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1-16『結界林遭遇戦』

 金色の獣を――神の字を冠する聖獣を、レイリは不敬にも地べたへと押さえつけにしている。その様子のどこを見ても、レイリが何かしらの抵抗を感じているようには見えなかった。

 片膝をついて、レイリは金狼を冷たく見下ろしている。いや、レイリにそのつもりはないのだろう。彼は普段からそう(、、)であるだけで、決して冷淡というわけではない。

 この世界の人間のほとんどは、聖一教の信徒ではなかったのか。その絶対的な唯一教が、神なる獣と定義する対象に、レイリはどこまでも無造作で、無感動な瞳を注いでいた。

 彼がこの異世界にただ一人の、八重属性を持つ魔法使いであることよりも。

 その透徹とされた精神性こそが、迅にはよほど驚かれてならない。


「――さて」と、レイリが言う。

 あくまでも淡々と感情の籠もらない、常と変わらない口調で。

 彼は金狼の子どもに告げる。

「よければ、親の元へと案内してくれないか。伝えたいことがあってな。――きっと悪い話じゃない」

「――――――――」

 レイリが投げかけたその言葉に、金狼はけれど別段の反応を見せなかった。

 金狼は暴れも怒りもしない。なんの反応も見せず、ただ力強い瞳をレイリへと注いでいる。

 それが、獣としてはいっそ不自然でさえあった。

 まるでレイリが放った言葉の意味を、きちんと理解しているようだ。

 抵抗しようと思えば、金狼にはそれが可能なはずだった。膂力という一点において、いかにレイリといえど神獣に敵おうはずがない。位置関係とは裏腹に、力関係は今もなお金狼が上のはずだった。

 察するに、どうも金狼は、レイリの言葉を冷静に吟味しているらしい。


「金狼は、基本的には温厚で、そして賢い獣です」

 アルナが言う。視線は主人に注いだまま、油断なく、けれど声は迅と冬火に。

「言葉が、わかるのか……?」

 訊ねた迅だが、アルナはこの問いに首を振った。

「いえ。覚える機会があれば別ですが――ほとんどヒトと接触していない彼女には、人語は理解できないでしょう」

 ですが、とアルナは続ける。

「言葉が通じずとも、意思を伝えることはできます。それが悟れないほど愚かな獣ではありません。もともと金狼は、凡百の魔物とは違い、滅多なことではヒトを襲いません。こちらに害意がなければ、金狼から攻撃をしかけてくるようなことはまずありませんよ」

「……その割には、問答無用で襲われた気がするけど」

「気が立っていたのでしょう。金狼は肉体を持つがゆえに、産後直後は能力が低下します。それでも普通は魔法使い如き歯牙にもかけませんが――彼女にはわかったのでしょう。こちらに、金狼を害することができるほどの魔力があると。親を守ろうとしたのでしょう。――賢い、いい子です」

「彼女……?」と、迅は訊ねた。

 アルナは頷き、

「ええ。あの金狼はメスです」

「そうなんだ……」

 別に根拠はなかったが、なんとなくオスだと思っていた。

 たぶん、見た目が凛々しいからだろう。

 納得して頷く迅の目前で、レイリはそっと金狼から手を離した。


「悪かったな、押さえつけたりして。土産がある。――よければ食ってくれ」

 告げると、レイリは懐から、なんと生の肉を取り出した。

 いったいどこに、いつから隠し持っていたというのか。おそらくは初めから、土産のつもりで持参していたのだろうが。まさか金狼に手土産を用意していたとは。

 金狼はゆったりと身体を起こす。その美しい黄金の毛並みに、土汚れはまったくついていなかった。

「いい子だ」

 彼女(、、)はレイリが差し出した肉に鼻を近づけ、その匂いを嗅いでいた。

 狼というより、なんだか犬のようにも見える。あれだけの恐怖を撒いていた獣が、今の迅には可愛らしくさえ思えるほどだ。

 匂いで安全を確認したのだろう。ひとしきり嗅ぎ終ると、金狼はゆっくりと口をつける。

 鋭い牙でレイリの手を傷つけないように、彼女は慎重に肉をくわえると、けれどそれを咀嚼はせずにレイリを見上げていた。

 まるで何かを問うような視線で。

「親に持っていくつもりなのか。心配するな、まだ持っている」

 言ってから、レイリはしかし「いや」と首を振った。

「そんなことは、もう匂いでわかっているか。それでも先には食べないんだな……いい子だ」

 呟き、レイリは先程まで金狼を抑えつけていたその手で、今度は彼女の喉元を優しく撫ぜる。

 金狼は抵抗することなく、レイリの手をゆったりと受け入れていた。

 ひとしきり愛撫を甘受すると、金狼は生肉を銜えたまま数歩だけレイリから離れていった。だがすぐに立ち止まると、彼女は振り返って迅たちの方向を見る。

 ――ついて来い。

 そう伝えているようだった。

 誇り高き金色の獣が、レイリを認めているのだ。


「山場は過ぎたな」ゆっくりと腰を上げてレイリが呟く。「あとは彼女の親に、お目通りを願うだけだ」

 あっさりと告げるレイリ。

 その前方には、金狼がこちらを振り返りながら、どこかへと駆けていくのが見える。

「案内してくれるとはいえ、さすがに金狼、足は速いか。置いてかれるなよ」

「…………」

 迅は何も答えられない。ただ頷くのが精いっぱいだ。

 宣言通り、レイリは本当に金狼を倒せなかった――倒さなかった。だがそれは戦って勝つことよりもむしろ、ずっと難しい行為である気がしてならない。

 今さらながら。迅は自分が、とんでもない魔法使いと行動を共にしているらしいと実感させられる。

 彼が味方であることが、どんなに頼もしい事実であるのか。迅は、改めて思い知ったのだ。

 あるいは、それはレイリに限ったことではない。

 結界林を進んでいると、否応なく、迅はこの世界に初めて訪れたときのことを思い出してしまう。

 ナナと出会ったときのことは、今だって鮮明に記憶していた。

 だからわかる。彼女もまた、類い稀な才能を所持した魔法使いであるということが。

 魔法使いという存在は、とかく強力な力を持っているものらしい。

「…………」

 そこまで考えて、ふと迅は思うことがあった。

 疑問、というにはあまりにも小さい引っかかり。それのいったい何がおかしいのか、自分でもよくわからないほどだ。

 ただ思う。

 迅は、異世界を訪れて魔法使いになった。冬火もそうである。だが、ならば、

 ――なぜだろう。

 どうして地球には、魔法が存在していないのだろう――。

 その答えに至る余裕を、けれど、今の迅が持っているはずもなかった。



     ※



 金狼の案内に従って、迅たち四人は森を駆ける。

 戦闘を金狼が走っているからだろう。もはや四人に攻撃をしかけてくる魔物はない。

 森はもはや、迅にとって脅威のある空間ではなくなっていた。

 ――と。


「――――」


 唐突に、前を行く金狼がその足を止めた。迅たちも従って、その場所へと立ち止まる。

 何もない――しいて言うなら林立する木々しかない空間。要は森の他の場所と、何ひとつ差異が見当たらない。

 金狼の親と思しき影も、だから周囲には見当たらなかった。

「どうしたんですか?」

 冬火が問う。金狼はただレイリを見上げるだけで、だから問いにはレイリが答えた。

「――釣れたな(、、、、)

「え――?」

「ここでか――チッ。何考えてやがるんだか」

 言うだけ言って、レイリは視線を金狼へ投げる。

 彼は珍しく明確に不愉快そうな表情で、

「悪いな。先に行っててくれ。――アルナ。あとのことはお前に任せる」

「畏まりました。――お気をつけて」

「誰に言ってる」

 レイリは苦笑した。どちらかと言えば、むしろ愉快そうな雰囲気で。

 だがそれも一瞬、レイリは視線を細めると、今しがた四人と一体で走ってきた方向へ目を向ける。

 まるで、そこに誰かが潜んでいるとでも言わんばかりに。

「何か……いるんですか」

 迅の問いに、レイリの返答は端的だった。

「見ての通りだ」

「…………」

「――出て来いよ。そうまで露骨に誘っておいて、今さら隠れることもないだろう」

 言葉に、答えがあった。


「――もちろんではありますがぁ。呼ばれるまで隠れているのが、この場合の様式美ですからねぇ」


 怖気を掻き立てるような声だった。聞いているだけで全身に虫唾が走り、思わず背中を毟りたくなる。まるでどろどろとした不快な泥を、頭から振りかけられたようにさえ思う。

 思わず腕を抱えた迅。その目の前に、気づけば、ひとりの男が立っていた。

「な……!」

 思わず目を見開く。いつからそこにいたのか、まるで把握できていない。

 彼は初めから、それこそもう遥か昔からそこに立っていたかのように、とても自然にそこにいた。

 にもかかわらず、自然だなんて到底言えない、吐き気を催さんばかりの不快感。それを全身に纏わせている、見るからに邪悪な男だった。

「名乗りは――さて、必要ですか? 若き歴史家」

 身に纏う、ゆとりのあるローブ越しさえわかる針金のように細い身体。くすんだみたいな金の乱髪。そして、煮詰めたように濁っている、狂気さえ孕んだみどりの双眸。

 その腕には、なぜか分厚い一冊の書物を抱えている。

 ぼろぼろに痩せこけた男だった。来ている服も、その肉体も、全てがこの上なくみすぼらしい。

 見るからに、見ればわかるほど異常だった。


「名乗る意志があるとは驚いたな。騎士道にでも興味があるのか?」

 男の言葉に、レイリはわずかに唇を歪めた。

 針金じみた男もまた、張りつけたみたいな顔で笑む。

「いえぇ。ですが、礼儀は重んじる主義でしてねぇ。必要ならば名乗りを、と思いましたが、ワタクシのことは、けれど知っておいでしょうぅ?」

 聞くだに粘着質な声音。不快感が足下からせり上がってくる。

 だがレイリは、そんな男の様子をまるで意に介さず、ただ失笑して答える。

「確かに。お目にかかるのは初めてだが、そんな凶悪な魔導書を持っている人間なんざ、この世界にはお前しかいないだろう」

「褒め言葉として受け取りましょうぅ。ねえぇ、若き歴史家――ペインフォートのご次男さぁん」

「さっきからしきりに俺のことを知っているぞとアピールしているが、さて。もしかして初対面じゃなかったか?」

「いえぇ初対面ですともぉ。ですがワタクシ、これで勉強家でしてねぇ。敵になり得るアナタのコトはぁ、街に来たときから調べておりますともぉ」

「は――」と、レイリは笑う。

 それが、どこか嬉しそうであるように、迅には見えた。


「世界で最も有名な犯罪者に名前を知ってもらえているとは、光栄だと思っていいのかね。なあ異教徒?」

「――罪を犯しているのはどちらだ。どちらが真に神を裏切っていると思う」

 男の声音が、どこか決定的に変質していた。

 粘性を持った口調が、氷のように冷徹に、そして硬質に変わっている。

「聖一教の十字からすら逃れた歴史家風情が、この私に教えを説くか」

 レイリは笑った。

「素が出てるぞ」

「――――」

「下らない話はやめよう。立場が違うんだ、話し合いで片づく問題じゃないだろう」

「ええ――然り。確かに然り。ですが、異教徒を諭すもまた、教えに殉じし私の使命です」

「それで、成果はどうだ」

「芳しくありませんね。――言葉では」

 男は――笑んだ。

 それまでの粘性を取り戻して。

「――悲しいかな異教の洗脳ぅ。哀しいかな我が無力ぅぅっ! あとは力で以てしかぁ、教えを説くことができぬとはあああぁぁっ!!」

 まるで二重人格者のようだ、と迅は思った。

 レイリは静かに、それでも告げる。

「生憎、あまり宗教書は読まない。俺が読むのは歴史書だ」

「その減らず口がぁいつまで持つものか、ああこれはこれは見物ですねえぇっ!」

 言葉と同時、男は持っていた本のページを開いた。

 刹那、瘴気とも呼ぶべきどす黒い魔力が、本の間から漏れて漂う。どうやら男から感じる怖気の正体は、彼が持っている本にあるらしい。


「何をぼうっと立っている。早く行け」

 レイリが言う。それが自分に向けられた言葉であると、迅は一瞬、気づかなかった。

「え、でも……」

「どうも奴ら、俺たちに金狼の棲み処へ向かってほしくないらしいな。おそらく、金狼がこの森にいることは、奴らにとっても想定外の事態だったんだろう」

 言う間もレイリは正面から視線を漏らさない。

 だから迅は、それだけで、目の前の男が魔物よりも凶悪な存在であると悟る。

「……ああ、そうだ。これを持っていけ」

 と、レイリがまたしても懐から何かを取り出し、見もせずに迅へ放り投げた。

「っと」反射的にキャッチする迅。

 見ると、それは小さな宝石だった。種類はわからない。淡く光っているところを見るに、おそらくは魔法関係の品なのだろう。

「これは……」

「お守り代わりだ、持っておくといい」

「お守り?」

「説明している暇はない。ほら、さっさと行け。なぜ奴が独りで出てきたと思っている。ほかの仲間を先行させているからに決まっているだろう」

「それは少し違いますねえぇ」

 男が笑う。彼はまるで聖書を掲げるかの如く開いた本を持ち上げると、


「――単純にぃ、ワタクシひとりで充分だと思ったからですよおぉ」


 開かれた本の間から、黒い煙を吐き出させた。

 それがいったい、どんな魔法であるのか迅にはわからない。有色なのか無色なのかさえ不明だ。

 ただ本能が脅威だけは感じ取っていた。思わず反射的に後ろへ逃げようとすると、

「――奇遇だな」

 同瞬。レイリが片手を振るい、風を起こして黒の瘴気を吹き散らした。

「俺もひとりで、充分だと考えている」

「……なんたる不敬ぃ。神の寵愛に逆らいし唾棄すべき逆徒よおぉ」

「うるさい奴だな。その気持ち悪い作った喋り方は聞き飽きた。――が、まあ最後に、名乗りくらいなら聞いてやるが」

 言葉に、男はにたりと笑う。

 まるで皮膚が裂けていくかのように、三日月の如く口を歪ませ。

 男は告げる。


「――オルズ教愚人会四席、アドゥス=タール」

「――歴史家だ。名乗る必要はないだろう」


 直後、迅は服の襟首の後ろを、強い力で引っ張られた。



     ※



 迅を後ろへ引っ張ったのは、真後ろにいた冬火だった。

 生地が喉を締め、思わずむせ返る迅に彼女は言う。

「――行こう。残ってたら、足手纏いになる」

「で――でも」

 あの男――アドゥスは、ナナの居場所を知っているかもしれない。

 せめてそれだけは訊ねたかった迅だが、

「賢明な判断です、トウカ様」

 前を行くアルナが冷静に言う。

 メイドは主を振り返ることさえせず、ただ淡々と事実を告げた。

「アドゥス=タールは聖一教が追っている最大の犯罪者のうちの一人です」

「……有名な奴なのか?」

 アルナが前を走っているのに、迅が残ろうとは言えない。

 切り替えて金狼と走る迅の問いに、アルナは訥々と答えを返す。

「悪名という意味では」

「何したんだ?」

「様々ですが、いちばんわかりやすく表現するなら――大量殺戮犯、ですか」

「……それは」

「オルズ教の理念を最も忠実に再現する、愚人会と呼ばれる組織の人間です」

「愚人会……?」

「要するにオルズ教の幹部、最高の意思決定権を持つ内の一人です」

「……ものすごい大物じゃないか」

 要するに、悪の親玉の一人ということ。見た目通り――いや、それ以上の狂人であるらしい。

 ただ疑問は残る。迅は問うた。

「……なあ。あいつ、まさか一人で今回の事件を起こした、ってことはないよな?」

「もちろん単独犯ではありません」アルナは小さく答える。「アドゥスが主犯格なのは間違いありませんが」

「仲間はどれくらいいると思う?」

「アドゥスを含めて四人です」アルナはしれっと答えた。「知らずに来たとでも思ってたのですか?」

「訊いといてなんだけど……なんで知ってるんだよ」

「秘密です」

「あっそ……まあいいや。でも向こうが四人なら、なんであいつは一人で出てきたんだ?」

 本人の言うように、本当に一人でこちら全員を倒す自信があったのだろうか。

 それとも、何か別の理由があるのか――。

「あの男の戦いは、周囲を巻き込みますから。レイリ様が一人で残られたのもそれが理由です」

 アルナが淡々と告げた。

「それより、どうやら着いたようです。――遅かったですね」

「え……」

 迅は視線を前方の金狼へと向ける。

 彼女は立ち止まっていた。いや、立ち尽くしていた、というべきだろうか。

 なぜなら、そこには何もなかった(、、、、、、)のだ。

 本当の意味で何もない。まるで空間がぽっかりと、ブラックホールでも飲まれたかのように。木々も、雑草も、辺りの小虫も、全てが消えている。地面さえ大きく抉られていた。

 たとえるなら、爆心地とでも呼ぶべき有様である。

「戦闘が行われていた、ということでしょうか。しかし、これは――」


「――あ、なんだ。なんでこんなところに人がいやがる?」


 唐突に――声が聞こえた。またしても、と言うべきだろう。

 だが、これは先程とは意味が違う。

 アドゥスの存在には、迅が気づいていなかっただけで、レイリもアルナも、金狼もまた奴の存在は感知していたらしい。

 だが今、アルナは、そして金狼も――声をかけられるまで、その存在に気がついていなかったのだ。

 いつの間にか、目の前には二人の人間が立っていた。

 片方は女性。細身だが、隅々まで無駄なく鍛えられた肉体を持っている。髪は燃え盛るような赤の色。瞳もまた血のように紅く、長身も相まって、見た目だけならグラマラスな美人といったところだった。

 だが、まるで野生の獣のような表情が、それらの印象を全て裏切っている。

 彼女は獰猛な笑みを浮かべながら、どこか男性じみた口調で言う。

「こんなところで何してやがる。アドゥスの知り合いか?」

「――いや、そんなわけないでしょうが」

 女性の言葉に、その隣に立っている男が突っ込みを入れていた。

 存在感の希薄な男だった。目の前にいるにもかかわらず、ふと気を抜けば見失ってしまいそうなほどに。

 淡い藍色の短髪を、ゆらゆらと風に遊ばせて男は言う。

「どう考えても、ウェアルルアの関係者でしょう。もうこんなところまで来ているなんて――アドゥスさんの計画は、どうやら大幅に狂っているみたいですね。もっとも、彼にしてみれば誤差の範疇でしょうけど」

 とかく疲れたように、溜息をつきながら男は言う。

 一方、赤髪の女性は血に飢えた鬼のような笑みを見せながら、

「――は。要はオレたちの敵ってことだよな。ちょうどいい、退屈してたんだ。相手してくれよ」

「いや何言ってんですかアンタは。二対三ですよ。逃げるに決まってんでしょが」

「逃げたきゃ勝手に逃げろよ、《空風からかぜ》。オレは残る」

「バカ言ってんじゃねーですよ、この戦闘狂はもう……。まだ仕事が残ってるでしょうが」

「む――」

 空風と呼ばれた男の言葉に、赤髪の女性は難しそうな表情を作る。

 きまり悪そうに頬を掻き、

「ああ――そうだった。金狼にゃ逃げられたんだった」

「仕事は仕事です。快楽は後回しにしてください」

「ああクソ、せっかくクソつまんねえ仕事の前に、楽しめると思ったのに――」


「――察するに」


 と。アルナが、静かな声音で二人の会話を遮った。

 彼女は感情の籠もらない瞳で、謎の二人組をまっすぐ見遣る。

「貴方がたはオルズ教の作戦に加担して、金狼を殺害しにきたということですか」

 アルナの言葉に、赤髪が目を見開いて言う。

「おい、ばれてんぞ」

「あんたがぺらぺら喋るからですよ……」

「ばれてんなら仕方ねえか。そうだぜ」

「なんで答えるかな、この人……」

 緊張感のない二人組だ。だがその言葉の内容は、犯罪に加担しているというに等しい。

 迅は身構えた。いつでも戦えるように、魔力を練り上げて準備しておく。

 だが対する藍髪は、「ああもう、本当に面倒な……」などと情けない声で呻きながらアルナに言う。

「えっと。モノは相談なんですが、見逃してもらえたりは――」

「お断りします」

「うわ即答。でもまあ、そりゃそうですよ――」ね。

 と言い切るよりも前に、空風と呼ばれた男がふと右手を振るった。まるで空気を仰ぐかのように、どこまでも自然な身振りだ。

 だから、迅はそこから魔法が発されていたことに対する反応が、一瞬だけ遅れた。

 即座に反応できたのはアルナだけだ。

 たった腕の一振りで、迅と冬火は拘束された。

「――!?」

 動けない。まるで目に見えない縄で縛られてしまったかのように。

 それは風属性の拘束魔法だった。風の荒縄で対象を縛り、その動きを制限する。

 捕らわれた迅は、しかしその目に緑髪の男が顔を顰めるところを見た。

「あちゃ、かわされましたよ。うわホントかー……」

 苦々しく零す男。彼が見ているのは、魔法の捕縛をただ一歩横にずれるだけで回避したアルナだった。

 風とはつまり空気の流れだ。だが風が目に捉えられずとも、魔力の流れは感じ取れる。ただ真正面から投げられただけの魔法など、アルナに通じるはずがない。

 彼女は相手を見据えたまま、後ろの迅たちへと腕を伸ばした。その先で、開かれていた掌をぐっと閉じる。

 それだけで、二人の拘束は破壊されていた。

「ちょっ……見もしないで術式破壊とか、なんなのこの人」

 呻く男に、赤髪の女が笑って言う。

「面倒がって手ぇ抜くからだよ、バーカ」

「いやいや。だからってこうも簡単に……誰だか知らないけど、さすがに優秀だな、もう……」

「おそらくは雇われただけなのでしょう」アルナは言う。「投降するならば、悪いようには致しませんが」

「うーわー、これホントに投降しちゃいたいなあ……。嫌なんすよ基本、依頼以外の仕事するの」

 頭を掻きながら、男は心底気怠げにそう零す。だがその言葉は、同時に投降の意志などないということも示していた。

 彼はひとつ溜息を零すと、横合いに立つ女性に向けて言う。

「そんなわけなので、仕方がないっすけどクリスさんは金狼を追ってください」

「……おい。オレを名前で呼ぶんじゃねえよ」

 嫌そうに顔を歪めるクリスと呼ばれた赤髪に、藍髪はおざなりに「はいはい」と答える。

「わかりましたから行ってくださいって。この怖い人は、仕方がないので僕が足止めしときますから」

「そこにいる金狼はどうすんだよ」

「子どもを倒せ、とは僕ら言われてないですからねー。言われてないことはしませんよ」

「お前、本当に依頼されたこと以外はしないのな……」

「そうですよ。だから本当はこんな足止めだってゴメンなんですけど、まあそうも言ってらんないっすからねー」

「しゃーねーな。ま、言われた通りにやってやんよ。ほかにやる奴もいないしなあ」

 答え、赤髪はしかし愉快そうに笑うと、そのまま風を切るようにどこかへ走り去ろうとする。

 藍髪の男は呆れた口調で、

「だから、どうしてほかに人がいないとか、平気で情報を零すのかなあの人……」

 駆け出した女性を、迅は反射的に止めようとした。

 彼女を追おうと足を動かしかけた迅を、けれどアルナが言葉で止める。

「どうするおつもりですか、ジン様」

 迅は答える。

「――止める。アルナさんはそっちの男を頼む」

「勝てるとお思いですか」

「思わないけど……まあ、だったらさっさと追ってきてほしいね。俺だって、ただ守られるためにここへ来たわけじゃないし」

 強がりではなかった。迅は冷静に彼我の実力差を判断している。

 藍髪の男が、赤髪の女に金狼を負わせたということは――つまり彼女こそが、この何もない空間を作り上げた張本人である可能性は高い。

 それでも迅は、この状況で彼女を見逃す選択肢など取れなかった。

 果たして、アルナは――迅の第二の師匠は告げる。

「わかりました。では、無理をするなとは言いません」

「……ああ」

「無理を通して、道理を引っ込めてでも、ジン様が金狼を守ってください。――それができると、私は信じます」

「それは――最高の激励だよ、師匠!」

 言って、迅は即座に駆け出していく。その足に力が籠もっていて、まったく現金だと自分を笑った。

 その後ろには無言で冬火が従う。迅も今さら、冬火を留めようなどとは考えない。

 敵は間違いなく、遥か格上の魔法使いだ。けれど迅は、さしたる恐怖を感じていない。

 ――なぜなら、だって、どう考えても。

 金狼すら下すような自分の味方より、強いとまでは思えない。

 要するに、


「あの二人のほうが、敵よりよっぽどコワいっつーの……!」



     ※



「……いいんですか、見逃してしまって。《空風》ともあろうお方が、ずいぶんとお優しいものですが」

 迅と冬火が去った戦場で、アルナが小さく藍髪の男に言う。

 金狼の子もいつの間にか姿を消していた。おそらくは迅たちを追ったのだろう。

 男は苦笑、と言うにはいささか苦々しすぎる表情で、

「あの人は本当に……恥ずかしい異名を勝手にばらすんだからもう」

「貴方がたは、金狼を弑するために雇われたのでしょう。邪魔を放置する理由はないと思いますが」

「いや僕、あなたの相手で手いっぱいですから。つーか手を出そうとしたところで、あなた間違いなく止めたじゃないですか。なんすか、その質問。煽りなんですか。乗りませんからね?」

 ぶつぶつ呟く《空風》に、アルナはけれど首を振って問う。

「そういう意味ではありません。そもそも、どうしてこうもバラバラに行動しているのですか。オルズ教側の対応が、いささかお粗末に過ぎるというものです。アドゥスほどの男がいて……こんな場当たり的な対応はあり得ない。何を考えているんですか」

「……それ、訊いたら僕が答えるとでも?」

「いいえ」

「あっさりだなあ、なんで訊いたんだか……」

 とは言うが、こうして言葉を交わしている間にも、二人はお互いに魔力の流れを読み合っている。

 戦いは、すでに始まっているのだから。

「まあ、答えてもいいんですけどね。だって知らないし」

《空風》は肩を竦めて言う。まるで同意を求めるように、

「だってそうでしょう? しょせんは僕も雇われですし、つーかそうでなくても、オルズ教の連中が何を考えてるのかなんて、僕にゃあ理解できませんって」

「それでオルズ教についているのですか」

「何についてるつもりないですよ。僕は一人です。今日を生きるので精いっぱいだ」

 ――それより、と《空風》もまたアルナに問うた。

 彼もまた意外だという感情を出して、

「あなたこそ、あの二人に彼女を追わせてよかったんですか。誰だか知らないけど、見たところ彼ら素人でしょう。そもそもなんで連れてきてんだか。僕の知ったことじゃないですけど――死にますよ?」

「あり得ません。私は二人を信頼して送り出しました」

 アルナは淡々と言う。自身の主に輪をかけて感情を殺した表情で。

 彼女は、事実以外を口にしない。


「――私の弟子を舐めていると、足元を掬われかねませんよ?」



     ※



 戦場は三つに分断された。結界林の戦いは、今や局地戦の様相を呈している。

 それぞれがそれぞれの思惑を持って、森の各地で火花を散らす。

 レイリ=ペインフォート対アドゥス=タール。

 アルナ=ミテウ対《空風》。

 そして迅と冬火は、赤髪の女――クリスと呼ばれた魔法使いを追って走る。

 七つの思惑が交差する森の舞台。

 だが盤上の駒には、あと二つの空きがあった。新しい登場人物が、舞台上へと足をかけている。

 まるで盤面を俯瞰するように、()は笑って戦況を見る。


「なんかまた、面白いことになってるなあ……」


 小さく零した呟きを、聞く者はこの場にいなかった。

 戦場にいるとはとても思えない、どこか楽しんでいるかのような声色で、彼は小さく言葉を零す。

「さて、首を突っ込むなら……まあ二人のとこだよな。師匠たちは、どうせ放っといたってどうとでもするに決まってる」

 ――それじゃあ一丁、格好つけに行こうかな。

 演出家気取りの見物を止め、彼は舞台に立つことを決める。


 結界林の戦いが、第二局面を迎えていた――。

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