1-13『クロノスポイントα』
その不意討ちじみた邂逅に、迅は心臓を強烈に叩かれたような感覚を得た。
この世界でできた初めてのともだち。命の恩人。迅にとって、ある意味でナナは冬火以上に特別な相手だとも言える。
迅は彼女との再会が、こんな偶然によって引き起こされるとは考えておらず、だから心の準備もできていなかった。それは、正しく不意討ちだったと言える。
もっとも、果たして友人と会うことに、心の準備などというものが必要なのか。
それは、迅にもわかっていないことだったけれど。
「――久し振りだね、ジンっ。あれからどうしてた?」
ナナもまた驚きに目を見開きつつ、しかし心から嬉しそうにそう言った。すっぽりと被ったフードの陰に、満面の笑みが見て取れる。
ジンもまた言葉を返そうと口を開き、
「ナナのほうこそ――」
――久し振り。あれからどうしてた。どうしてこんなところにいるんだ――。
訊きたいことが多すぎて、何を言うべきか逆に定まらなかった。
結局、迅はあえてまったく関係のないことを告げる。
照れ隠しのようなものだった。
「……そんなに食い意地が張ってるなんて、知らなかったよ」
「んなっ――!?」
瞬間、ナナの顔が沸騰するように赤くなった。フード越しにもわかるくらいに。
「く……食い意地なんて張ってないっ! 失礼だよジン、女の子に向かって!!」
「だって七杯も食べたんだよね?」
「むぐっ」
「どれだけお腹が空いてても、さすがに七杯は厳しいなあ、俺は」
「――――っ!!」
もはや言葉にならないらしい。怒りと羞恥に顔を朱に染め、文句を言おうとナナは大きく息を吸い込む。
そして盛大に噎せていた。
「うっ――えほっ!?」
「あ、ちょっ、何やってんのさ……ほら水」
迅は手近にあったグラスを、ナナへ向かって差し出した。ナナはそれをほとんどひったくるように受け取って、勢いよく飲み干していく。
やがて落ち着くと、彼女はその顔をほとんどフードに隠すよう、俯いて小さくぽつりと言う。
「うう……ありがと」
「どういたしまし、て……っ」
その様子があまりにも面白くて、迅は吹き出すのを必死で堪えていた。
それがナナにも伝わったらしく、彼女は俯いたまま不平そうに、
「……ジンのばか」
と、そう零すのだった。
そして。
「――あの、申し訳ありません、お客様」
横合いから掛けられた声に、「え?」と迅は視線を向ける。
そこには、さきほどからずっと二人のやり取りを見ていたのだろう店員の少女が笑顔で立っていた。
彼女は満面の笑みで言う。
「ほかのお客様のご迷惑になりますので、もう少し静かにしていただけると嬉しいのですけれど?」
見れば、付近の客の視線が、ほとんど迅とナナに注がれていた。
羞恥に襲われ、ナナと同じように顔を赤くした迅は、
「……あの。すみませんでした……」
と。そう零すのが精いっぱいだった。
※
「――それで。迅はあのあと、どうしてたの?」
落ち着いてから、ナナは迅に近況を訊ねた。すでにシチューは食べ尽くして、器は空になっている。
相変らず、なぜかフードは頭に被ったままだ。なぜそんな目立つ格好をしているのだろうと不審に思いつつも、訊ねることはしないでおいた。彼女にもいろいろあるのだろう、と。お洒落のつもりなのかもしれない。
迅はナナに注文してもらった品――ピラフみたいな何かだ。名前はわからない――を食べながら、彼女の問いに答えを返す。
「まあ、いろいろあったけど……」
炊かれた米を咀嚼し、嚥下し、ついでにこれまでの思い出も飲み込みながら迅は答える。
とはいえ、いちばんに報告するべきことはひとつだろう。
「とりあえず、冬火――ああ、例の幼馴染みのひとりなんだけど。合流できたよ」
「そっか! よかったね、ジン」
自分のことのように喜ぶナナ。そのまっすぐさは眩しいくらいだ。
少し照れながらも、迅は「ナナのおかげだよ」と答える。
「あのときナナが助けてくれなかったら、何回死んでたかもわからない」
無論、実際は一回死んだらそれでお終いだが。それだけの危険があったということだ。
ナナに魔法を教わり、あの結界林から連れ出してもらわなければ。
迅が冬火と再会することは間違いなくなかったのだから。
感謝しても、しきれないほどだ。
「その節は、大変お世話になりました。ありがとうございます」
迅はテーブルに手をついて、深々とナナに頭を下げる。
ナナは慌てたように「べ、別に大したことはしてないんだよっ?」と答えた。謙虚というよりは、単に照れが大きいのだろう。焦って狼狽えるナナの姿が、迅にはとても微笑ましい。
心からの感謝と、そこにひと握りの悪戯心を込めて迅は続ける。
「いや、ナナは命の恩人だからね。本当に感謝してる。ありがとう」
「も――もうそれは聞いたってばっ!」
少し怒ったようにナナは叫ぶ。かと思うと、彼女はふっと顔を俯せ、
「……本当に。わたしには、あれくらいしかできなかったから……」
「ナナ……?」
「あ、えっと。こっちの話だよ」
あはは、と下手な笑みでナナは話題を誤魔化した。迅も、特にそこへ踏み込もうとは思わない。
だから代わりに話題を変えて、今度は迅のほうからナナに訊ねた。
「……怪我は、もう平気なのか?」
迅は訊ねる。彼女の負傷は、迅を庇ってのものなのだから。
いくら魔法で傷を塞いだとはいっても、この世界の治癒魔法だって決して万能なわけではない。そのことは迅も身をもって知っている。
彼女の怪我の具合が、迅には別れてからもずっと気がかりだった。
果たして、ナナは笑顔で答える。
「うん。もうだいじょうぶだよ。わたしはこれでも、そこそこ優秀な魔法使いなんだからね」
魔法使いであるということは、治りの早さと何か関係があることなのだろうか。
わからない。だが何を訊いたところで、きっと彼女は「だいじょうぶ」としか答えないだろう。それはわかった。
だから迅は結局、それ以上の追及を諦めた。代わりに別のことを問う。
「あれから何日か経ったけど、ナナのほうは何してたんだ?」
「え、わたしっ!?」ナナはなぜか狼狽した。「わたしは、まあ――仕事かな。そう、お仕事」
「仕事……?」と迅は鸚鵡返しのように言う。
――そういえば、自分はまだこの世界で職を得ていない。
今後は冬火のように、働く先を見つけなければならないだろうけれど。そんなことを考えながら、なんとなしに迅は訊ねた。
「ナナって、どんな仕事をしてるんだっけ?」
「ど」とナナはどもった。「どんな、って訊かれてもなあ……」
どこか奇妙なナナの反応に、迅は知らず首を傾げる。
そして、そこでふとした違和感に思い至った。迅は続けてそれを問う。
「ナナ。そういえば、前に別れたとき、この街には入れない、とか言ってなかったっけ?」
「え? あー……うん。そういえば、そんなことも言ったっけ」
「……今、思いっ切り入ってるじゃない」
「うん」ナナは頷いて言う。「だから、ばれないように、こうして変装してるんだよ」
「…………」
そのローブ姿は、むしろよほど目立っている。と、教えてあげるべきなのだろうか。
迅が判断に迷っている間、ナナは独り言のようにぶつくさと呟きを零していた。
「だいたい、トルバだって独りで街に行ってたんだから……わたしだけ除け者なんてずるいんだよ……うん。だからわたしは悪くない」
「トルバ……?」
「んーん、こっちの話だよ」
首を振ってナナは言う。ローブの奥の白い髪が、ふわりと揺れているのが見えた。
それから彼女は思いついたように迅へ視線を向けると、
「まあ、わたしが街に入ったのは、ジンも秘密にしておいてね」
「……いいけど。どうして?」
「んー……仕事の同僚? みたいな人がさ。『あまり街に近づくな』ってうるさいんだよ」
ナナが、おそらくはその同僚なのだろう、誰か男性の物真似らしき口調で言ったが、それが似ているのかどうか迅にはわからない。
まあ、彼女が黙っていてほしいと言うのなら、わざわざ言うことでもないだろう。というかそもそも、特に話す相手がいない。
迅はあっさりと頷いた。
それからは、主に迅がこれまでの顛末を話すことに終始した。
冬火と再会できたこと、妙な男に襲われたこと、街に魔物が侵入したこと、それを撃退したこと、そしてウェアルルアの屋敷での出来事など――。
話題の種は尽きなかった。ナナは嫌な表情ひとつせずに、迅の言葉へ耳を傾けてくれている。
感受性が豊かなのだろう、ナナの反応はいちいちが大袈裟で、話している迅のほうも次第に楽しくなってきてしまう。あるいは命を賭けた戦いでさえ、過ぎてしまえば思い出でしかないということか。
冬火とのやり取りを聞かせると、ナナは笑顔で聞いてくれる。謎の男の話をすれば、ナナは不安そうに迅を慮った。どんな話に対しても、彼女はころころと表情を変える、最高の聞き手であり続けてくれる。
特に魔鳥との戦いには驚きを隠せないようだった。あれだけ大きな事件であったのに、彼女はそれを知らなかったのだ。おそらくは迅と別れたあとも、彼女はずっと森の中にいたのだろう。魔物の潜む、結界林の中に。
「まったく、どうしてそう無茶するかなあ、ジンは!」
ナナは叫んだ。その様子は、わかりやすく怒っている――いや、叱られていると言ったほうが近い雰囲気だろうか。
まるで悪戯をした弟を導こうとする姉のように。彼女は迅を叱りつけた。
「魔法を覚えたばっかりなのに、そんな無謀な特攻して。死んでないほうが驚きだよ!」
「いや、あのときはほかに選択肢なかったし……」
「だからって普通、ぶっつけ本番で属性魔法なんて使うかなあ! 制御に失敗したら、自分を傷つけててもおかしくないんだよ!?」
「でも、結果的には上手くいったわけだから……」
「言いわけしないの! まったくもう、ジンはいつだってそうなんだから!!」
ぷりぷりと怒るナナだった。別に武勇伝として語るようなつもりはなかったのだが、まさかここまで怒るとも考えていなかった。
まるで冬火が二人に増えたみたいだ、と思えてしまう迅。とはいえ反論などできなかった。彼女の言葉があくまで自分を心配してのものだということくらい、いくら迅だってわかっている。
そもそも、ナナに貰った命なのだから。彼女の許可なく捨てていいはずがない。この点において、迅がナナへと反論できることなどなかった。
「……悪かったよ」と迅は言う。「でも俺だって、あれから結構、魔法の練習は重ねたんだ。そりゃナナにはぜんぜん及ばないだろうけど、ていうか使うたんびに気絶するけど……でも、魔法はともかく、身体制御のほうはほとんど完璧だぜ?」
「そういえばジン、魔鳥に攻撃できたんだよね? 地属性の魔法で」
「ん? まあ……そうだね。ほとんど無我夢中だったけど。なんていうのかな、なんか、ふとわかったんだよ。自分の属性が《地》だって。まるで、忘れてたことを思い出したみたいに」
「…………」
迅の言葉に、ナナは難しい顔をして押し黙った。フードの奥の小さな顔が、何かを考え込むような表情になっている。
どうしたのだろう、と首を捻る迅に、ナナは訥々と自身の考えを語り始めた。
「その感覚は、わからなくもないけどね。問題は、魔物の防御力を突破できたことのほうだと思う」
「……何か問題なのか?」
未だ魔法のことをロクに理解していない迅だったが、自身の出力が平均的な魔法使いたちと比較して一線を画していることは理解していた。それが目下のところ、迅が唯一誇れる武器だからだ。それに問題があると聞かされては、気にするなというほうが無理だろう。
迅の言葉に、ナナは「そういうことじゃなくて」と首を振る。
「出力が大きいこと、それ自体は問題じゃないよ。こればっかりは生まれつきというか、訓練じゃほとんど鍛えられない部分だからね。もちろんどんな《魔法》を使うかにもよるんだけど、高い威力の魔法が使えるっていうことは、それだけで一種の才能なんだよ」
――でも、とナナは続けて言う。迅も特に舞い上がったりはしなかった。
それだけなら、彼女が疑念を抱く理由にはならないはずだからだ。
「でも迅は、あまりにも出力が大きすぎる。そしてそれ以上に、その威力と比較してでさえ、消費する魔力が大きすぎるんだ」
「……どういうこと?」
「迅が気絶しちゃうのはね、もちろん魔法が――魔力それ自体が、身体には毒だからってこともあるんだけど。たぶん、魔力をかなり無駄に消費しちゃってるんだと思う」
本来、魔法とは魔力の厳密なる制御の元に運用されるものだ。
そもそも魔法とは両刃の剣なのだから。完全な統御を為してなお、自身を傷つける可能性を孕んでいる。
最悪の場合、魔力が暴走して、重大な事故を起こすことだってあり得るのだ。
「でもジンの場合、曲がりなりにも魔法が使えちゃってることが、むしろ問題なんだよ。普通、魔力が制御できていなければ、魔法は単純に失敗するだけ。暴走なんて、本当は滅多に起こることじゃないんだから。だけどジンは、魔力の強さ任せに、本来なら失敗するはずの魔法を強引に成功させているんだと思う」
――あるAという攻撃魔法を使うために、最低限必要な魔力の量を10としよう。
このAの魔法は、消費する魔力を増やせば増やすほど、それと比例して威力が上がっていく。魔力を20込めた場合、威力も20まで上げられるということだ。
たいていの場合、各々の魔法が上げられる威力には理論上限がある。これは使う魔法の種類や本人の資質で上下するものだが、今回は、Aという魔法の理論限界威力を30であるとしよう。本来の威力の、実に三倍の規模である。
迅の魔法は、その理論限界を遥かに上回る威力で魔法を使っている。限界が30なら、迅は60ほど――通常威力の実に六倍もの破壊力を迅の魔法は秘めている。
だが、この例の場合、迅が消費する魔力の量まで60ということにはならない。迅は威力60の魔法を使う際に、実際はその二倍以上――この例なら150を超える量の魔力を消費していると見てよかった。
つまりは、それが力技なのだ。魔法出力とは、ひとつの術式にどれだけの魔力を込められるかで決まってくる。普通の魔法使いなら、それを計算の元に制御しているのだが、迅は無理矢理150近い魔力を流し込むことで魔法を成立させている。ただし、その大半の魔力を空費してだ。
ここに迅の異常があった。
確かに、一流をさらに超えるような力ある魔法使いなら、ある程度の力技で理論限界を超える威力を魔法に込めることができる。
ただ一口に《威力》といっても、その向く先は様々だ。単純な破壊力以外にも、たとえば速度だったり、一点への貫通性だったり、あるいは魔法的な防御を超えるための質的な密度であったりする。威力、という言葉は本来、多面的な意味を内包しているものだ。
世界はゲームじゃない。人間に、ゲームのようなHPなんて存在しない。威力という概念を、数字に表すことのほうが間違いなのだ。
世の魔法使いたちは、どこに、なんのための魔力を込めるのかを常に計算している。
だからこそ限界が存在するし、それを自身で把握している。術式とはそのためのものであり、魔法とは言葉の通り、魔を制御する法則なのだから。
迅のように、ただの素人が力技で魔法の威力を上げるなど、だから本当なら――絶対に不可能なことのはずだった。
「ジンは出力の上限が高いと言うよりも、正確には出力の下限が高すぎるんだと思う。魔力を多く込められるんじゃなくて、込める魔力を低く制御することができない」
「……問題なのか?」
「一概には言えないけどね。実際、そのお陰で金狼を撃退できたと言えなくもないし。ただ少なくとも、迅が魔法を使うたびに気絶しちゃうのは、たぶんそのせいなんだろうね。要は魔力を無駄遣いしすぎてるんだよ。いくら量が多くても、それじゃあすぐに枯渇しちゃう」
「なんとかならないものなのか?」
迅は問う。実際、これは致命的とさえ言っていいほどの問題だ。
この世界で生きていくためには現状、魔法の力が必要不可欠だと言っていい。
ただそのたびに気絶を繰り返していては、やがて命に関わる問題を生んでしまうだろう。いや、それよりも魔法を暴走させて、自爆してしまうのが先だろうか。
いずれにせよ、迅はもはや気軽に魔法を使えそうにない。
あるいはアルナも、そのことに気づいていたからこそ、迅に魔法の使用を禁じたのかもしれなかった。
「こればかりは、なんとも言えないね」
ナナは言う。少し困ったように眉根を寄せ、
「訓練次第……と言いたいところだけど、どうなんだろう。そもそも、そんな魔法使いをわたしは見たことがないから。今のだって推測だもん。普通、魔法使いは出力を上げていくことに苦労するのに、まさか出力を下げるほうに苦労する人がいるなんて、そんなの聞いたこともないよ」
「そんなレアケースな症状だったのか、俺は……」
「症状っていうか、体質だね。ジンがそういうものである以上、少なくとも治すことはできない。できることがあるとすれば、実力を上げていくことだけだね」
「……まあ、やってやれないことじゃないんだな」
ならば結論はひとつだ。――やるしかない。
あくまでも、楽を見つけ、そして冬火といっしょに三人で地球へ戻るために。
必要なことを諦めるなんて――迅には初めからできないのだから。
※
食事を終えて、迅はゆっくりとひと息をついた。
料理自体は確かに美味しかったのだが、なんだかそれ以上に気疲れがあった気がする。
とはいえそれは表に出さず、迅はナナへと向けて言う。
「そうだ、払いは俺が持つよ。と言っても、もともとナナに貰ったお金だけど」
「え、別にいいよー。わたしそこそこお金持ちだし」
「まあ、あんまり世話になりすぎるのもあれだからな」
言っておかないと、ここの払いまでナナが全てしてしまいそうだった。
それはさすがに、もう迷惑が云々というより、ただただ自分が情けなさ過ぎる。
早急に仕事を見つけて、彼女にお金を返さなければ。そう、決意を新たにする迅だった。
迅はナナから貰った、じゃらじゃらと重たい巾着を開く。
と、その中に予想外のものが入っているのを見つけた。
「……なんだ、これ?」
それは、何か壊れた陶器の欠片みたいなものだった。
首を傾げる迅に、ナナがあっさりと答えを言う。
「ああ、それは迅が持ってた鍋の破片。あのとき拾っておいたんだよ。まあ全部は回収できなかったんだけど――気づいてなかったの?」
「……どうして、また?」
想像だにしていなかった土鍋との再会――というか実質、別れてさえいなかったわけだが――に、多少驚きながら迅は問い返す。
ナナはフードの奥でにっこりと微笑み、
「だって、それ凄い魔力が籠もってるから。てっきり貴重なモノなのかと思って」
「……なんの変哲もない土鍋のはずだけど」
「そんなことないよ。これ、かなりすごいモノだと思う」ナナは言う。「量で言うなら、ジンの百倍は魔力が籠もってるはずだよ。いや、もっとかな? 術式がないから魔法具としては使えないけど――あれ、どしたの?」
「……いや」
逆を言えば、迅はただの土鍋の百分の一しか魔力を持っていないということか。迅は少し落ち込んだが、しかし考え直す。
考えてみれば、自分たちがこの世界に来てしまったのは、この土鍋が原因だったはずだ。あるいは、何かの手掛かりにはなるかもしれない。
まあ、持っておくことにしよう。
「そういえば」と、そこで何かに気づいたようにナナが言った。「ジン、確かこの土鍋の破片を使って、魔鳥に攻撃したんだったよね?」
「あ――ああ、どうなんだろ。俺としては、硬貨のほうを使ったつもりだったんだけど」
金属も、突き詰めれば地属性の延長だと考えたわけだ。
だがナナは首を振って言う。
「金貨は魔力を通さないようにできてるよ。じゃないと地属性の魔法使いなら、簡単に偽造できちゃうじゃん」
「…………あ」
「てっきり気づいてたから攻撃に使ったんだと思ってたけど。まったく、ジンは相変らず危なっかしいね」
返す言葉もなかった。
となれば、迅はあの魔鳥と戦ったときですら、ナナに助けられていたということになる。
本当に、どれだけ感謝すれば足りるのだろうか。一生を懸けてさえ、恩を返しきれないような気がしていた。
そんな迅の葛藤を知らず、ナナは言う。
「この破片、打ち直せば武器にできるかもね。ジンは地属性らしいし、相性はいいでしょ」
「……んじゃ、大事にとっておくことにするよ」
「ん、それがいいと思う」
そうナナは微笑んだ。迅は彼女に向き直って、
「ところで、ナナはこれから、何か用事でもあるのか?」
「んー? まあ、あると言えばあるかな。ないと言えばないけど」
「どっちだよ」
「いつかやらなきゃいけないけど、別に今じゃなくてもいい、そしてできれば後回しにしたい仕事があるってこと」
「……なるほど」
その気持ちはよくわかる。学校の宿題には、ギリギリまで手をつけない派の迅だった。
ちなみに冬火がすぐ片づける派で、楽はそもそもやりすらしない派だ。が、まあ余談である。
それよりも、迅にはひとつ、思いついたことがあった。
言葉通りの単なる思いつき。だが、それがとてもいいアイディアのように思えて、だから気づいたときにはもう、迅はそれを言葉にしていた。
「その仕事さ、俺も手伝えないかな?」
「……え――?」
きょとん、とナナは目を見開く。なんなら口まで開いていた。
迅が何を言っているのか、欠片も理解できないというような表情だ。
「いや、ほら、まあ恩返しの一環というか。どんな仕事してるのか知らないけど、手伝えることがあるなら使ってほしいなー、って」
「だ――ダメだよっ!」
ナナはほとんど焦っていた。
まあ、言い出した迅も、断られるだろうとは思っていた。
初めはいい考えだと思ったが、穴だらけだ。
「あ、やっぱダメ?」
「ダメダメ。危ないし――ジンを巻き込めないよ」
「……そんなに危険な仕事なのか?」
「いや危険っていうか……と、とにかくダメ。絶対ダメ」
頑なに拒むナナだった。そうまで言われては、迅としても諦めるほかにない。
「わかった。無理言って悪かったよ」
「う――いや、いいんだけど……ごめんね、せっかく言ってくれたのに」
「んにゃ。まあ仕事なら守秘義務とかもあるだろうし、部外者をそう簡単に交ぜられないよな」
迅は言う。そう簡単にことが運ぶわけもない。
ナナの懐事情を鑑みるに、そこそこ割のいい仕事であるらしいと踏んだのだが、甘かった。
無論、ナナの手助けがしたいという気持ちも嘘ではなかったが。欲を出しすぎたということだろう。
「……別に、恩返しなんて考えなくていいよ」
と、ナナが言う。どこか暗い口調で、何かを思い悩むかのように。
迅は、そのナナの反応を、照れのようなものだと解釈した。こう言ってはなんだが、ナナはあまり友人が多いタイプではないらしいし。感謝されることに慣れていないのだろう、と、そんなことを思っていた。
なんとなく――昔の自分に、その姿が被っていたからかもしれない。
迅は施設時代を思い出しつつ、ナナに言う。
「そう言われてもね。助けてもらった恩は、返しておかないと気が済まないんだ」
「……助けたわけじゃないよ」
ナナは言う。あるいは、仕事の紹介を断ったとき以上の頑なさで。
彼女はどこか自罰的な様子だった。迅の命を助けたことを、誇るどころか、むしろ恥じているような雰囲気さえある。
それが、迅には理解できない。
自然に眉を顰めた迅へ、ふとナナがぽつりと言葉を零した。
「じゃあ、恩返しっていうなら、ひとつ――お願いを聞いてくれないかな」
迅としては、それは喜ぶべき提案のはずだった。だが、どうもそんな様子ではない。
重なるだけで返せない恩は、やがて重荷へと変わっていく。迅はそのことをよく知っていた。
だから、なんであれ彼女のために行動できるのなら。
それは――喜ばしいことのはずなのに。
「……何?」
訊ねた迅に、ナナは小さく、こう告げる。
「十字祭が始まるより前に、この街から出て行ってくれないかな」
「……え?」
意味が、理解できなかった。
混乱する迅を意に介さず、ナナは言葉を連ねていく。
「きっともうすぐこの街で、よくないことが起きるから。だから――」
だから、それよりも先に。
「――この街から、逃げ出しておいてほしいんだ」
お願いだから、と。
白い少女は、哀しげな声で呟いた。




