1-15『結界林進攻戦』
ルルアート結界森林は、街の城壁から一キロも離れていない、ほとんど目と鼻の先に位置している。世界中に点在する結界領域の中では、比較的小規模な部類だった。
ところで、そもそもなぜ結界林のすぐ近くにルルアートの街があるのか。歴史上、ルルアートの結界が破られたことなど一度もないが、かといって魔物が棲む森の近くに街を造るのは抵抗があるだろう。
理由のひとつに、ルルアートが古くから交通の要衝だったことが挙げられる。街のすぐ南を大河が流れ、それを東に下れば海に至る。そこからさらに北東へと海を進めば、やがて聖一教の聖地たる神聖大陸に辿り着く。また街の北側には大陸を東西に貫く大山脈が走っているが、この山脈を安全に抜けることのできる大回廊が、これまたちょうどルルアートの真北にあった。回廊の先は、この西方大陸で最大の国家、《ヴロウフォーグ王国》だ。川を渡って南東に行けば、この《ヴァルシュ連合国》の首都である《ミルツ》が、さらに南下を続ければ海の先には南方大陸がそれぞれある。
要は結界林程度のリスクなら喜んで目を瞑れるほどに、交通の便がいい街なのだ。
そもそも結界領域それ自体は、自ら足を踏み入れるような真似をしない限り、さして危険な土地ではないと言える。結界がある以上、中から魔物が出て来る可能性は零と言ってよかったし、仮に結界では対処できないほど強い魔物が出る土地があった場合は、そもそも周辺がヒトの住める環境ではないからだ。
結界領域の存在自体は、これはもう対処のしようがない。地脈や龍脈などと呼ばれる、大地を通る魔力の流れ。それが淀んでいる土地には、まるで澱のように魔物が発生してしまう。だが原因がわかっているからといって、その出どころは大陸の大地そのものだ。解決などしようもない。
だから人々は、そういった濁りに満ちた土地を強力な結界で囲い、魔物が内部から出て来られないように区分けした。そういった場所を総称して結界領域と言い、たとえばそれが木々に覆われた森ならば、結界林や、結界森林などと称されるわけだ。
つまり別段、結界領域が森であるとは限らない。世界には結界渓谷や結界海域、あるいは広いものになると、結界島なども存在していた。共通点は、生態系が自然の摂理を完全無視していることくらいだろう。
基本的に、結界領域はその広さが噴出する自然魔力の量に比例している。それはそのまま内部の魔物の強さと結びついており、だから小規模な結界領域に、ある日突然、強力な魔物が発生することはない。
もちろん結界魔法とて、決して万能な技術ではない。凡百の魔物ではまず破ることなど不可能だが、たとえば金狼のような神獣に類する存在ならば、結界を通り抜けることも可能である。あるいは弱い魔物でも、数千、数万と数が揃えば、力技で結界を破る可能性があった。
だが、それはあくまで可能性だ。現実的にはあり得ない、ほとんど無視するべき可能性。たとえるなら、日常で隕石の直撃を怖れる人間がいないのと、理屈としては同じである。
だから、そんなあり得ない可能性が現実になるなんて、誰ひとり考えてはいなかったのである。
それがどれほど致命的な油断であったのかを、知りもせずに。
※
「――ところで」と、移動の終わりに、そう切り出したのはアルナだった。
ところでも何も、それまで誰も口を開いてはいなかったのだが。アルナは唐突に、そして当たり前のように淡々と話し始めてしまう。驚きのマイペースっぷりだった。
「ジン様は、結界魔法についてどの程度までご存知ですか?」
「結界魔法について……?」
アルナの言葉を、鸚鵡返しに繰り返す迅。
現在位置は、ルルアート結界林の目前。先日、迅がナナと別れた場所のすぐそばだ。
これから危険な結界林の中へ足を踏み入れていくというのに、とかく緊張感のない面子だった。レイリのことは知らないが、アルナなど普段との差異が迅には見受けられないほどだ。
そんなメイドの問いに、迅は肩を小さく竦める。
「いや。正直、ちっとも知らない」
「では説明しましょう」アルナはやはり淡々としていた。「結界魔法は、端的に言えば、現代にも現存する数少ない無色魔法のひとつです。もっとも無色魔法ゆえに、使い手は限られますが」
「無色魔法を使えるひとって、少ないんだっけ?」
この問いにはレイリが答えた。かけている眼鏡のずれを気にするように弄りながら、
「魔法使いの中でも、無色魔法を操るまでに至る者は三割程度と言われている。なぜだかわかるか?」
少し考えてから、迅は答えた。
「……才能がないから、とかですか?」
「違う。魔法の才能とは、極論すれば魔力を持っているか否かだ。魔力があれば、誰にでも魔法は使える。それは有色も無色も変わらない。――そっちはどうだ?」
と、レイリはそこで、迅の後ろに立っていた冬火に水を向けた。まるで教師のようである。
冬火はちら、と迅を一瞥し、それから答えた。
「単純に、難しいからだと聞いています」
「正解だ」レイリは頷く。「有色魔法の利点は、ほとんど感覚的に扱えることにある。魔法を習って間もないお前たち二人が、簡単に属性を操れるのはそれが理由だ。理論的な理解がほとんど必要ない。だが」
ひと息。レイリは森の結界を睨みながら続ける。
「無色魔法は違う。たとえばアルナは治癒魔法が使える。これも無色魔法だが――アルナ。これの修業には、いったいどの程度の時間がかかった?」
アルナは小さく頷いてから、主の質問に答えを返す。
「簡単な擦り傷を治せるようになるまで、半年ほどの修練が必要でした」
「ちなみに、これはかなり早いほうだ。治癒魔法は現存する無色の中でも、特に習得難易度が高い」
「……」
迅は言葉もない。アルナは続けた。
「最初の一か月はまず勉強でした。人体の構造や成分などを暗記するところから初めて、そこからは自分を実験台に、治癒魔法の鍛錬を積みました」
「自分を実験台に、ってのは……」
「自分で自分の指を切って、それを治そうと魔力を込めたり、ですね。かなり扱いが難しい魔法ですので、最初は逆に傷の治りが遅くなることさえありました。魔力は基本的に毒ですから。傷を治す、というのは、魔力本来の働きを逆転させるに等しい魔法です。今もまだ、複雑な怪我を治すことはできません。時間もかかってしまいます」
魔法というものに、言葉から連想されるほどの万能性はない、ということだろう。
あるいは二人は、だから治癒魔法に期待はするな、ということを伝えようとしていたのかもしれない。
「この辺りは才能だな」メイドの言葉を、主人が引き継いで続ける。「だからジン、お前の言うことも実は間違いではない。理論的には誰にでもできるが、かといってそれを習得するには、やはり相応の才能と努力が不可欠ということだ」
走ることなら誰にだってできる。だが、かといって誰もがマラソンランナーになれるわけではない。
それと同じような話だった。
「ちなみに俺も無色魔法は使えない。才能がなかった」
「あれ。使えないんですか、レイリさん?」
別動隊を任され、その実質的なリーダーであるレイリの言葉が、迅には少し意外だった。アルナの主人でもある彼は、てっきりかなり実力のある魔法使いなのだろうと考えていたのだ。
とはいえ確かに会ったばかりだし、その実力は迅の知るところではない。
まあ、この辺りは単純に、ほかにリーダーができる人間がいない、という消去法でもあったのだろうが。
「覚えてみようとは思わなかったんですか?」
訊ねた迅に、レイリはなんでもないことのように答えた。
「なくはなかったがな。言っただろう、才能がなかったんだ。俺は生まれつき、無色が使えない体質なんだよ。同じ体質の人間を見たことはないがな」
「…………」
「まあ、その代わり有色の才能はあった。別に悩むようなことじゃない」
あっさりと言いきるレイリの姿が、迅には頼もしく思えていた。
「と、話がずれたな。本題に入ろう。――アルナ」
レイリが言う。従者は阿吽の呼吸で頷きを返して、迅と冬火に説明を始める。
「結界魔法とは、簡単に言えばその内部と外部を区切る魔法です。強力な結界になると、内側の空間に影響を及ぼすことさえ可能になりますが、そんな結界を張れる術者はほとんどいません。基本的に、結界は外部と内部の境界、その線上にしか効力を及ぼさない、ということです」
迅はアルナの言葉を、噛み砕いて理解する。要は結界の境界を通り抜けようとする存在に、なんらかの影響を及ぼす魔法、ということなのだろう。
こういった話題のときは、黙っているのが迅の役目だ。そうしていれば、理解の早い冬火が話題を進めてくれる。主従に劣らず、息の合っている二人だった。
冬火が問う。
「この森の結界は、どういったものなんですか?」
「単純に、魔物の通過を阻むものです。この場合の魔物とは、肉体を持たず、架空の魔力体で構成されたモノ、という意味です。ですから人間ならば自由に出入りできますし、また現実に肉体を持っている一部の魔物――たとえば金狼のような神獣などもまた、結界に出入りを阻まれることはありません」
「では、結界を魔物に通過させようとする場合は、どんな方法があるんですか?」
「結界を破壊する以外、現実的に実行可能な手法はないと思われます」
「その方法とは?」
会話のペースが凄まじい。もはや迅は、「冬火は頭の回転早いなあ」などと考えているだけだった。
馬鹿である。アルナは馬鹿に構わない。
「ひとつは、結界の基点を破壊すること。その結界を支えている大元を破壊することができれば、結界も効力を失います。ですが、今回それはないでしょう。結界領域の基点は、その土地に根差す地脈の噴出点そのものですから。基点を破壊するには、この大地そのものを丸ごと破壊する以外に方法がありません。要するに不可能です」
「では、もうひとつの方法は」
「点で破れないのなら、次は面を破ることになります。結界魔法とて万能ではありません。魔力に由来する魔法は、より強い魔力を持つ者には通じないのが道理ですから。結界の阻害力を超える以上の魔物が一挙に押し寄せれば、力技で結界に穴を開けることが可能になるわけです」
「……なるほど、よくわかりました。ありがとうございます」
「いえ」
冬火とアルナが互いに頭を下げていた。よくわかりませんでした、などと混ぜっ返せる雰囲気ではない。迅は黙っていた。
まあ、何もわからなかったというわけでもないのだが。
「要するに、異常に強いか、あるいは異常に数がいれば、結界を壊すことも不可能ではないということだ」
レイリが要約してそう言った。初めからそう言えばいいのに、とはやはり言わない迅だ。
「そして生憎と、今回はその両方が揃っている。この内、数の問題はウェアルルアが対処する。俺たちが当たるのは質の問題と――」
そして。
「――この事件の首謀者を捕らえることだ」
名前の通り――というわけでもないだろうが――怜悧な視線で、興味なさげに。
本当につまらないとばかりに、レイリは言った。
「下手人はおそらくオルズ教徒だろう。目的は、まあ十字祭の妨害だろうな。ウェアルルアの巫女姫は十字教の聖人だ。宗教的な攻撃としては、それなりに理が通っている」
「オルズ教ってのは……確か、十字教じゃない邪教、でしたっけ」
「ああ。そういう目的でもなければ、こんな行為に意味などないだろう。おそらく間違いない」
そして、とレイリは続ける。
レイリの危惧は、むしろそちらにあるというような口調で。
「――あるいは、巫女姫の暗殺まで目論んでいる可能性がある。なにせあの姫は、必ず前線に出てくるからな。叩くなら絶好の狙い目だろう」
「暗殺って、ネイアをですか!?」
「今さら驚くことか。要人の暗殺なんざ、政治犯の常套手段だ」
「ネイアって、本当に偉い人間だったんだ……」
どちらかと言うと、そのことのほうが驚きではあった。もちろん貴族だとは知っていたが、気さくで話しやすく、立場を笠に着ないネイアは、迅にとってはあくまで気のいい友人のひとりという認識だ。
だが迅の理解は、この世界の基準ではまったく足りていない。
レイリは呆れたように呟く。
「驚くほどモノを知らないな、ジン。ネイアは巫女姫だぞ。聞いてなかったのか」
「いや、聞いてましたけど……そもそも、その巫女姫ってのがよくわかってなくて」
「――お前はいったい……いや、なるほど。そういうことか」
細い目を円にして疑問したレイリだったが、すぐさま何かを納得したように頷いて言葉を切った。
するとレイリが何かを言う前に、アルナが迅に向けていった。
「姫巫女は、十字教における最大の聖人です。七大の神の加護を生まれついてその身に宿す、奇跡の体現者――世界に七人だけの、神の力を持つ巫女なのですから」
「……はい?」
「美徳の一角を司る、地上にただ七柱の、神に通じし巫女の姫。それがネイアリア=ウェアルルア様です。《蒼天の姫》、《浄化の担い手》、《蒼なる水神》――この世界に、十字教の聖人たる《忍耐の巫女》の名を知らない人間など存在しません」
「――――――――」
絶句した。またとんでもない設定が出てきたものだ、などと茶化す余裕さえ迅にはなかった。
並べられた表現があまりにも大仰すぎて、もはや思考が追いついていかない。
――いったいこれから、どんな顔をしてネイアと話せばいいのだろう。
そんなことを考える迅だったが、それは問題の本質から離れている。要は何も考えていなかった。
そんな迅の驚愕を、レイリはまるで斟酌しない。
彼は淡々と、ただ事実だけを告げていく。
「姫の《浄化》の能力は、こと魔物相手には無類の強さを発揮する。姫はまだ忍耐の巫女としての能力を完全には制御できていないらしいが、とはいえそれが魔物であるのならば、神獣でもない限り姫に対しては戦いにすらならない。無敵とさえ言えるだろう。だが――相手が人間なら話は別だ」
「聖人としてではなく、魔法使いとしてのネイアリア様は、決して無敵というわけではありません。私たちの役割は端的に言うならば、ネイアリア様を害する可能性のある存在――つまり神獣や、敵対的な魔法使いを巫女姫に決して近づけないことになります」
「目的はわかったな。なら次は手法だ。簡単だから手短に話すぞ。先頭はアルナが、殿は俺が歩く。お前らは俺たちの間にいて、そこから動かなければそれでいい。――要するに何もするな」
繰り返し言葉を重ねてくる主従。まるで波状攻撃のようでさえあった。
どんどんと進んでいく言葉に、迅は慌てて分け入っていく。
「ちょ、ちょっと待ってく」
「待たない」
ばっさりだった。端的すぎて何も言えない。
レイリはつまらなそうに言う。
「自分の身は自分で守れ、とは言ったがな。まあ仮にも従者の弟子だ。基本的には守ってやる。――が、それ以上のことは本当に知らん。いいか、俺は知らんからな」
「知らんって……」
「気にするな。質問はもうないな?」
問いが突然すぎて、咄嗟には何も答えられなかった。冬火も何も言わないでいる。
それを肯定と捉えたのだろう。レイリはあっさり頷くと、話を断ち切って視線を森の方向に向ける。
「話が長くなりすぎたな。説明好きなのは俺の悪癖だ。こればっかりは治らん」
――だが、それも終わりだ。
レイリは呟き、それから視線を森へ向けたまま言葉を作る。
「――行くぞ。気を引き締めろよ。ここから先はもう、言葉の通じる世界じゃない」
ちぐはぐな四人の魔法使いが、結界林へと進み始める。
※
そこから先は、もう本当にすることがなかった。レイリが告げていた通りの展開だ。
結界林に入ってからというもの、迅と冬火がとった行為は、ただ前に進んでいくという、それだけのことだ。まるでハイキングか何かのようだとさえ迅は思った。
とはいえ、視界に映り込む光景は、そんなのどかな表現が似合うようなものではない。
端的に言って修羅場だったし、有り体に言って地獄だった。
魔物の数が、以前に比較して劇的に増えている。
森というより、もはや正しく戦場といった風情の空間が広がっている。木々は薙ぎ倒され、足下の雑草は無残に散らされて土を見せていた。地面は巻き上がり穴を作っていて、視界の届く範囲が大きく広がっている。そして、その至るところから魔物が群れて現れては、その本能に従って人間を殺しにやってきては――、
その全てが、一撃の元に返り討ちにされていた。
アルナの実力は言うまでもない。あるいはあの森で見たナナ以上に、効率よく魔物を殺していく。
水属性の魔法使いたる彼女は、同時に地の属性も所持していた。実際に目にしたことはなかったが、迅もアルナが水と地の二重属性であることは聞き及んでいた。
だが、その強さまでは、実のところまるで理解していなかったのだ。
彼女は誰よりも早く魔物の存在を察知する。敵の魔物が気がつくよりも早く、視界外の魔物の存在を、地面を通じて把握していた。地属性の魔法にそんな使い方があることも、迅はこれまで知らなかった。
地面に足をつける全ての存在を、彼女は把握していると言っていい。そこにいるだけで座標を把握され、魔物は今し方まで立っていたその地面に刺し貫かれる。
土を《統御》して棘の形に変え、かつその硬度を《強化》しているのだ。理論的は今の迅にすら可能であるはずの、たった第二段階までの簡単な有色魔法。
だがその練度が尋常ではない。強度も制度も速度も、迅では足下にさえ及ばないまでに鍛えられている。
柔らかいはずの単なる土は、魔力を通されることで並の鉱物を超える硬度を獲得していた。そんなものに真下から貫かれては、森の魔物程度は一撃だ。
地属性の魔法は、あまり戦闘向きでないと聞いていた迅だ。なんて大嘘だよ、と本心から思う。こと地上での戦闘において、地属性は無類に強力で――言い換えれば凶悪だ。
訓練において、アルナがどれだけの手心を加えていたのか。大地を掌握するという地属性の意味を、迅は改めて思い知ることとなった。
だが、それも完全ではない。なにせ魔物が多すぎる上、アルナが把握できるのはあくまで地面に立っている魔物だけだ。
つまり、宙に浮いている魔物は、地の魔法で場所を掴めない。
その討ち漏らしを担当するのが――レイリ=ペインフォートという魔法使いだった。
森に入る前、レイリが零していた言葉を迅は覚えている。
曰く、有色の才能はあった――。
その言葉を、迅はあくまで無色の才能がないことに比べれば、という意味合いだと勝手に捉えていた。
とんでもない間違いだ。その認識は、森に入って早々に崩されることになる。
レイリ=ペインフォートは、有色魔法の紛うことなき天才だった。
土の棘だけで攻撃するアルナと違い、レイリの攻撃手段は多岐に渡る。
否、あまりにも多岐に渡りすぎていた。
魔物の種類や位置によって、レイリは攻撃手段を変えている。
遠くの魔物には風属性。攻撃範囲の広い無色の斬撃で、魔物の身体を細切れにする。
物理的防御力の高い魔物には火属性。威力の高い火炎の放射で、魔物を無残に焼き殺す。
魔力抵抗値の高い魔物には氷属性。全身を凍結させられた魔物は、その運動量を零に還される。
素早い魔物には雷属性。目にも止まらぬ速度の雷撃が、矢のように魔物を射抜いていく。
不規則に動く魔物には木属性。森を支配する雑多な木々が、鞭のようにうねって対象を捕縛した。
――なんなんだ、この属性の数は。迅は驚愕に目を見開く。
ひとりの魔法使いが持つ属性は、基本的にひとつと決まっている。だが中には複数属性を持つ――たとえば水と地の二重属性であるアルナのような――魔法使いも少数だが存在することは知っていた。
だが、それでも普通は二属性まで。三重属性ともなれば、もはや奇跡のような適正だ。迅はそう、ほかならぬアルナから教えられていた。
とんだ主従だ、とレイリは思う。狸みたいだとさえ思った。
有色魔法の属性は全部で十。すなわち火、水、風、地、木、金、雷、氷、陰、陽の十属性だ。
レイリはこの森で、十の内の五属性までをすでに披露している。
可能性としては誰でも習得できる無色魔法と違い、自分と属性の異なる有色魔法は絶対に習得することができない。
つまりレイリは、最低でも火、風、木、雷、氷の五重属性を持っているということになる。
それが、どれだけあり得ない奇跡であるのか。異世界に訪れて日の浅い迅でさえ、その異常さを知っている。
これならば、確かに無色が使えない程度の欠点、なんのハンデにもならないだろう。
地属性ひとつ統御するのに手こずっている迅にしてみれば、五属性を過不足なく制御しきっているレイリの実力は、比喩でなく天地ほど離れているように思われた。
「まったく、キリがないな。よくもこれだけの魔物を集めたものだ――いや。これはもう、今もなお増え続けていると考えたほうがいいのかもしれない」
相変らず、どうでもよさそうにレイリは呟く。その表情に疲れの色は微塵も見えない。
魔力を消費すれば、相応に疲労することはレイリも実感として知っていた。つまりレイリは、これだけの魔法を乱発してなお魔力に余裕があるということだ。初めは一発二発で気絶していた迅とは、格が違いすぎてなんの参考にもならない。
とはいえ、余裕なのはアルナも変わらなかった。彼女もまた普段通りの鉄面皮で、
「あまり油断なさらないでください、レイリ様。弱い魔物ほど、本能に操られ森の外円部に出るものです」
「知ってるよ。別に油断してない」
「もちろん知っております。が、レイリ様はとかく気を抜きがちですので。お諫めするのも私の仕事です」
「…………」
メイドに窘められる主人がそこにはいた。主従というより、なんだか兄妹に見えてしまう。しっかり者の妹と、駄目な兄という図だ。その様子は、魔物の海を無造作に歩く、一流の魔法使いのものではなかった。
要するに、二人揃って余裕綽々だということ。
「――これ、俺らいる意味あるかな?」
迅は小声で、横を歩く冬火に訊ねた。
彼女もまた呆れた顔で、
「わからな……いや、わかるか。ないわね。いる意味ない」
「……だよな」
「なんだか、盛り上がってたのかバカみたいだよね」
「同感。なんなんだよ、この二人。これがこの世界の魔法使いのスタンダードなわけ? どう見ても、魔物より二人のほうがよっぽどバケモノなんだけど」
「違うと思いたいなあ……。才能あるっておだてられてたのが、なんだか間抜けに思えてきた」
「まったくだ。もう噛ませ犬だよね、俺たち。なんか違うよなあ。異世界モノって、普通は俺らが強い能力とか持ってるものじゃないっけ」
「それは知らないけど」
なんだかんだで、こちらも余裕の二人だった。
もっとも、それも仕方のない話だが。魔物の大群相手に余裕の無双を見せる仲間が二人もいて、緊張感を保ち続けるほうが難しいというものだ。
そんな一般地球人二人に、後ろからレイリが釘を刺すように言う。
「暇そうだな。なんなら前に出るか。少し疲れてきたからな」
「いや、それ絶対嘘ですよね……」
「別に嘘はついて――」瞬間、ちらとレイリが視線を右に投げた。「ない。そろそろ働いてもらおう」
レイリの視線を追って見ると、数メートルほど先で小さな鳥型の魔物が、氷の彫像に変わって地面に落ち――砕けていた。
やっぱり嘘だとしか思えないんですけど。そう突っ込むのを諦めて、代わりに迅は問う。
「……働いてもらう、とは?」
「魔物の動きが変わってきた。俺たちのところではなく、別の方向に向かい始めている。どうやら騎士団が到着したらしい」
ぜんぜん気づいていなかった。一流の魔法使いは、何より感知能力に長けているものらしい。
今さら能力の差に落ち込むわけもなく、重ねて迅は質問する。
「でも、それがどうかしたんですか?」
「遭遇する魔物の数が減るんだ。楽になるだろう」
「はあ……まあ」
「交替だ。今から、お前ら二人で戦え。俺とアルナは休む」
「は――はあっ!?」
予想外の言葉に、思わず目を見開く迅だった。
だがレイリは冷めた視線を迅に向け、
「お前、このままずっと俺たちと一緒にいるつもりだったのか? 違うだろう」
「ち、違うって……」
「何か目的があると、そう言ったのはお前のはずだ。まさか、それを俺たちに手伝ってもらえると思っていたわけじゃないだろう」
「……いえ。はい、そこまでは」
別段、責めているわけではないらしい。レイリの口調に、先ほどまでと特に差異はない。
どころか、むしろこれは甘すぎる申し出だ。迅に、戦いに慣れる機会をくれると言っているのだから。
レイリは言った。
「言っておくが、何かを隠していることには初めから気づいていた。特に追求しなかったのは、害意がないと見たからだ」
「……別に、隠してたつもりはないんですけど」
「言ってないなら同じことだろう。ジン、お前、森へ入ってからずっと辺りを窺っていたな。それも警戒しているというよりは、何かを捜している風だった」
「そ、そんなことまで見てたんですか?」
「加えて言えば目線が高かった。なら何か物を捜している、というわけでもないんだろう。物を捜すなら、まあ大抵は地面を見る。違うとすれば、それは捜す物が巨大である場合か――もしくは人か」
「――――」
洞察力が鋭すぎる。迅はもう言葉もない。
有色魔法の実力もさることながら、レイリの強みは、この冷静な判断力にこそあるのかもしれなかった。
「もしかして犯人に心当たりでもあるのか?」
「…………、あの」
「まあどうでもいいけどな」
「え――」
自分で訊いておきながら、レイリはあっさりと質問を破棄した。
そして、これまたあっさりとした口調で、
「お前ら二人が、少なくとも犯人と繋がっていないことくらいはわかってる。なんのために、ここしばらくお前らにアルナを張りつけたと思ってるんだ。監視のためだぞ」
迅とっては、途轍もなく衝撃的なことを言ってのけた。
「か、監視されてたんですか、俺!?」
「当たり前だろう」しれっと悪びれないレイリ。「もっとも、トウカのほうは気づいてたみたいだが」
「え……。そうなの?」
迅は視線を向けて冬火に問う。
冬火はしばし、ちょっと難しい顔で考え込んだあと、
「えっと……うん。私は気づいてた」
「……まじで?」
「まじで。言っちゃなんだけど、迅」
言いづらそうに、迅へと向けてこう告げた。
「当たり前だと思うよ」
「……なんで?」
問いにはレイリが答えた。
「お前は、自分の立場というものを、楽観的に捉えすぎだな」
「え……」
「いきなり巫女の前に現れた、身許不確かな謎の男。魔鳥騒ぎの現場に颯爽と現れて、あっという間に事件を解決したかと思えば、そのまま姫に取り入った若き勇者――あまりにも、都合のよすぎる展開だと思わないか?」
「ちょ……っ!?」
そういう見方をすれば確かに、迅は怪しい人物かもしれない。それこそナナと同じくらいには。
だが、それはあまりにも穿った視点ではないだろうか。反射的に抗議の声を上げかけた迅を、レイリは面倒臭そうに抑える。
「わかってるよ。別に、お前自身が何かを企んでるわけじゃないことくらいは。言っただろう、監視させていた、と」
「…………」
「第一そうでなくても、密偵や工作員か何かと考えるにはあまりにお粗末だ。なにせ弱いからな。仮に何かを企んでいたところで、簡単に取り押さえられるくらいには。まあ、そのお陰で疑いが晴れたんだ。弱くてよかったな、ジン」
「……すごい引っかかる言い方しますね。いや事実かもしれないですけど」
「わざとだ」
真顔のままでレイリは言った。意外といい性格をしている。
「ま、お前たちが運の悪い時期に現れた《無色の迷子》であることは事実なんだろう。昔から、無色の迷子は魔法の適性がなぜか高い人間であることが多いからな」
――ま、それはともかく。
とレイリは話題を変え、どこか強い視線で迅を見やる。
「何か目的があるなら、それはお前らで勝手にやってくれ。邪魔はしないが、手伝えもしない」
「……それがわかってて、ネイアを説得してくれたんですか」
「事情があるのはお前だけじゃない」レイリは淡々と呟く。「俺の側にも当然、俺の都合がある。たとえば今は金狼相手に、魔力を温存しておきたいからな。お前らが前に出ろ、と言ったのも俺の都合が優先だ。まあ死ぬ前には助けてやるから、適当にやってみろ」
「低級の魔物数体程度、今のお二人ならば充分対応できるはずです。修業をずっと見てきた私が、そのことを保証します。――少なくとも、あの魔鳥に比べれば楽勝でしょう?」
と、アルナにもそんな風に言われ、迅はようやく決心する。
考えてみれば、これは魔法の実戦経験を積めるまたとない機会なのだ。凄腕の魔法使い二人に見守られた環境で実戦に臨める――それがどれだけ恵まれているか、わからないほど間抜けでもない。
「わかりました。……やってみます」
頷き、迅は決意した。そも初めはひとりで森に入ろうと考えていたのだから。今さらである。
迅はもう、戦うことを選んでいるのだから。
レイリは軽く頷いて、
「まあ、無理だと思ったらさっさと逃げろ。金狼の相手が控えている以上、俺たちは魔力を可能な限り温存しないといけないからな。あまり助けてはやれない」
「レイリさんでも、金狼には勝てないんですか?」
ふと疑問に思って、迅はそう訊ねてみた。
レイリとアルナの実力は目の当たりにしている。彼らの実力が、この世界の魔法使いたちの中でも飛び抜けて高いものであることは迅にもわかっていた。
だがレイリは呆れたように溜息をつく。
「当たり前だ。相手は神獣、つまり神だぞ。金狼の成獣が相手なら、俺と同等の魔法使いが十人いてようやく互角か……いや、それでも倒すのは難しいだろうな」
「そ、そんなに強いんですか、金狼って」
「ああ。まあ、お前が俺の実力を高く見積もりすぎている部分もあるがな。俺の戦闘力なんか、よくて上の下がせいぜいだ。俺はそもそも魔法使い――戦う人間じゃないんだよ」
――あくまで本業は歴史家だ。嘯くようにレイリは零す。
それから、珍しく愉快そうに口角を歪めて、彼はこんな風に笑って言った。
「ほら、突っ立ってる間にも魔物が来てる。覚悟があると言ったんだ。――できる限り、俺たちに楽をさせてくれよ?」
※
「冬火、前頼んだっ!」
叫ぶ迅。その声に、「わかった!」と冬火の返事が飛ぶ。
前方左から駆けて来るのは、くすんだ灰色の体色を持つ狼に似た魔物だった。ちょうど、金狼をひと回りほど小さくしたような見た目だろうか。
だがその速度も威圧感も、あの眩い黄金の神獣とは比べるべくもない。
薙ぎ倒された木々の隙間を、縫うように駆けてくる魔物。右へ左へと不規則に揺れて迫る狼だったが、狙いが自分だとわかっている以上、そのコースは最終的に限られてくる。
迅は地面に片手をつき、魔物の進路上に土の壁を隆起させる。魔法で創った土壁は魔力の強化によってその硬度が向上している。直撃すればそれなりのダメージが魔物に跳ね返るはずだった。
だが、いかんせん魔法の発動が遅すぎる。アルナならば不規則に動き回る魔物に一発で攻撃を当てられるのだろうが、今の迅はそこまでの練度を持っていない。
案の定、狼型の魔物は跳躍することで、土の壁との直撃を回避した。体躯の差もあるだろうが、こと敏捷性と小回りに関しては、あの魔鳥より上かもしれない。
とはいえ迅にも、回避されるだろうことは予測できていた。
土壁はあくまでも布石。魔物の進路を限定するための障害物でしかなかった。
迅は持ってきていた袋から、あの土鍋の欠片をひとつだけ取り出す。そこに魔力を通わせることで、迅は破片を支配下に置いた。
鍋の欠片を操作して、弾丸のように迅は撃ち出す。魔鳥との戦いの再現だが、実力の向上に従って魔弾の威力も上がっている。
空中に跳んだ魔物には、それを回避するすべがない。土鍋の弾丸を喉元に受けた魔物は、そのまま頸椎を撃ち抜かれて死亡した。魔物を構成していた魔力素が、粒子に変わって空気へと融けていく。
一方、冬火が相手取っているのは、前方にいる昆虫型の魔物だった。現実の生物でたとえるなら、巨大な蜂に姿が似ている。
魔法に関しては迅より一日の長を持つ冬火だ。彼女は手の中で水を生成すると、それを弾丸にして蜂型の魔物へと放った。魔法の第三段階、変化の技術によって、冬火は自身の魔力を水そのものに変えている。
撃ち出した魔弾は、迅のそれより速度で勝る。たとえ液体であろうと、固めて撃てばそれは充分な殺傷力を持つものだ。水の魔弾に直撃され、魔物は肉片にまで爆散した。
「……っとに、キリがないなコレ……!」
歯噛みしながら迅は呟く。森に入った当初と比べれば、確かに魔物の絶対数は減っていた。だが、それでも多いことに変わりはない。
魔物の一体一体が相手ならば、迅も冬火も楽に打倒できるほどの実力がすでにある。二人の魔法はそれだけの威力を持っていたし、そもそも基本的な身体性能が、魔力によって大幅に向上しているからだ。
だが戦場において、一対一の戦闘などそもそも望むべくもない。魔物は当然、なんの前触れもなく不意討ちをしかけてくるし、場合によっては多数を相手にしなければならなかった。
迅と冬火は、常に周囲へ警戒を張り巡らせている必要がある。
強い魔法を覚えるということが、イコール戦いに強くなるということではない。
そのことを、迅は強く実感していた。魔力にはまだ余裕があるが、精神的な消耗はそれ以上に大きい。
この森に立ち入るということを、迅は決して軽視してはいなかったつもりだ。それは嘘じゃない。
だがだからといって、戦いそのものが楽になるわけではなかったのだ。
「疲れてきたか?」
レイリたちとバトンタッチしてから、およそ二十分ほどが経過しただろうか。
何回目かの襲撃を退けたところで、ふとレイリがそう訊ねてきた。
先程の宣言通り、レイリたちは迅と冬火の戦いにまったく介入してこない。それは迅たちが今のところ魔物を危うげなく撃退できているということでもあるが、決して信頼されているわけでもないのだろう。
「疲れてない、と言えば嘘になりますが……でも、まだ行けます」
迅は言う。別段、強がっているわけではない。
そもそも迅の状態など、レイリから見れば訊ねるまでもなく瞭然だった。
レイリは薄く笑みを見せると、
「なかなかやるな。ジンはともかく、トウカはほとんど初めての実戦だろう。実力以前に、戦いとなれば足がすくむ人間は多い。この状況で戦えるのは、それだけでひとつの才能だ」
意外にも高評価ない意見だった。
迅は少し驚き、冬火はわずかに上がった息で答えた。
「いえ……ただ強がってるだけです」
「その《ただ強がるだけ》が、できない人間のほうが多いんだよ」
「……迅の前ですから」
冬火は、少し頬を朱に染めながら言う。
それが疲労ゆえなのか、それともほかの理由からなのかはわからない。
「何もしないで負けるのは、嫌だと思っただけです」
「なるほど」
レイリはただ頷いた。何を思ったのかは、やはりわからない。
代わりに彼はすっと視線を前方にずらして言う。
「だがまあ、そろそろ休んでもいい頃だろう」
「え……」
「そら。――来たぞ、本命が」
レイリの言葉とほぼ同瞬、迅と冬火は、前方からの強烈なプレッシャーに気がついた。
異常なほど強大で濃密な魔力の塊。それを、迅は進む先に感じている。
その感覚には覚えがあった。
いや、魔法技術が向上したためだろう。その雰囲気を、以前よりずっとはっきりと感じ取ることができていた。
――なんて化物だ……!
と迅は思う。もしこの気配を初めから感じ取れていたのなら、迅はあの森で、ナナを助けようと動くことなんてできなかったと思う。
今すぐここから逃げ出してしまいたい。そんな恐怖を感じる一方で、目の前の神獣が持つ聖性から、目を離すこともできなくなっている。
金狼が、そこに悠然と存在していた。
迅たちの立つ場所から、およそ五メートルほど先に、金狼はその巨体で悠然と立っている。
神々しいと、場違いにもそう思わされてしまうほど美しい姿だ。かの獣が宗教的に崇められているというのも、これを見ればわからない話ではない。
ただ、その聖性は、根源的な恐怖とは次元を別にするものだ。
生存本能が警鐘を鳴らし続けている。目の前の存在がどれほどの規格外であるのか、暴力的なまでに強大な存在感が教えていた。理性で考えるまでもなく、強制的にそれを理解させられてしまう。
この神獣が、赤子の手を捻るよりも簡単に人間を殺せる存在であると――。
「――どうやらまだ子どもだな。生まれたばかりなのかもしれない」
と、レイリが言った。迅は震えそうな声を必死に抑えて、彼へと訊ね返す。
「そうなんですか……?」
「ああ。生まれたときから姿が変わらない魔物と違って、肉体を持つ金狼は成長する。金狼の成獣は、もっと巨大だよ」
目の前の金狼も充分、巨大な姿に見えるのだが。
ともあれ、あのときの迅の予測は、一応当たっていたわけだ。
「下がってろ」
レイリが言う。その声は鋭く、彼が本気になっていることが迅にもわかった。
前に出る彼の後ろ姿に、迅は問う。
「どうするんですか……? 勝てないん、ですよね?」
「親元に案内してもらう」レイリは端的に答えた。「勝てないなら、説得して下がってもらうほかにない」
「説得って……」
「神獣は賢いからな。話せばわかってもらえ――」
瞬間、金狼の巨体が消えた。
「は――?」
と、呟く暇さえない。本当に、瞬きすらできない刹那に、金狼の姿が目の前からなくなっていたのだ。
だが数瞬遅れて迅は気づく。金狼は消えたわけではないと。
ただ、消えたと錯覚するほどの速度で、レイリに襲いかかっていただけで。
「レ――レイリさん!?」
思わず迅は叫んだ。反射的に、身体がレイリのほうへと駆け出しそうになっている。
レイリの喉笛に、金狼がその巨大な牙を突き立てていた。彼我の距離を一瞬に詰めて、レイリの首に噛みつくまでの過程が、迅には視認すらできなかった。
考えるまでもなく明らかに致命傷だ。それがわかっていてなお、レイリの元へ駆け出そうとした迅を、
「――だから。下がってろ、と言っただろう」
留めたのは、ほかでもないレイリ本人の声だった。
喉を食い破られてなぜ声が出るのか。そう考えたのも束の間、迅はその答えに思い至った。
要するに、レイリは無傷であるのだと。
レイリの喉から、血が流れている様子がないのだ。喉元には金狼の巨大な顎がかけられたままにもかかわらず、レイリは気にもしないまま立っている。
よく見れば、レイリの手は金狼の強靭な前肢をしっかりと掴んでいた。あの速度にレイリは反応していたのだ。魔法使いどころか、それは一流の騎士に匹敵せんばかりの反射神経だ。
それにしても、首を噛まれなぜ無傷だろう――。
その答えを述べたのは、後ろに控えている彼の従者だった。
アルナは言う。自らの主の心配など、まったくしていないという風に。
「あれは金属性の魔法です。自らの膚を硬質化させ、金狼の牙を防いでいるのですよ」
「金属性って……」迅は混乱する。「この人、いったいいくつ適性を持ってるんですか!?」
「驚いてもらって恐縮だが。適性が多いことなんてな、ジン――なんの自慢にもなりはしない」
ぽつり、と、レイリが言った。
彼は両の手でそれぞれ金狼の前肢を掴み、そのまま腕を上に伸ばす。
ぐ――、という風に、黄金の神獣はその巨体をゆっくりと持ち上げられていく。
信じられない膂力だった。どれだけの制御能力があれば、ここまで能力を向上させられるのか。
レイリはそのままゆっくりと、自分の身体から金狼を引きはがす。
そして、
そのまま金狼を、振り回してから放り投げた。
「は――――はあぁっ!?」
そのとんでもない行動に、迅はもう開いた口が塞がらない。
それは冬火も大差なく、彼女は目を円くしてレイリの所業に呆然としていた。
「うっそ……」
信じられないのも無理はない。というか、もう明らかに魔法使いが取る行動じゃない。
放られた金狼は、その身体を近くの大木へ打ちつけた。ずし、という音が森の空気を重く響かせる。遠くで魔物が逃げ出す気配があった。弱い魔物は、金狼と同じ場に存在することさえできない。
したたかに背を打ちつけた金狼だが、魔力の体毛に覆われた神獣が、その程度でダメージを受けるわけがない。
即座に身を起こそうとした金狼の頭を、
「――伏せ」
と、もはや煽っているに等しい暴言とともに、レイリが地面に叩きつけていた。
ぼす、と土煙を立てて、金狼は強制的に地面へふせられる。
レイリは片手で、神と呼ばれる獣の頭を土にぐりぐりと押しつける。そして、
「別に、喧嘩をしに来たわけじゃない。まあ落ち着け」
と、自分の行動を棚上げにして、悪びれもせず言い放った。
「――――…………」
迅と冬火はもう唖然とするしかない。
傍若無人にも程があった。
「……勝てないんじゃ、なかったっけ……?」
もはや緊張感さえなく問うた迅に、アルナがまた平然と答える。
「勝てませんよ。――負けもしませんが」
「…………」
「いえ、別に冗談や嘘で言っているわけではなく。成獣が相手なら、いかにレイリ様とはいえ。一対一では数秒のうちに殺されるほかないでしょう。それに今のように子どもが相手でも、決して余裕というわけではありません。現に、あの金狼にはまだ傷ひとつありません」
「いや、そうは言うけど……」
「金属性は特徴は、全十属性中で唯一、金属性ではないものを金属製へと変化させることができるということです。主は自身の肉体それ自体を金属化させて金狼を打撃しました――が、それだけです。その程度では金狼を殺せない。いえ、傷をつけることさえ難しいでしょう」
「……だから、勝てないと?」
「初めから言っている通り、私たちは金狼を倒しに来たわけではありません。そんなことは不可能です。私たちはあくまで金狼が攻撃してこないよう《説得》をしに来たのであって――そして獣を説得するためには、言葉ではなく、力で言い聞かせるのがいちばんということです」
――それは説得ではなく脅迫というのではなかろうか。
迅は思ったが、それを言葉にするのはやめておいた。馬鹿らしすぎる。
「もっとも、こんな方法を取れるのがレイリ様くらいであることは否定しません。なにせ我が主は、天才ですから」
「あまりそういうことを言うなよ」
呆れたように止める主を、メイドは完全に無視して続けた。
自身の主を誇るように――それこそが自らの幸せであると宣言するように。
アルナ=ミテウは高らかに告げる。
「陰陽を除く、実に八つの属性に適性を持つ――世界最高の有色魔法使い」
それが、レイリ=ペインフォートの持つ才能。
この世界にただひとりだけの――八重属性魔法使いの力だった。




