人ではない。くりくりと円い瞳は宝石を思わせるほど澄んでいて、白糸の髪は絹よりも美しく繊細に思われる。

 それが、どこまでも作り物めいていた。

 だが彼女が人形などではないことは、心配そうに迅を見つめるその表情が証明している。

 迅よりも、ひと回りほど低い身長。そこから見上げる表情には、迅のことを気遣う色が見て取れる。簡素な布着を纏う身体は、か細く華奢で、力を籠めればすぐにでも折れてしまいそうな脆さを感じさせた。

 着飾れば、それこそ目を惹く美人となるだろうに。いっそ貧相とさえ言えるような出で立ちを惜しむべきか、それとも、着飾らずしてなお伝わる美しさを褒めるべきか。

 そんなことがわかるはずもなく、迅はただ間抜け面を晒して少女を眺めていた。

 もっとも、反応は少女のほうも大差がない。彼女もまた奇妙なものを見たという様子で、迅の瞳をまっすぐに見つめている。

 しばし、互いに視線を交わし合ったのち。

 少女のほうが、先んじて同じ言葉を繰り返した。

「――ねえ。ねえってば」

「え、あ、うん」

 と迅は答えた。答えられていなかった。

 目まぐるしく変わっていく事態に頭のほうがついて行けず、上手い対応ができなかったのだ。

「だいじょうぶ? ケガとか、してない?」

 少女が問う。その質問は二度目で、今度こそ迅は答えを返す。

「ああ――うん。大丈夫。怪我はしてない。平気だよ」

「そっか。よかった、無事で」

 そう言って、少女は柔らかに相好を崩した。

 本当に、心から安堵したように自然な微笑みを、迅は正面からただ眺めるだけだ。

 地面へと無様に倒れこんだ迅と。

 それを、覗き込むように立っている少女。

 不揃いな二対の双眸が、数秒、互いにまっすぐと向かい合っていた。

 その笑顔に、迅は思わず見惚れてしまう。

 自分の身体が全て融けて、その瞳の中に吸い込まれていくような感覚さえ抱いて。

 白い少女と向かい合う。

 けれど、それも一瞬。

 少女はその表情をきっと鋭いものに変えると、一転して、どこか怒ったような表情で迅を覗き込んだ。

「まったく! 魔法も使えない人間が一人で結界林に入り込むなんて、いったい何を考えてるわけ!?」

 その変化に、迅は狼狽えて何も言えない。

 少女の怒りは留まらず、怒りの台詞はまくし立てるみたいに続く。

「たまたま私が気づいたからよかったようなものの、あのままだったら、キミは間違いなく魔物に殺されてたんだからね? それくらい、わからないわけじゃないでしょ!」

「は、はあ――?」

「というか、そもそもどうやってこんな奥深くまで入り込んだわけ? いったいどうしたらそんなことに――」

 先程までの穏やかさは、果たしてどこへと消えたのか。烈火の如く怒る少女に、迅は言葉を返せない。

 なぜなら、彼の視界には、またしても別のものが映り込んでいたからだ。

 それに気を取られて、彼女の言葉を聞き取れない。

 もっとも聞いていたところで、少女の言葉はやはり迅には理解できないものだったのだが。

 驚愕と、疲労と、安堵と。それにわずかな疑惑が混ざり。

 いろいろな感情に押されるまま、迅は脱力して地面に寝そべった。

 その目に映るのは、怪訝に眉を顰める少女の表情と。

 加えて、茜に沈む空の色だった。

「どうしたの、いきなり寝転んだりして。やっぱりどこか怪我して――」

「――なあ」

 少女の言葉を、遮るようにして迅は言う。

 訊ねたいことがあったからだ。

「な、何よ」

「ここ、どこなんだ?」

 それは、あの小屋を訪れて以来、迅がずっと答えを出せないでいた疑問だった。

 突然の問いで、少女は怪訝に首を傾げたが、それでも答えを返してくれる。

「どこって……ルルアート結界林の中に決まってるじゃない」

「……ルルアートってのは、国の名前?」

「違うわよ。ねえ、さっきからどうしたのよ。キミ、なんかヘンだよ?」

「それは同感だけど」

 迅は苦笑する。確かに、今の自分はこの上なく不審だろう。

 けれど、それを気にする余裕がない。

「もうひとつ、俺の質問に答えてくれないか」

「……何?」

「ここ――この場所はいったい、なんていう国の中なんだ?」

 その問いに。

 少女は不審さを隠さずに、けれど短く、ただ答えた。


「――ここは、ヴァルシュ連合共和国だけど」


 聞いたことのない国だった。

 けれど、予想していた答えでもある。

「……はは」

 と迅は思わず笑う。失笑とも苦笑ともつかない、乾いて掠れた笑みだった。

 鍋から光が漏れてきたり、見知らぬ場所へ移動させられたり。

 あるいは、いきなり謎のバケモノに襲われてしまったり。

 そんなことが起こり得る《場所》のことを、果たしてなんと呼ぶものか。

 その解答を、迅はようやく手に入れた。


「ここ――異世界なんだ」


 そう言って笑う迅の視線、その先に広がる空の中には。

 丸く、銀色に輝く月が。


 ふたつ並んで、浮かんでいた。



     ※



「……はは」と小さく迅は笑う。

 まさか自分が、異世界ファンタジーに巻き込まれることになるなんて。

 迅は想像すらしたことがなかった。

 と言うと、きっとそれは嘘になるのだろう。

 本当は、あの小屋を訪れた瞬間から、その可能性に思い至ってはいたのだから。

 真っ当な男子なら、きっと一度は思い浮かべたことがある。

 異世界召喚。

 そんな展開を妄想さえしたことのない人間のほうが、きっと少ないのではないだろうか。

「とはいえ、本当になるとは思わないよなあ……まったく、人生ってのは奥が深い」

 二対の月を地べたに寝転がったまま眺めながら、嘯くように迅は笑う。

 茶化すような物言いは繕ったものだ。本当は、そんな余裕なんて持ち合わせていない。

 そうすることで、まるで自分自身を納得させているかのように。

 迅は、独り言のように零し続ける。

「あー、こりゃ冬火も楽も、今頃は異世界で冒険を始めてる感じかな」

 だったら負けていられない。

 そう、迅は楽しげに笑みを零す。

「……キミ、さっきから何を言ってるの?」

 一方の少女はといえば、突然喋り出した迅が不審で仕方ないようだった。

 訊ねる少女に、迅は苦笑とともに首を振り、

「いや、何も言ってないよ。……さて」

 と呟いて、迅はいそいそと立ち上がった。

 いつまでも寝転がってはいられない。この場所は、未だ安全だとは言えないのだから。

 身体についた土を払い、服の汚れをとりあえず取り繕う。

 それから迅は少女に向き直り、

「えっと。さっきのヤツから助けてくれたの、アンタなんだよな?」

「……そうだけど」

「ありがとう。お陰で助かった」

 そう言って迅は頭を下げる。

 いろいろと衝撃的な事態が判明していたが、それでも、助けてくれた彼女に礼くらいは言っておきたい。そう思っての行動だった。

 召喚早々昇天の物語なんて、格好悪いなんてレベルじゃない。

 一方、少女はにわかに頬を赤らめると、目線を斜めに下げて答える。

「別に。たまたま見つけたから助けただけだし。恩を着せようとしたわけじゃないわ」

 その素直ではない物言いに、迅は思わず苦笑を零すした。

 決して不快ではない。むしろ心地いいとさえ思った。

 少女は何も、迅の命を救ってくれただけではないのだから。

 こうして彼女と話せることが、迅にとっては、何より心の救いになっている。

 この見知らぬ土地が、地球ですらないという事実を理解した迅にとって。言葉を交わせる誰かの存在は、それだけで強い支えになる。

 そのことを強く自覚しながら、迅は言葉を繰り返す。

「それでもありがとう。このお礼は、いつか必ず、何かの形で」

「……要らないわよ、別に。そんなの」

「そうはいかない。受けた恩は三倍にして返せ、と教えられて育ったものでね」

 冗談めかして迅は言う。その余裕は繕ったものでしかなかったが、今はそれでもいいと思えた。

 単に、開き直ったのかもしれない。

「命の恩人に対しても、しっかりお礼はさせてほしいな」

 きっと、その言葉には明らかな打算が含まれていた。

 運命的な状況で出会った少女に対し、下心を抱いたなどという意味ではない。

 単純に、それは保身を考えての発言だった。

 今の迅には――彼女以外に、縋れるものなどないのだから。

 奇跡のように現れた救いを、簡単に手放せるはずがなかった。

「……勝手にすれば」

 少女は顔を赤らめ、そっぽを向いてそんなことを言う。

 迅の心に、罪悪感が影を差した。少女の善意につけ込む行為。それを平然と行う自分が、醜く思えて仕方がない。

 それでも迅は少女に対し、気取るようにして言葉を告げる。

「俺は迅。明星迅だ」

「ジ、ジン……アケ?」

「ああ、言いにくいなら《ジン》でいい。――それより、君の名前も教えてくれ」

「……私の、名前?」

「そう。命の恩人の名前も知らずに、返せるものもないだろう?」

 自身の内心を塗り潰した、格好つけのその言葉。

 打算はあった。保身がないなんて絶対に言えない。

 けれど、嘘をついているつもりもなかった。

 ――迅は確かに、彼女の名前を知りたいと思っているのだから。

「私は……ナナ、だけど」

 やがて、ぽつりと零すように少女が答えた。

 その名乗りを、迅は頷くように噛みしめながら、

「ナナか。うん、いい名前だな」

「……そんなこと初めて言われたよ」

「そうか? まあ、ともあれ――よろしく」

 と、その手をナナに差し出した。

 突然の展開に、今度はナナのほうが狼狽えて、

「え、……え?」

「握手しよう。それとも、もしかしてそんな文化はない、とか?」

「あ、握手……?」

「そう、握手。よろしく、ナナ」

「よ、よろしく?」

 と、されるがままに、迅の手を握り返していた。


 それが、明星迅の記憶における、異世界人とのファーストコンタクト。

 きっと生涯忘れない、大切な思い出のひと欠片だった。

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