1-18『主人公』
いわゆるファンタジー系の漫画や小説なんかを読むにつけ、迅にはひとつ、つねづねから疑問に感じていることがあった。
突如として異世界に召喚されて、戦う力を手に入れてみたりして、それでいざ実戦の場に投げ込まれて――なんて、まあよくあるテンプレートな物語の筋書きだ。それを否定するつもりは別にない。
ただ、なんとなく引っ掛かりを感じるのだ。すなわち、
――なぜ彼ら主人公たちは、なんの抵抗もなく他人を攻撃できるのだろう――。
それが迅には、いつだって不思議でならなかった。
迅はこれで、そこそこ喧嘩慣れをしている。
それは主に面倒ごとを嬉々として引き起こす幼馴染み、楽のとばっちりで喧嘩に巻き込まれるせいだと迅自身は認識していたが、ともあれ異世界に来る前からそれなりに場慣れしていたことは事実だった。
その迅は、だからこそ考えるのだが、他人を傷つけるというのはそう簡単なことじゃないということである。しょせんはガキ同士の小競り合いという範疇を出ない喧嘩でさえ、他人を害するという行為に対しては相応の忌避感を抱くのが普通だ。
ましてやこんな、ファンタジー感色濃い異世界で。魔法などという殺傷力の高い攻撃を、悪人とはいえ人間に当てるという行為には。
生理的な拒否感が、どうしたって否定できなかった。
と、いうような話を以前、まだ地球にいた頃に、迅は楽と交わした覚えがあった。
名前の通りの楽天家で、それでいながら刹那的な快楽主義でもある楽。
彼はいつものように酷く楽しげに、迅へ向かってこう言った。
「おいおい。そんなもん、決まってんだろ」
「決まってるって、何がだよ」
「――だって、そうでもなきゃ、そこで物語が終わっちゃうだろ?」
身も蓋もないというか、元も子もないというか。聞いた瞬間は呆れさえ覚えた迅だったが、けれど、それは何もメタ的な視点での話に限らないのだと気づいた。
現実問題、命を狙い来る外敵がいる以上、それに対処できなければ死んでしまうのは当然の話なのだから。
戦わなければ殺される。抗わなければ命を落とす。
原始の時代から変わりなく、それは当たり前の法則だ。弱者は淘汰され、生存できるのは強者のみに限られる。
そして語られるのは常に、強者の物語だけだということ。
脅威に攻撃を返せる者だけが、紡がれるに値する物語を生み出している。それができなければ死ぬのだから、それは当然、物語になり得るはずもないのだ。
弱者では主人公たり得ない。
――そんなことは、当たり前の話でしかなかった。
敵を殺すか、自分が死ぬか。
その二択のうち、明星迅はどちらを選ぶのか――。
これは、そういう選択だった。
※
それが、《覚悟》などという大層な表現で称される意志なのかはわからない。
けれど少なくとも、目的だけは見据えたのだ。
死ぬ気はない。死ぬくらいなら殺す。そう決めた。
もちろん、意志を定めたから勝てるなんて道理はない。《敵》は自分より遥かに強力な魔法使いだ。普通に戦って、勝ち目などあろうはずがなかった。
無論、だからといって諦めるつもりもさらさらない。普通で駄目なら普通以外だ。
幸いにも、渡り合えるだけの武器は持っているのだから。
すなわち――、
「…………!」
迅は言葉を発することさえせず、唐突に前方へと駆け出した。
今の迅が持つ手段は、魔力による身体強化と、加えて地属性による攻撃魔法のほかにない。それは傭兵という戦いを生業とする任下を前にして、戦力と呼ぶには心許なさすぎる。
ただ、それでもこの十日間、磨けるだけの牙は磨いてきたのだ。当てることさえできるのなら、充分以上の攻撃力を持っていることは証明されている。
得物はある。ならば、あとはそれをいかにして突き立てるか。
クリスに向かって駆け出しながら、迅は魔力を練り始める。
脚を通じて地面に。いついかなる状態からでも魔法を発動できるように、訓練を重ねてきたのだから。短い期間であるとはいえ、おそろしい師匠の教えは実を結んでいる。
土を操作し、繰り出すは棘の魔法だ。土の硬度を高め、地面をまるで剣山へと変えるかのように敵を足元から攻撃する。
一切の容赦がない、それは殺傷力を伴った魔法だった。
同時、迅は短く叫びを発す。
「――冬火!」
「ああもうっ!」
さすがに幼馴染みだけあってか、詳しく言葉を作らなくとも、互いの意図は察せられる。
傷ついた金狼の保護を冬火に全部放り投げ、迅は単独でクリスへ迫った。
「それでこそだぜッ!」
一方、戦闘狂の反応は喜びに富んでいた。
目的を持たず、ただ戦うことの刹那的な快楽だけを追う狂人。だからこそ彼女は強かった。
足元からせり上がる迅の攻撃を、クリスは前に出ることで回避した。
魔法使いは、その圧倒的な攻撃性能に比して、防御力は常人とそう変わりがない。いかに魔力で肉体の性能を上げようと、初めから魔力で構成されている魔物ような存在のように、真正面から魔法を受けきるような防御力を持つことはまずできない。
強大な攻撃力に比べて、あまりにも脆すぎる防御力。石器時代から変わらずして、人間の戦いは常に必殺の応酬だった。当然の話なのかもしれない。
だから、魔法攻撃の対処は二種類しか存在していない。
自分からも魔法をぶつけることによる防御、相殺か、あるいは魔力の先読みによる回避だ。
クリスは一歩を前に出ることで、迅の攻撃を簡単に回避する。魔力がどう動いているかを察知することで、相手の攻撃をあらかじめ回避したのだ。
それが、最も基本的な対魔法使い戦術でもある。
クリスは身体を前掲させると、そのままの勢いで迅の方向へと突っ込んでくる。
――接近戦に持ち込むつもりか……?
一瞬、脳裏で危惧を走らせる迅だったが、それならばむしろ望むところだ。
元より射程に劣る以上、勝機を見出すには近距離まで詰め寄る以外にない。
あの超威力の爆発を、遠巻きから連発されては為すすべもないだろう。だが近距離ならば、自らをも巻き込む爆炎の魔法など、そうそう使うこともできないはずだ。
などという考えが、どれほど甘い皮算用であったのか。
迅は、すぐさま思い知ることとなった。
迫り来るクリスに対し、迅は魔法ではなく、拳で迎え撃つことを決める。
わずかとはいえ、それでも発動までどうしてもラグが生じてしまう魔法よりも、普通に殴るほうがよほど早い。
助走の勢いそのままに拳を振りかぶった迅。殴り合いならば、迅にもそれなりに経験がある。
だがクリスは、そんな甘えを嘲笑うかのように、掌の中へ魔力を集中させ始めた。
「――ば……っ!?」
思わず迅は目を見開く。当然だ。さきほどのような魔法を、もしこんな近距離で使われては、迅どころかクリスだって死にかねないだろう。
想定していなかった行動に、迅は一瞬、思考を硬直させてしまった。
隙としては、それだけでもう充分過ぎる。
クリスの掌に集まった魔力が、唐突に今度は消えていく。
――フェイントだ。
なまじ魔力を感じられたために、そんな安い手に引っかかってしまう。
クリスは魔法を使うことなく、その手をそのまま迅へと放った。
彼女の掌が、迅の鳩尾を鋭く貫く。まるで砲弾に撃ち抜かれたかのような衝撃に、迅は呼吸も忘れ、ただ身体をくの字に折った。
ひとつの隙は、連鎖するように次の隙を生む。
頭を垂れるように下がっていく上体を、逆に下側から蹴り上げられ、迅はそのまま後ろへと吹き飛ばされる。
背中からしたたかに地面へと倒れ込み、それでも前から目を離すまいとする迅の視界が捉えたのは――、
「おいおい、まさかこの程度かよ?」
今度こそ魔法を放たんとする、クリスの酷薄な笑みだった。
ほとんど暴走じみた勢いの魔力が、彼女の掌へと集まっていく。まだ火炎に変わってはいないのに、周囲には熱気が吹き荒んでいるようだった。
高まる温度に反比例して、迅は死の悪寒を強く意識する。この展開こそが、クリスの最も得意とする戦法だと悟ったのだ。
接近戦で隙を作り、そこへ必殺の魔法を叩き込む――。
単純極まりなく、そうであるがゆえに堅実で、かつ確実な戦闘論理。
それはただの戦闘狂ではなく、長く戦場を渡り歩いた歴戦の傭兵だけが持ち得る必殺のパターンだった。だからこそ、格下の迅にはつけ込む隙が一切ない。
「違うだろ? もっと、もっとオレを楽しませろよ――!」
そして、爆炎が迅を包み込んだ。
※
その瞬間、自身の周囲を一斉に包み込んだ《黒》に対して、レイリが咄嗟に選んだ行動は――何もしないことだった。
視界を埋めていく黒の奔流が、自身ではなく、空間そのものに対して干渉していることを見抜いたからだ。下手に動くほうが、逆に危険だと判断した。
とはいえ、まったく未知の術式である。自身を包み込んでいく黒い世界が、いったいなんであるのかをレイリは知らない。八重の色を持つ彼でさえ、だ。ならおそらくは、アドゥス固有の魔法なのだろう。
「――結界、か」
そう、小さくレイリは呟く。ただ、これは何もレイリの洞察から導かれた言葉ではない。単純に、空間を魔力によって区切る魔法を、総じて結界と呼ぶだけのことだ。
今や視界は、その全てが黒の一色によって塗り潰されていた。
影や闇とは趣を異にする、黒。
光を遮断しているわけではなく、つまり視覚は生きている。表現しがたいが、何も見えないというよりも、黒しか見えない、という感覚をレイリは得ていた。
「で、これはいったいどういう魔法なんだよ、アドゥスさん?」
そう、レイリは口に出して問うた。敵に手の内を聞いて、果たして答えを期待したのか。
本心の在処はともかくとして、少なくとも回答があったことは事実だ。
姿を見せずして、しかしアドゥスが声のみを響かせる。
「お察しの通りぃ、結界魔法の一種ですよおぉ。ただし無色ではありませんが、ねぇ」
「……お答えどうも。なるほど、ならこれも陰属性の魔法のひとつか。一定座標の隔離に加え――特殊効果もアリと見るが?」
「ご明察、と言いたいところですがぁ、残念ながらそう大した魔法ではありません。この魔法の効果は空間隔離、それだけです。――ほかの効果など、何もない」
ただし――。
そう続けるアドゥスの声は、なるほど邪教の指導者らしい酷薄さを湛えていた。
「――ひとたび構築してしまえば、中にいる人間が外に出ることなど不可能ですが、ね」
※
視界が徐々に開けていくのを、クリスは両の眼を細めて待っていた。
炎の発した白煙と、生木の焦げついた黒煙、加えて衝撃に巻き上げられた土煙が、三重に視界を覆っている。もちろん魔法使いたる彼女にしてみれば、それで認識の全てが阻害されるはずもないが。
撃ち込んだ爆炎は、彼女の出力から見れば弱い部類のものではあったが、それでも魔法使いの数人程度、纏めて消し飛ばすに余りあるだけの威力が込められていた。元よりクリスは、加減という行為を大の苦手にしている。
――普通に考えれば、あの爆発を受けて生き残れるはずがない。
それだけの火力をクリスは誇っている。
魔法の威力とは、こと魔法で相殺する場合に限り、その規模よりも込められた魔力の多寡が問題となる。魔法の出力とはつまりがそれだ。目に見える威力など、魔法使い同士での戦いでは二の次でしかないのだから。たとえ見た目には豆鉄砲でも、魔力の密度によっては正面から大砲を打ち破ってしまう。
だから、クリスは確信していた。
迅は必ず生きている。今の攻撃で殺せるのなら、初めの一撃ですでに決着はついていた。
事実、クリスは爆発の寸前、迅が土の半球で自らを覆うところを目にしていた。そのときに感じた圧倒的なまでの出力ならば――、
「――あァ、やっぱり最高だぜジン……!」
晴れた煙の向こう側に、煤け、崩れた土の壁と、無傷の迅を確認する。
その事実が、クリスには何よりも嬉しかった。目の前の敵が愛おし過ぎて、今すぐにでも押し倒してしまいたいほどに。
素晴らしい魔法だと思った。反応は上々、速度は並で精度は微妙だが、何よりその出力が素晴らしい。それこそ魔力密度だけならば、クリスにすら匹敵しかねないほどの領域だ。
こと出力の面において、自身に匹敵し得る魔法使いを、クリスはこれまでにひとりだって見たことがないというのに。
まさか、こんな下らない仕事で、最後の最後に最高の相手を見つけられるなんて。
「ほんとうに、なんて、スゲェんだ……っ!」
否応なく昂る感情の奔流を、彼女はもはや抑えようとさえ思わない。
――彼女は出会ったことがなかった。
自分に匹敵する――自分を上回る――出力の持ち主になど。これまで。一度だって。
彼女はいつだって最強だった。少なくとも、こと攻撃という点においては。
下手な小細工など要らず、小賢しい立ち回りなど必要とせず、ただ無造作に蝿を払うような一撃で、彼女はどんな敵だって下してきたのだから。
彼女は戦うことが好きだ。なぜなら彼女にとって、戦うこととは即ち生きることなのだから。
だれだって生きることは好きなはずだ。嫌いだったら死んでいる。その大好きな生を、最も鮮烈に飾るためにはどうすればいいのか――最も美しい、能動的な生とは何か。
その答えを、彼女は闘争行為の中に見出した。
だがどれだけ強かろうと、あるいは強いからこそ、彼女は敵を見失っていったのだ。
クリスティーナ=ボルケは孤児だった。その類い稀な魔法技能があったからこそ、彼女は地獄みたいな生まれの底で、生き抜くすべを獲得したのだ。
生存を目的とした闘争は、いつしか戦いそのものを目的とした生に本末を転倒させる。あるいは逆に、その歪みこそが彼女を永らえさせたのかもしれない。彼女は出力こそ異常の域にあったものの、魔法の技能それ自体は、平凡の域を出なかったのだから。その獰猛なまでの欲求がなければ、あるいはどこか、腐れた戦場の底なしの底で、あっさり命を落としていたことだろう。
彼女は戦い、戦って、戦い抜いたその末に、あっさりと敵を失っていた。
――だからこそ。
ようやく見つけた宿敵に対して、彼女は強く執着する。
その執着は――しかし。
迅にとっては、つけ入るべき隙でしかなかった。
※
どだい、まともに戦り合って勝ち目があろうはずもない。
そんなことは迅にだって初めからわかっていた。わかりきっていることだった。
戦術がどうこうという以前、迅は魔法さえ覚えたての素人なのだから。戦いのプロと真っ向から向き合って、それでもまだ命をつないでいる時点で充分に奇跡だろう。
最後の武器である出力の面でさえ、クリスには通用していない。どころか、わずかに負けているかもしれないというレベルだ。彼女がその気なら、数秒で迅を骨まで焼き尽くせるだろう。
それをしないのは、クリスがあくまでも《戦い》にこだわっているからにほかならない。
そんな勝手な都合を仕事に優先させている時点でもうプロとしてどうなんだ、という話だが、今の迅には唯一の朗報なのだから。
何度でも繰り返そう。
魔法では、戦闘では絶対に敵わない。そんなこと――初めから、森に入る前からわかり切っていた。
それでもこの場所に来たのはなんのためか。
なぜレイリたちが、この場所に来ることを認めてくれたのか。
その答えを、形にしなければならない。
「――なあ、アンタ。えっと、なんだっけ。クリスさんだっけ」
迅は言葉を作る。
別に、何を話すか考えていたわけではない。いっそ苦し紛れといってもいいくらいだ。
「アンタ強ぇな。俺も、攻撃力だけは認めてもらってたんだけど、それでもアンタには及ばない」
「ああ? んだよ急に」
突然口を開いた迅に、クリスは一瞬怪訝な顔をしたが、しかしすぐに答えた。
「や、別に」その余裕に迅は苦笑する。「大したことじゃないんだけど」
「…………あ?」
「――こっちの勝利条件は、もう満たしちゃったんだよね」
直後。無防備なクリスの背中に、水の弾丸が直撃した。
※
「お――ごあ……っ!?」
まるで巨大な鉄球を、フルスイングでぶつけられたかのような衝撃。
みしみし、と軋る嫌な感覚が、クリスを内側から揺らしている。あるいは、肋骨くらいは覚悟するべきかもしれない。
だが、問題なのはそこではない。
(――何……が……?)
起こったのか、クリスにはまるでわからない。
いや、冷静に考えればわかるはずだった。この場で、水属性の魔法による攻撃ができるのは、ジンに従っていたあの女しかいない――それくらいはすぐにわかる。
だからこそ、不可解なのだ。
戦力に数えていなかったことは認める。けれど決して警戒を怠っていたわけではない。
彼女の姿は、ずっと視界に収めていたはずなのに――。
とはいえ、そんな疑問に思考を巡らせている時間などない。
背中からの衝撃に、そのまま前のめりに倒れ込んだクリスの身体が――今度は真下から突き上げられたのだから。
「――――――――――――――――、」
もはや悲鳴さえ上げられない。鋼鉄の壁に、全身を前後から挟み潰されたかとさえ錯覚した。
とんでもない威力だった。
呼吸ができない。肋骨は完全に逝った。身体が原形を留めている、その事実がいっそ不思議でさえあった。
地面から突き出た土の柱に、身体を預ける形でクリスは完全に静止する。
――何が起こった?
完全に活動を停止した身体。それを無視して、クリスは頭を働かせる。
最初の一撃。水の魔法は、間違いなくあの少女――冬火が行ったものだろう。クリスの望むがどうであれ、相手側が一対一で挑む理由などないのだから。それくらいはわかっていたし、だから当然、不意打ちに警戒は払っていた。
戦闘の中で、魔力に対する感度を最高にまで昂ぶらせてたクリス。その警戒を掻い潜って背後から魔法を直撃させる――そんなことができる魔法使いは、決して多くはいないはずだった。
何より不可解なのが、冬火がいったい、いつ魔法を完成させたのか、ということだ。
誰かが魔法を使おうとすれば、その魔力の流れは当然、魔法使いなら察知できる。今回組んだ《空風》のような特殊な体質でも持っていない限り、それは絶対だ。
にもかかわらず、冬火は実際にクリスへと魔法を直撃させた。ならば彼女もまた《空風》のように、特異な魔力性質を持っているのだろうか。
――いや、それはないだろう。そうクリスは判断する。もしそうなら、それは初撃の時点で発揮されていたはずだ。最初にクリスを襲った一撃に、そんな特性は見られなかった。
と。そこまで考えて、クリスはようやく思い至った。
――最初の、一撃……?
もし、それが今の今まで《続いていた》としたらどうだろう。
普通なら当然、あり得ない。一度放った魔法は、その役目を終えた時点で完結する。魔弾ならば射出した時点で術者の管理下から逃れ、あとはただ飛んでいくだけだ。
だが、もしもそれが続いていたとしたら?
飛び去って、ただの水となって地面に弾けた魔法。その制御がまだ続いてたいたとしたら?
あり得ないことを説明するために、別のあり得ないことを持ち出すような論法。けれど理論的に、ほかの答えなど見つからない。冬火はあれ以来、新しい魔法などひとつも使っていない。
結論がひとつしかない以上、解答はそれに絞られる。
即ち、魔法の再利用。理論的には考えられていたものの、実現不可能だとされ続けてきた技術。そんなことが行える魔法使いなど、断言しよう、この世界には間違いなくひとりしかいない。
――青山冬火。
迅が出力なら冬火は制御力。明星迅とは違った形で、彼女もまた魔法の天才であるらしい。
その事実を、認めないわけにはいかなかった。
※
「上手く……いったね」
と、冬火が言う。小さく、それに迅は頷きを返した。
「ああ。上手く、逃がせたみたいだ」
その視線は森の先――今し方、金狼の一家が逃げて行った方角に注がれている。
そう、迅と冬火の目的は、何もクリスを倒すことではない。無論、それができればいちばんいいのだが、それは手段であって目的ではない。
あくまでも、金狼の親子を安全な場所に逃がすため。
ふたりにとって、この戦いは初めからそういうものだった。
「……倒せた、かな」
ぽつり、と呟くような冬火の声。確認というよりも、それは願望に近い音色だった。
「どうだろうね。手応えはあったと思うけど」
そう答える迅自身、けれど心のどこかでわかっていた。
――あの敵が、この程度の攻撃で倒れるはずがない、と。
その思いは、いっそ信仰に近かった。あれだけ強い敵が、この程度の攻撃で倒れるわけがないと――迅はどこかで、むしろそのことを願っていたのかもしれない。
そして、その思いを期待と呼ぶのなら。
彼らの難敵は、見事にそれへ応えていた。
「…………やってくれるじゃねえか、オイ」
目の前で倒れているクリスが、ぽつりとそう、愉快そうに零す。
ダメージをまるで感じさせない、どころかはっきりと明るく楽しそうな声で。
彼女はゆっくりと立ち上がり、獰猛な笑みをふたりに見せる。
「ふたり揃ってとんでもねえ……お前らみたいな隠し玉が、ウェアルルアにいたとはなあ。まったく、とんだ誤算だぜ……!」
「……その割に、ずいぶん楽しそうに見えるけど?」
――ダメージがない、というわけではないはずだ。
迅はそう判断する。実際、口元からは血が流れているし、いかに彼女でも迅と冬火の攻撃を思い切り受けては間違いなく重傷だろう。
本来、魔法使いの戦いとは即ち、必殺の応酬であるのだから。
にもかかわらずクリスは、酷く愉快そうに口元を歪める。
「ああ――? 何バカなこと言ってんだ。楽しいに決まってんだろ」
「……理解できないよ」
「は、嘘つけ。お前にわからねーハズねーよ」
――お前もオレと同じ側だろ?
そう笑うクリスに、迅は言葉を返さなかった。
「さて、仕切り直しだぜ、ジン。まあ金狼どもが逃げちまったのは仕方ねえ。どうせこの森からいなくなるワケもねえしな、あとでいいだろ」
「……まだやる気なんだね」
「当たり前だろ! この期に及んでやめられっかよ!!」
狂犬が如く喚くクリスに、迅もまた覚悟決めた。
「――わかった」
「迅……」
呟く冬火に、迅は頷きだけを返す。それで通じるはずだった。
代わりに正面の敵を見据え、迅は宣言するように言う。まるで自分自身に言い聞かせるような口調で、
「お前は、ここで倒――」
――す。と言い切る直前、クリスが爆ぜた。
「な、」
ほとんど目の前まで、一瞬で迫ってきたクリス。
その右の拳が、迅の顔面を思い切り射抜く。
「――がっ、」
もんどりうって、迅は後ろに吹き飛んだ。なんとか受け身を取りながら、地面を転がる迅に向けて、嘲笑うようにクリスが言う。
「ナニ澄ました顔でカッコつけてんだ! んなもん待つほど上品じゃねえぞ――!」
「ぐ……っ!」
無論、油断していたわけではない。ただそれ以上に、クリスが速かったというだけで。
――爆発の魔法を、自身の加速に使ったのだ。
まるでロケットのブースターのように。一歩間違えれば火傷では済まない、狂気の加速行為だった。
「迅――!?」
吹き飛んだ迅を案じる冬火。だが迅は咄嗟に怒鳴り返す。
「バカ! そんな場合じゃ――」
「その通り、わかってきたじゃねえかよジン!」
言葉はクリスから。いっそこちらに戦闘の教育でも施しているかのような採点。
ただし、間違いへの罰は苛烈だった。
咄嗟に攻撃魔法を練ろうとする冬火だが、至近距離では遅すぎる。
冬火の腹部に、クリスの回し蹴りがしたたかに打ち込まれた。
吹き飛ぶ冬火――そして二人に距離と隙を作ったということは、
「逃げろ冬火! 魔法が来る――!」
「は――もう遅えよジン!」
クリスティーナ=ボルケの真骨頂。
爆炎の魔法。
その攻撃対象になるということだった。
「吹き飛べ――!」
クリスの腕が、天へかざすように挙げられる。
「――――!!」
とぐろを巻くような魔力の暴風が、掲げられた掌の中に集まっていくのがわかる。
防御は間に合わない。回避できるような規模じゃない。
それでも、足掻くのをやめたら死は確定する。
せめて攻撃が自分を狙うよう、それだけを祈って地面に手をついた迅――
「――いやいや。そう簡単に勝てると思われちゃ、ちょっと困るかな?」
その耳を。そんな、どこまでも気の抜けた声が揺さぶった。
聞き慣れた、それでいてどこか懐かしい声音。その持ち主を聞き間違えることなんて、迅と冬火にはあり得ない。
「――――――――――――――――あ?」
瞬間、クリスがその動きをぴたりと止めた。
――否、止められていた。
彼女の意思に反して、集められたはずの魔力が霧散していく。魔法の構築に失敗していた。
歴戦の強者たるクリスが、今さら魔法の構築など失敗するはずがない。
ならば、なぜ魔力が散逸してしまったのか。
決まっている――誰かに、術の構築を妨害されたからだ。
「……誰だよ、テメエ」
誰何の声。背後に現れた第三者の存在に、クリスも今は気づいていた。
だがその人影は問いを無視して、迅と冬火に声をかける。
「いや、なんつーか久し振り……の割に、あんま変わってないな、ふたりとも」
場面とか状況とか、そういったものをまるで考慮していないようなユルい台詞。
その《変わらなさ》に、迅と冬火はまともな答えを返せない。
「嘘……てか、なんでここに……」
「お、お前なあ……! 今までいったいどこにいたんだよ……」
「ん? いや、あっちの木陰だけど。ほら、どのタイミングで登場するのがいちばんかなって」
極限までふざけたことを、平然と宣うその人影。
口調で冗談だとわかるのは、きっと付き合いが長いからだろう。
――そうだった。こいつはいつだってそういう奴だった。
快楽主義で、後先考えなくて、なのにいつだっていちばん美味しいところを持っていく。
「――おい、無視してんじゃねえよ。誰だって、オレは訊いたぜ?」
クリスが言う。けれどその言葉には、やはり怒りよりも悦楽が多く含まれているようだった。
その声をに、「ああ」と呟いてから侵入者が答える。
「えーっと、ちょっと待ってね。異世界用の新しい肩書きで名乗るべきかな、うん」
「あ?」
「よし、そんじゃ名乗るぜ」
クリスにも負けず劣らずの、いっそ間抜けなほど余裕な笑みを持って。
その闖入者が、自身の素性を明らかにする。
「――結崎楽。通りすがりの、魔法使いだ」
ばらばらになった三人の幼馴染みは――こうして初めて、異世界での再会を果たしたのだった。




