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1-12『魔法講座中級編』

 先んじて、結論から言ってしまおう。

 迅は、メイドのアルナに魔法の指導を頼んだことを、心から後悔する羽目になっていた。

 ――ああ、マジでやらなきゃよかった。

 迅は心からそう思った。冬火のほうもさして変わりない。


 そもそも迅は、この世界における《魔法》というものを大きく勘違いしていたと言える。あるいは地球との比較から、あくまで科学の代替として魔法を捉えていたことがその原因だろうか。初めて迅に魔法を教えてくれたナナが、指導者としてはこの上なく優しい部類であったことも関係するだろう。

 いずれにせよ、この世界において、魔法は決して日々の生活を楽にするための便利技術ではない。

 どころか、むしろ正反対と言っていいだろう。


 魔法とはあくまで戦いのための技術であり。

 そして魔法使いとは――戦う人間だけを指している言葉なのだから。



     ※



 ウェアルルアの屋敷に運び込まれて、一夜が明けた朝。

 まだ微睡みの中にいた迅を起こしたのは、アルナがかけたひと声だった。


「おはようございます、ジン様」

「うぉうっ!?」


 耳元へ柔らかにかけられた声が、意識を一気に覚醒させる。

 迅はベッドから跳び上がると、驚いたように周囲を見回した。

「ああ……アルナさんか。おはようございます」

「はい。朝食の準備ができています。お召し物は用意してありますので、のちほど下へお越しください」

「え、ああ、はい。どうも。ありがとうございます……」

 こんな形で身の回りの世話をされるなど、ほとんど初めての経験だ。

 狼狽えながら、どこか引き攣った笑みで答える迅に、アルナはくすりともせず言う。

「礼には及びません。というよりも、ジン様」

「は――はい」

「メイドに、いちいち礼を言う必要はありませんよ」

「や、そう言われましてもね……」

 地球代表小市民の迅に、この展開は荷が重いのだ。

「まあ構わないのですけれど」アルナは意外にもあっさり引いた。「――今日の午後には、礼を言う気力なんて失くしていることでしょうし」

「はい……?」

「いえ。それでは下でお待ちしております」

「……はい」

 ほとんど「はい」しか言っていない。

 と、アルナはそこで思いついたかのように、

「着替え、手伝ったほうがいいですか?」

「結構です」

 即答した。冗談なのか本気なのか、いまいち掴みづらいメイドである。

 距離感がわからずにいる迅へ、ふとアルナが告げた。

「朝食が済み次第、さっそく第一回目の指導に入ろうかと思うのですが、構いませんか?」

「ああ……」

 そういえば、魔法の指導をお願いしたんだった。

 思い出し、軽い気持ちで迅は頷く。

「お願いします」

「では」

 それだけ言うと、今度こそアルナは退室していく。

 迅はその先に待つ後悔のことなど何ひとつ想起することなく、まったく関係のないことを考えていた。

 すなわち、


 ――あの人、どうして俺の部屋の鍵持ってるんだろう……。


 あとから考えれば、なんてどうでもいいことを考えていたのやら。

 迅がそう、自身の間抜けさに自嘲を零すまで、あと数時間ほどが残されていた。



     ※



 魔法を教わるということはすなわち、戦い方を教わるということである。迅が習うと決めたのは、あくまで敵を倒すための術だ。

 そのことを、彼は何ひとつ理解していなかったと言えよう。

 ……いや、たとえ理解していたとしても、やはり後悔を覚えただろう。

 迅はそう思う。なぜなら、


「遅いです」

「――ぐふぉあっ!?」

「なんですか、その魔力の練りの稚拙さは。そんなことで魔法使いになれるとお思いですか」

「ぶるぱあっ!?」

「罰です。痛みで学習してください、ジン様」

「すとっぱぷ!?」


 指導者としてのアルナが、この上なく厳しい部類であったからだ。

 そう――彼女は、控え目にたとえるなら《鬼》だった。

 控え目でさえ鬼だった。

 そのままに表現するとなれば、これはもう、適切な語彙がこの世にはないとさえ思う。それくらいだ。

 技術も理論も、実戦で肉体に叩き込む。

 それがアルナの指導方針だった。

 アルナの《指導》が身を貫くたび、迅は奇声を上げてのた打ち回る。


 訓練の場に使っているのは、ウェアルルアが騎士団の魔法使いたちに用意している広い修練場だった。いつでも使えるように、ネイアが手配してくれていたらしい。

 迅と、アルナと、ついでに冬火も含めて、三人での戦闘訓練。

 そこで迅は、数えきれないほどの魔法攻撃をその全身に受けていた。


 ――死ぬ。マジ死ぬ。何これ。あり得ない。馬鹿じゃないの。

 それが迅の感想だ。もはや感想でもなんでもない。

 全身ずぶ濡れのまま土の地面に倒れ込んでいる迅へ、アルナの指導が容赦なく届けられていく。


「すぐに起きてください。一撃二撃の魔法を受けたくらいで、いちいち倒れていてはいけません」

「無茶苦茶だよアンタ!」

「文句を言う気力があるならまだ元気ですね」

「うぉおおおっ!?」


 倒れ込んでいた迅の元に、アルナの掌から放たれた魔法――水属性の攻撃魔法が、弾丸の如き勢いで飛んでくる。ソフトボール大の水球を撃ち出すというそれは、属性魔法の最も基本的な攻撃方法だ。

 魔力によって練り上げられ、液体とは思えない硬度を得た水球は、熟練した魔法使いが用いれば大木さえへし折るほどの威力を秘める。もちろん、そんな攻撃を何度も受け切れるほど、迅の防御力は人間を逸脱していない。アルナの攻撃は、彼女の全力と比すれば遥かに攻撃力が控えられていた。

 それでも、直撃を受ければ痣が残る程度の衝撃はある。

 そんな魔法が、それこそ文字通りに湯水の如く飛んでくるのだから、迅としてはもう、死ぬ物狂いで回避するほかなかった。


「てめっ……何が魔法の指導だよ! アンタただ俺を痛めつけてるだけじゃないの!?」

 ほとんどひっくり返るみたいな動きで、地面を転がりながら魔法を回避する迅。すでにアルナに対する遠慮などは、どこか遠い地平へと消え去っていた。

 一方、慇懃なメイドのほうはといえば、迅の不平にもどこ吹く風。水と風の二重属性を持つという魔法使いに、迅の言葉などどこかへ流されてしまうばかりだ。

 普段通りのメイド服姿。エプロンドレスを飾るフリルが、風邪で優雅になびいていた。白い布地には、土汚れひとつついていない。

 それが本来の魔法使いと、素人である迅の実力差を表す結果だ。


「実戦において、敵はいちいち魔法の発動を待ってくれません。巧遅より拙速。まずは、どんな状況でも魔法を発動できるようにしなければ」

 言葉の間にも、アルナの攻撃しどうは続いている。

 連続で飛来する水弾――だが迅としても、いい加減やられっ放しではいられない。

 なんとか魔法を創り上げようと、身体の中で魔力を練るのだが――、

「足を止めない」

「ぐは……っ!?」

 直後、まっすぐに飛んできた水弾が、隙だらけになっている迅の腹部へ直撃した。

 肺が機能しない。空気を全て押し出して、同時に魔力までもが霧散した。

 魔力を肉体の隅々まで流す。ただそれだけのことで、魔法使いは身体能力を向上させることができるはずだった。

 それなのに、その《それだけ》がこんなにも難しい。

 動きながら魔力を操るということは、たとえるなら右手と左手で別々の記号を書き続けるような行いと言える。その難しさというものを、迅は改めて突きつけられたかのような思いだった。


 ――いや。これまでの自分には、できていたはずの技術なのだ。

 あの森で、黄金の狼と戦ったときも。

 冬火を襲った、謎の襲撃者を撃退したときも。

 街に侵入した魔鳥を足止めしたときだって。

 迅には、それができていたはずだった。そうでなければ死んでいた。

 だがアルナに言わせれば、そんな火事場の馬鹿力など、本当の実力とは呼べないものだ。

 迅など所詮、ただ運がよかっただけに過ぎない。たまたま本番に強かったというだけで、偶然に裏切られた瞬間に死ぬ。


「動きを止めてはいい的です。魔法使いは、あくまで前線で戦う者ですよ」

「くそっ……!」

 歯噛みするように悪態をつく迅。水弾の直撃を受け、蹈鞴を踏むように後退してしまう。

 彼我の距離は、たった数メートルほどでしかない。魔力で身体を強化しなくても、数秒で辿り着けるだろう。

 けれど、そのたった数メートルの距離が、今の迅には絶望的なまでに遠いのだ。


 この特訓のルールは単純だった。

 どんな方法を使ってもいい。アルナの攻撃を掻い潜り、彼女の体に触れさえすればクリア。ある意味では、魔法を使う必要さえない。

 実際、先に挑戦した冬火は、身体強化だけであっさりとクリアしていた。水弾なんて一発も受けなかったし、掛かった時間だってほんの二分程度でしかなかった。冬火は驚くほどの練度で、魔力を使いこなしていた。

 迅はもう二十分以上、この特訓がクリアできずにいるというのに。


「意識して魔力を流そうとしている時点で、もう間違いですよ、ジン様」アルナが言う。「考えるのではなく、感じる。意識せずに、自然な肉体強化ができるレベルになるまで、この特訓は終わりませんよ」

「てめえ……上等だ、見てろよコラぁ……!」

 迅はもう普段のキャラはどこへ捨てたのかというくらい口調が荒い。

 余裕なんてなくなっていた。プライドは土で汚されている。

 それでも泣き言さえ零さず、迅はアルナへと噛みついていた。

 もう自分でも、どうしてここまで熱くなっているのか、正直ちっともわからないのに。

 迅の中の何かが、今をもって、負けることを許していなかったのだ。


 ――そして。

 そんな自分を、どこか高いところから俯瞰している、もう一人の自分の存在にも。

 迅は、気がついていたのだ。


 そのジン(、、)が言う。

 ――落ち着け。冷静になれ。魔法は感覚じゃない、思考だ。

 アルナの教えとは相反するような声。

 それに、けれど迅は従った。

 意識がゆっくりと、どこか深いところに落ちていく。


「――――…………」

 ふっ、と迅は突如に脱力した。両腕をだらりと力なく下げ、無言のままに呼吸している。

 余分を消していくように。喋ることに使うエネルギーさえ、今は惜しいと思えていた。

 迅の集中が、それまでのものと一段レベルを変えていることに、アルナははっきりと気がついている。

 ――なるほど。これが、ネイアリア様の見定めた力――。

 ふとアルナは思う。目の前の、ただの素人でしかない青年が、騎士団ですら苦戦した魔物を相手に善戦したという事実を。

 アルナはその場に居合わせていなかった。だから迅の武勇伝など話半分にしか聞いていないし、正直ほとんど信用もしていなかった。特訓を開始してからは、なんて期待外れなんだろうとさえ思ったほどだ。

 だが今、迅が見せている集中力には、わずかながら目を瞠るものがあった。なるほど、と思ったのは、つまりがそのためだ。ネイアが執心するのも頷ける。

 おそらく、迅に魔法の才能は少ない。なくはないが、驚くほどのものではない。

 だから彼にあるのは魔法の才能などではなく――、


「……!」


 瞬間、迅の身体がわずかにぶれた(、、、)

 動いたのだ。迅が。十全な身体制御の元に、アルナへ向かって肉薄する。

 もちろん、それで狼狽えるような訓練をアルナは積んでいない。迅の動きは素人としては褒めるに値するレベルだったが、その程度では、アルナの脅威になり得ない。

 迅は、アルナから見て斜め左側へと飛び出した。無策にまっすぐ突っ込んで来ないだけ考えているのだろうが、直線でない分、わずかながらアルナへと至るまでの時間は増える。それは、充分すぎるほどの隙だ。

 アルナは水弾を撃ち出した。狙ったのは腹部。だが、今の迅ならこの程度は避けるだろう。

 だから、それは牽制だ。本命は、迅が水弾を回避したあとに生じる隙のほう――そちらへ目掛けて弾を撃ち込む。アルナが見たいのは、そのときの対応方法だった。

 元よりアルナが本気で戦えば、迅など相手にもならないのだ。近づくだの触れるだのという以前に、最初の一撃で殺せている。

 つまり、これは見極めだ。迅が一定以上のパフォーマンスさえ見せれば、その時点でアルナはわざと触られるように仕向けるつもりだった。


 そして。案の定、迅は冷静に水弾を躱した。その攻撃の下を潜るような形で。地面を這うかの如き姿勢で。

 ――ですがそれは。

 悪手だ。そうアルナは思った。

 体勢を沈めては、その分スピードも落としてしまう。格下の迅がチャンスを狙うには、短時間で一瞬の隙を突くほかにない。その理を、自分から棄ててしまう行いだった。

 ――なんだ。こんなものですか。

 多少の期待外れを感じながら、アルナは冷静に、体勢を崩した迅を狙い撃とうとする。

 その、瞬間。


 迅の口元が、わずかに歪んだように見えた。


「――――っ!?」

 刹那。アルナは、悪寒を感じていた。その事実がいちばんの衝撃だった。

 地面へ倒れ込むように飛び出した迅は、そのまま片手を土に向けて落とした。

 直後、土が盛大な爆発を見せ、もうもうと土煙が舞い上がる。地属性の魔法――そう表するには荒すぎるが、それは確かに魔法の一部だ。

 想定外だった。魔法を使われるとは思っていなかった。なぜなら、今の彼にはそもそも使えないはず(、、、、、、)なのだから。

 驚きにアルナは硬直する――いや、それは硬直というにはあまりにも短すぎる間でしかない。

 それでも、迅には充分すぎるほどの隙で――そして。


「――ほら見ろ、クリアだ」


 迅の左手が、アルナの身体に触れていた。

 土煙による目晦ましが――いや、使えないはずの魔法を使ったことが、アルナに隙を生み出したのだ。

「おめでとうございます。まさか魔法まで使われるとは考えていませんでした」

 アルナの言葉には、珍しく本気で感心するような色合いがあった。同時に困惑もあったのだが、冷静沈着を旨とするメイドが、それを態度に出すことはない。

 彼女はネイアから話を聞いて、迅の持つ力にある程度の当たりをつけていた。

 魔法の実力なんて、結局は大半がその《才能》に左右される。才能のない者がいくら努力したところで、才ある人間を超えることはできない。誰も言葉にはしないだけで、魔法とは初めからそういうもの(、、、、、、)だった。


 迅には魔法の才能はない。いや、もちろん大方の人間よりはあるほうだろう。だが魔力の制御はかなり下手だ。センスに欠けている。出力はかなり高いが、それも制御できなければ宝の持ち腐れだ。

 だから、この場合。

 迅にある素質とは――あくまで《魔法使い》としてのものだ。

 そう、アルナは考えていた。

 だが一方、迅はそんなことに気づかない。


「あ? いや別に魔法を使っちゃいけないなんて言われてなかったよな?」

「ええ。私は《どんな方法を使ってでも》と言いました。ジン様、お見事です」

「今さら褒められてもね……バカにされてる気分になるよ」

「素直にお受け取りください。普通、魔法を覚えて数日程度で、ここまで戦えるようにはなりませんよ。あるいは記憶を失われる前のジン様は、魔法を使えていたのかもしれませんね」

「……ないと思うけどね」


 手放しで称賛するアルナに、迅はどこかつまらなげだった。この程度のことは褒められるに値しないと思っているのだろう。

 迅がそういう性格であるということは、短い付き合いながらアルナにもわかりつつあった。なんだかんだ言って、この青年は、かなりの負けず嫌いであるらしい。

 もっとも、彼にはわからないのだ。魔法の知識が乏しい迅には。

 ――自分の行為が、どれほどの異常であったかということが。

 本来、ただの目晦まし程度では、アルナの眼を誤魔化すことなどできないのに。

 才能云々ではなく。アルナは、迅が抱えている異常(、、)に、考えを巡らせつつあった。


 まあ、それはともかくとして。


「そろそろ、手を離していただいてもよろしいですか?」

「は?」

「私も女ですので、あまり長時間そこ(、、)に手を触れられていると――」

 ――困ります。

 そう、アルナは言った。

「え……?」

 言葉に、迅はその視線を自らの手許へと落とす。

 そしてから、ようやくのように気がついた。


 すなわち――自らの掌が触れている場所が、アルナの胸であるという事実に。


 ひとたび意識が向いてしまうと、掌から伝わってくる柔らかな感触が、迅の思考を急速に停止させてしまう。

 尋常ではない――それこそアルナの魔法さえ上回るほどの――衝撃に襲われ、迅の身体はびくっと痙攣した。

 その振動は当然、掌にも伝わり、そのままアルナの――そんなことは口が裂けても言わないけれど、少なくとも冬火やネイアよりは遥かに豊満な――胸元にまで伝わっていく。

「ん……っ!」

 と、アルナがわずかに吐息を漏らした。見れば、どこか頬が朱に染まっているようでさえある。気のせいだろうか。よし、気のせいということにしておこう。そう思おうとして、思えなかった。

 いつも無表情なアルナが、今はなんだか別の色に彩られているように感じられる。それがどこか艶めかしくて、迅はもう恐慌状態に陥っていた。

 手を離すことさえ忘れて硬直した迅を再起動させたのは――、


「な――にをやってんのよ、この変態野郎っ!!」


 横合いから直撃した、冬火の攻撃魔法だった。

 彼女は迅の特訓を、脇からずっと見学していたのだ。

 アルナと同じ水の弾丸。いや、加減がない分、あるいはアルナのそれより威力は高かったかもしれない。

 そんなもので真横から撃ち抜かれた迅は、


「やっ――」


 と何かを言いかけて、そのまま吹き飛ばされてしまう。地面へとしたたかに叩きつけられ、迅は完全に沈黙する。

 そしてそのまま、ぴくりとも動かなくなった。

「……あれ?」

 思わず目を見開く冬火。だが、当然ではあるのだろう。

 今まで何度も攻撃を喰らい続けていた上、以前の傷もまだ完全には癒えていないのだから。

 迅はもはや、疲労の限界だったのだ。

 完全に意識を手放し、気絶してしまった迅の横顔は――、


 それでも、どこか幸せそうであったという。



     ※



「お前さあ……普通、試練に打ち勝った幼馴染みを、魔法で撃ち抜くかね?」

 気絶からは小一時間ほどで目覚めた。最近は気絶してばっかりだ、と苦々しく迅は思う。

 当然ながら、頭を打って都合よく記憶をなくしていた――なんてことがあるわけもなく、迅はねちねちと冬火に恨み言をぶつけていく。昨日の一件を根に持っているのかもしれない。迅も冬火も、その辺りのねちっこさはよく似ていた。

 ただ冬火としても、さすがに悪かったとは思っているらしい。

「……だから、謝ったでしょ」

 不平そうに唇を尖らせつつも、迅に謝罪は告げていた。

 もっとも彼女にも言い分はあるわけで。

「迅だって悪いんだからね? あんな風に、事故を装ってセクハラなんかして」

「いや装ってないからね? 人聞きの悪いこと言わないでくれる?」

「だったらなんですぐに離さなかったのよ」

「そりゃ……まあ、ほら。……ねえ?」

「死ね」

 冬火の視線は冷たかった。むべなるかな、と言ったところだ。


 そんな風に冗談を交わし合う二人は今、迅に与えられた自室の中にいる。

 広く、趣味のいい調度品に囲まれた貴族の部屋。窓からの明るい日差しを浴びながら、迅はベッドに、冬火は備え付けの椅子に、それぞれ腰を下ろしていた。

 すでに着替えは済ませている。屋敷の浴場を借りて、汗を流したあとだった。

 というのも、アルナが「今日の授業は終了です」と一方的に訓練を打ち切ったのだ。

 冬火のほうは迅が気絶している間、もう少しレベルの高い訓練をアルナに与えられていたらしいが、なにぶん意識のなかった迅は、冬火が何をしていたのかを知らない。

 ただ彼女との会話で、

「何やってたんだ」「訊かないで」「……おう」

 だいたいの事情は察していた。冬火をここまで震え上がらせるとは、メイド恐るべし。迅の中に、間違ったメイド観が築かれていく。


「さて……それより、予想外に時間が空いちゃったね」

 迅は言う。てっきり、訓練にはほぼ丸一日を費やすくらいのつもりでいたのだ。

 なんなら自主トレーニングをしてもいいような気はするが、アルナから「次に私が言うまで、絶対に魔法を使ってはいけません」と、なぜか厳命されていた。

 魔力を身体に通すだけなら構わないらしい。が、あの地魔法のように、魔力を身体の外に出すことは禁じられていた。

 せっかく掴んだ感覚が去ってしまいそうで、なんだか迅としては面白くない。玩具を取り上げられた子どものような気分になっている。

 とはいえそこで逆らうほど子どもというわけでもない。アルナの言いつけに背くつもりはなかった。

 単純に、無表情メイドの迫力に負けただけとも言えるけれど。

「ちなみに、次っていつ?」

「次は次です」

「……何やるのさ」

「そうですね。魔物でも、何体か狩りに行きますか?」

「…………」

 次が永久に来なければいい。と、ちょっと思わなくもない迅だった。

 ともあれ。


「どうする? 別にやることもないし、どこか散歩にでも行くか?」

「んー……行きたいけど、わたしはいいかな」

「あれ。なんか用事?」

 提案する迅だったが、残念ながら冬火には振られてしまった。

「ごめん。別に用ってわけじゃないけど、ほら、ちょっとおじさんのところに顔出さないと。ずっと仕事休ませてもらってるの、さすがに申しわけないし」

「ああ、なるほど」

 そう言われては、迅としても頷くほかにない。

 彼女が仕事を休んでいる原因は、迅にあるとも言えるのだから。

「んじゃ、俺は適当にどっかその辺をぶらぶらしてることにするよ」

 迅の言葉に冬火は苦笑。

「それ、実質何もしてないじゃない」

「まあ事実、暇だからな。こっち来てから働いてないし」

「その歳でニートとか……」

「うるせえよ」

 そう言って睨む迅に、冬火は「あはは」と笑って席を立つ。


「それじゃ、またあとで。夕方にはまた来るから」

「ん、仕事がんばってねー。あ、アラムさんによろしく」

「りょーかいっ」

 そう笑って、冬火は部屋を出ていった。室内が一瞬で静かになる。

 広い部屋の無機質さが、迅には少し寂しく感じられてしまう。なんだか異世界に来てから、弱くなったような気さえしていた。

「ああ……よくないな、これ」

 呟き、迅は感傷を振り払うように頭を振った。

 それからぐっと伸びをして、ベッドから飛び降りて部屋に立つ。

「さて、俺も行こう」

 宣言するようにそう零してから、迅もまた部屋を出ていった。



     ※



 明るく広い廊下を進む。屋敷というより、この雰囲気はもはや城に近いな、というのが迅の印象だ。

 さすがに貴族、それも元は王族の血筋を引く家系だけはある。

 これが華美に過ぎれば、途端に趣味は悪くなり、落ち着きのない空間へと変貌してしまうことだろう。だが全般的に明るめながら、落ち着いた色合いで覆われているこの屋敷は、どこか落ち着いた雰囲気の流れる場所だった。

 平民たる迅にとってさえ、過ごしやすいお屋敷。

 とはいえ、いつまでも逗留していられるわけじゃないだろう。


「さて……どうしたもんかね」

 そんなことを呟いていると、ふと前方から歩いてくる人影が見えた。

 その姿には見覚えがある。

 金髪蒼眼の美丈夫。すらっとした長身に、今は軽そうな布着を纏った青年。

 ――ティグエル=ホズミ。

 巫女姫に付き従う、騎士候補のひとりだった。


「――あ、ティグじゃん。よっ」

 さっと手を挙げた迅に、ティグは苦い顔で答える。

 この辺り、軽い感じの演出は、だいたいが楽の性格を真似たものである。

「またずいぶん軽い挨拶をしてくれるね……」

「あれ、気に障った?」

「いや。別に構わないけどね」

 つまらなそうにティグは言う。とはいえ、気を悪くしている様子はない。

 初めて見たときのイメージとは違い、そこそこ話の通じる奴らしい。


「んで、ティグさんは今何してらっしゃるの?」

 迅は訊ねた。特に興味があったわけではないが、すれ違っておいて何も言わないのも気が引けたのだ。

 ティグもまた、さして気負うでもなく答える。

「別に、何というわけでもないが」

「その割には」と、迅はティグの腰元へ視線を落とす。「剣持ってるじゃん。こんなとこで」

「僕はこれでも、騎士の中ではそこそこ地位が高いのでね。帯剣を許されている」

「だからって持ち運ぶ必要ある?」

「剣は騎士の誇りだよ」この手の台詞が、ティグには嫌に様になっていた。「持ち運ばない理由がない」

 ――重そうだなあ、いろんな意味で。

 そう思う迅だったが、さすがに言葉にするほど間抜けではない。

 それに、その気持ちは、わからなくもないのだ。

 正直、少し憧れる。

「それより、君のほうはどうなんだ」

 と、今度はティグのほうが迅に同じことを訊ねてきた。

 まさか訊かれるとは思っておらず、ちょっとだけ返答に詰まる迅だったが、すぐに言う。

「や。俺のほうも別に、何をしようってこともないけど」

「……確か君は、アルナさんから魔法の指導を受けていると聞いたが」

「ああ。あれ今日はもう終わりだって」

「そうか」

「うん。だからちょっと、散歩でもしてようかなって」

「あまり固いことは言わないけれどね」ティグが釘を刺すように言った。「ここはあくまでウェアルルアの敷地だ。客人とはいえ、あまり妙な場所には入らないでくれよ」

「あー、了解。心得とく」

 迅としても、ネイアたちに迷惑をかけるつもりはないのだ。

 貴族の秘密に興味がないとは言わないが、世の中には知らないほうがいいこともあると、いくら迅だって知っている。

 というか、一応ここは他人の家だ。あまり勝手に出歩くのは、そもそもどうかという話である。


「それじゃあ、ちょっと街のほうに出てこようと思うんだけど」

「そうか。……気をつけ給えよ」

 淡々と言うティグだった。迅は苦笑して、

「怖いこと言うなよ、騎士さん。この前みたいなのはごめんだぜ?」

「……ああ、それについては心配しなくていい。もうこの街に、外から魔物が侵入することはないよ」

「そうなのか?」

 意外な言葉だった。

 いや、そうそう起こることでもないとは聞いていたのだが。

「ああ。レイリさん――アルナさんの主なんだが、彼に結界を張ってもらったからね。しばらくは、外から街に魔物が侵入することは不可能だ」

「結界ねえ……」

 呟きつつ、なるほど、とひとり納得する。

 あの慇懃なメイドの主が呼ばれた、ひとつの理由がそれだったらしい。

 まあ、魔物に遭わないなら、それに越したことはないだろう。

 安堵する迅に、あくまで固い表情でティグが続けた。

「とはいえ過信はするな。魔物の侵入は防げても、人の流入までは防げないからな。怪しい男がこの街をうろついているという報告もある……っと、奴を撃退したのは君だったな」

「まあ、たまたまだけどね」

「それは知っている」

 平然と宣うティグだった。迅は肩を揺らし、

「んじゃ、俺は街に行ってくるな。ネイアによろしく」

「ネイアリア様だ」

 このときだけ、ものすごい勢いで睨まれてしまった。

 帯剣の騎士に睨まれると、正直もうそれだけで恐ろしい。

「……ネイアリア様によろしく」

「ああ。――そうだ、ひとつ忠告しておく」

 と、ふと話題を変えるようにティグは言った。

 その様子にはもう怒りのそれは見えない。

 単純に怒ったというよりは、単に彼が礼儀を重んじる性格なのだろう、これは。

「街の外にある森には入るなよ。あの土地は結界林といって、内部に魔物が蔓延っている」

 すでに手遅れだ、と言ったらティグはどんな顔をするだろうか。試してみたい気分になったが、そこはさすがに堪えておく。

 代わりに、迅はかねてから疑問に思っていたことを、この機に訊ねてみることにした。

「……退治しちゃわないのか?」

「何?」

「いや、森には魔物がいるんだよね? 結界で覆ってないで、倒しちゃえばいいのに、と思って」

「……そういえば、君は《無色の迷子》なのだったな。魔法を使うから、つい忘れていたよ」

 呆れたようにそう零すティグの反応で、迅はまたしても見当違いのことを言ったと気がついた。

 しかし《無色の迷子》という言葉はかなりの万能性があるらしく、何を訊いても不審に思われることがない。

 今回も、ティグは普通に説明してくれた。

「結論から言えば、あの森の魔物を倒すことには意味がない(、、、、、)んだ。でなければ当然、騎士団も放っておかない。いや、それ以前に討伐隊が組まれているはずだろう。街が作られるよりも先にな」

 そりゃそうだ、と迅は納得。確かにこれは、間抜けなことを訊いたかもしれない。

 ティグは続けた。

「魔物が、普通の生物と違うことは知っているか?」

「……なんとなくは」

「魔物は生物ではない。淀み、負に濁った魔力から生まれる、生物を模した一種の《魔法》なんだよ」

「魔法……」

「そう。肉体を持たず、子を為すこともせず、ただヒトを害するという概念だけに沿って存在する魔法。それが魔物の正体だ。それも魔力さえあれば自然発生的に生じてしまう、極めて厄介な類いのな」

「……なるほど。読めた気がする」迅は言った。「つまり、いくら魔物を倒したところで、放っておけばまた自然と魔物が発生してしまうってわけか」

 だから討伐には意味がない。たとえ全滅させたところで、森に魔力がある限り、いくらでも魔物は生まれ続けるのだから。

 そして魔力は土地そのものが内包しているものだ。たとえ森を焼き払ったところで、魔力がなくなるわけではない。結界で蓋をしてしまう以外に、有効な対処方法が存在していないのだ。

 ただ人を害するためだけに、無限に生成され続ける魔物。

 この世界にある歪みのひとつを、目の前に突きつけられたかのような気分だった。


「まあ魔物にも例外はあるけれどね」ティグが言った。「たとえば先に侵入した魔鳥だが、奴のように肉体を持つ魔物も稀に存在する。大抵は、その手の魔物のほうが厄介だな」

「なるほど。じゃあ、金狼とかもその一種なわけだ」

 ――口が滑った。

 と、そう思ったのは言い切ってしまった後だった。

 案の定、ティグは不審げに眉を顰める。

「君の口から、金狼などと言う言葉が出るのは意外だったな」

「そ、そうかな……?」

「金狼はまた別だ。かの存在は神獣だからね。魔物より遥かに上の次元にある生物だ」

「……神獣って?」

「金狼を知っていて、神獣を知らないのか君は。わけがわからんな」

「なにぶん、無職の迷子らしいので」

「……神獣は、言葉通り神の獣だ。金狼以外には、たとえば竜種や鬼種、不死鳥や銀狐などが含まれる。どれも皆、人間より遥かに強力な神の力を所持している。たとえ僕でも、一対一では敵わないだろう」

「そんなにか?」

「ああ。金狼が一体いれば、この街を滅ぼすのには充分すぎるな」

 ――もっとも、かの獣は温厚な性格をしていると聞くが。

 そう結ぶティグだったが、一方で迅の顔は青い。

「……聞かなきゃよかった」

 本気でそう思った。不穏すぎる。

 というか、あの森で遭ったのがそこまで規格外の存在だったとは。戦慄が隠せない。

「まあ、普通は一生あっても、そうそう神獣に遭遇したりはしないさ。そう怖れることはない。むしろ金狼は、聖一教では神聖な獣として崇められているくらいだ。もし逢えれば幸運があると聞く」

「それ絶対に嘘だと思うよ……」

 そう呟いてから、迅は暗くなった気分を振り払って言う。

 ひらひらとティグに手を振って、

「ま、教えてくれてありがとな」

「構わない。常識の範疇だ。君もそのうち思い出すだろう」

「だといいね」肩を竦めて迅。「ところで、ついでにもうひとつ訊いてもいいかな?」

「……なんだ?」

 すっと視線を向けてくるティグに、軽い感じで迅は問う。


「――外で昼食べてこようと思うんだけど、どっかオススメの店とかある?」


 ティグはしばし、なぜか呆気にとられたような表情をした。

 それから少し考え込むようにして、やがて答える。

「大通りの中心辺りを、少し東に移った路地にある《虹雲亭にじぐもてい》には、よく通わせてもらっている。穴場なんだ」

「さんきゅ。迷わなきゃ行ってみるよ」

「あの店で出される仔羊のシチューは逸品だ。試してみるといい」

「仔羊のシチューな。オーケー。んじゃまた」

 それだけ答えて、迅はティグと別れた。

 すれ違う際、その身長の差に少し落ち込みつつ、迅はてくてくと歩いていく。

 特に振り返ることはしなかった。頭はすでに、昼食のメニューにシフトしている。

 だから。


 その背中へ睨むように刺さるティグの視線に、迅はついぞ気づくことがなかった。

 彼はそのまま迅が廊下の角を折れるまで見送り続け、それからさらに一分近くを廊下に立ったまま費やした。

 それからふと、何かを決心したような声音で呟く。


「――少し、森を覗きにいくべきかもしれないな」



     ※



 活気に溢れる昼の街を、迅は悠然と進んでいく。

 あれだけの事件があったというのに、市場の人通りには現象というものがなかった。むしろ人波は日を増すごとに増えていくようでさえある。

 近々開催されるという《十字祭》に合わせ、遠方から続々と人が押し寄せているらしい。

 ――確かに。

 オルズ教とやらがコト(、、)を起こすには、相応しい舞台と言えるのかもしれなかった。


「……ま、俺には関係ないことだ」

 どこか言い聞かせるような口調で、迅はそうぽつりと零す。

 喧騒の中、その言葉を聞いている者はいない。街行く人々は皆、活力に満ちて騒がしい。それはいくら魔物が侵入しようと、自分たちに危険が至るとはまるで考えていないからだろう。

 それを騎士団への信頼と取るか、それとも危機意識の欠如と見るかは難しい部分だった。

 さておき。特に迷うこともなく、迅は《虹雲亭》に辿り着いた。

 それが本当に虹雲亭なのかはいまいち自信がない――なぜなら看板の字が読めないから――のだが、そこに描かれている絵が虹の架かった雲なのだから、まあ十中八九間違いあるまい。

 あとは金銭だが、これはナナから貰った分がまだほとんど残っている。その価値がどれほどのなのか、未だに把握していない迅だったし、どころか相場さえわかっていないのだが、まあなんとでもなるだろうと、割と楽観的に考えていた。


 からり、と入口の扉を押し、迅は虹雲亭に入る。

 そこそこ繁盛しているようだ。まあ時間も昼真っただ中だし、この時間に空いているようでは商売としていささか問題だろう。

 とはいえ、これだとあまり穴場という感じではない。

 きょろきょろと店内を見回していたところで、奥から店員らしい女性の声が届く。

 おそらくは迅より少し下程度の少女だ。この店の娘なのだろうか。橙色の髪が活発なイメージで、まさに看板娘といった感じだ。


「いらっしゃいませ! 申しわけありません、ただいまほぼ満席でして、相席でもよろしいですか?」

「構いませんよー」


 と迅は言う。

 待たされないだけラッキーだ。飲食店で待つということが、迅はあまり好きじゃなかった。

 冬火なんかは、逆に行列のできる店のほうが信頼できる、という考え方らしいが。

「では、そちらの席にお願いします」

 と、橙髪の店員が、迅を奥の席へと促した。

 それに従って、迅は店の端にある二人掛けのテーブル席へ向かう。

 そして、

「…………」

 ちょっと無言になった。

 先に座っていたのは、フードを頭まですっぽり被った、ローブ姿の不審な人物だった。

 なんだかものすごく一心不乱に――おそらくは礼のシチューだろう――器の料理を掻き込んでいる。

 一瞬、迅は先日の不審なローブ男を思い出して警戒した。

 とはいえ冷静に考えれば、下手人がこんなところで無警戒に食事をしているわけがない。それによく見てみれば、身長があの男よりかなり低い。座っているため概算だが、おそらく迅より頭ひとつ分は小さいだろう。子どもか、あるいは女性のように思われた。

 まあ、いかに不審とはいえ、あまりじろじろと眺めるのも失礼だろう。

 さっと視線を逸らしたところで、店員に声をかけられた。

「ご注文はお決まりですか?」

 太陽みたいな営業スマイルで、橙髪の店員が言う。

 ローブの不審者より、こちらを見ていたほうが遥かに有意義だろう。

 などとどちらにも失礼なことを考えながら迅は言う。

「えっと、仔羊のシチューあります?」

 店員は眉尻を下げた。

「……ごめんなさい。昼の分はもう全部出ちゃったんです」

「あ、そうなんですか」

「ええ」言いながら、少女はちらと視線をローブの不審者に落とす。「そちらのお客様が、七杯ほど注文されたので」

「七杯て」

 思わず突っ込んでしまう迅だった。どう考えても食べ過ぎだ。

 迅は目線をローブの客へと戻す。視線に気づいたのか、ローブの不審者が少しだけ顔を上げ、

「――そっ、そんなに見たってあげないからね……?」

 鈴が鳴るように透明な、少女の声だった。聞いているだけで気持ちのいい声だ。

 とはいえ、それもここまで食い意地の張った部分を見せられては、さすがに感動も薄れてしまう。

 ――何言ってんだ、こいつは。

 若干、口元を引き攣らせつつも迅は答えた。

「いや要らないけど」

「え、要らないの? こんなに美味しいのに」

「そうだね。美味しそうだね」

「はっ――やっぱり狙ってる!?」

「話聞いて」

 目元を隠したままの少女に、思わず突っ込みを入れてしまう。

 横合いで、店員の子が思い切り吹き出していた。

 迅は苦笑いをしながら、さてじゃあ何を頼もうかと壁に貼られたメニューらしきものを眺め、眺めたところでわからないと気づき――


「――って、ああっ! ジン!?」


「え――?」

 いきなり名前を呼ばれて、迅は盛大に驚愕した。

 なぜこの不審者は、自分の名前を知っているのだろう。そういう魔法があるのだろうか。

 そんな的外れな思考を一瞬だけ働かせる迅だったが、すぐに思い至った。

 その声に、聞き覚えがあるという事実に。

 そう――その声を、迅が忘れるはずがないのだ。

 迅は言う。


「お前……、もしかして」

「ジン! やっぱりジンだ!」


 ローブの少女が顔を上げる。

 陰になっていた顔の奥に、忘れるはずのない白い髪がわずかに覗けた。

 ひとたび気づいてしまえば、すぐにわからなかったことのほうが不思議なくらい印象的な声と髪。

 あの森で別れて以来、久々の再会となる少女。


 ――ナナの姿が、そこにはあった。

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