1-11『聖一教』
その後たっぷり一時間ほど、迅は冬火からのありがたいお説教を拝聴した。
途中からは、もはや同じやり取りのループだった。
「迅のばか」
「はい、すみませんでした」
「もうしないで」
「はい、二度といたしません」
「次に勝手に無茶したら、今度は絶対に許さないから」
「はい、もう決して冬火さんに心配はかけません」
「迅のばか」
「……はい」
延々と終わらない冬火の責め。普段の迅なら五分と待たずに逃げ出しているところだが、今回ばかりは分が悪い。体はまだなまっているし、何より冬火の心を乱したという強い負い目があった。
地球にいた頃の冬火なら、何もここまで取り乱すことはなかっただろうと迅は思う。
だがこの世界に来てからというもの、彼女はどこか不安定になっている。長い付き合いだ。その変化が、迅にははっきりとわかっていた。
迅は誰よりも知っている。冬火が抱える心の傷を。
幼い頃、死別という形で家族を亡くし、ひとり施設に預けられた少女。それが彼女だ。
だからこそ冬火は、身近な人間を喪うことを、きっと誰よりも怖れている。
その傷はこの異世界において、再び顕在化してしまった。
その責任が、自分にあると迅は考える。
――癒えたはずの古傷を、再び抉ってしまったのではないか。
それが、迅の抱えている負い目だ。反駁も逃走も、できるはずがない。
とはいえ冬火自身、性格的にそこまで弱みを見せるタイプではない。
それがいいことかどうかはともかくとして、ある程度の発散さえすれば、あとは自力で持ち直せるだけの強さが彼女にはあった。
というわけで、後半は明らかにただ迅が罵倒され続けるだけの展開になってしまったわけだが。
反抗を封じられた迅は、甘んじてそれを受けるほかなかった。
あるいはそれは冬火にとって、ただの照れ隠しであったのかもしれないのだから。
「……というほど、可愛げのある感じじゃなかったけどなあ……」
互いに落ち着きを取り戻したところで、ようやく迅は茶化すようにそう呟いた。
冬火はわずかに赤らんだ顔で、迅を睨むようにして小さく返す。
「何よ。文句あるわけ?」
「文句はないけど……」
というか、それを言う気力がないというか。
あまりにも長くネチネチと苛まれ続け、もはや迅にはただの気疲れしか残っていなかった。
普段はどちらかというと、物事を直截的に言う性格の冬火だが、その本質はずいぶんとねちっこい。
そんな彼女から長い罵倒を受け、迅は途中から、半ば本気で落ち込んでしまっていた。
そんな感じで、若干拗ね気味の迅である。
冬火としてもさすがに言い過ぎたと思っているのか、唇は尖らせているものの、何かを言ってくることはなかった。
もっとも、この程度ならばまだ、二人にとってはじゃれ合いの範疇でしかないのだが。
あとはここに楽が加われば、迅にとっての日常が完成する。
だからこそ、もう一人の幼馴染みの不在が、迅に色濃い影を落とすのだった。
――と、そのときだ。
部屋の扉を、こんこんと軽く叩く音が飛び込んできた。
ノックの音に意識を呼ばれ、迅は「あ、はい。どうぞ!」と咄嗟に叫ぶ。
その声に促されるように、
「――失礼します」
と、折り目正しい女性の声が部屋の中へと飛び込んできた。
次いでゆっくりと扉が開かれ、
「お体の調子は、もうずいぶんとよろしいようですね」
そんな慇懃な言葉とともに、ひとりの女性が廊下から姿を現した。
その女性の装いを見て、思わず迅は感嘆の溜息を零してしまう。
「おおぉ……メイドさんだ」
白を基調とした、瀟洒でありながら機能的なエプロンドレス。どこか上品な雰囲気を纏いながらも、決して主張しすぎない穏やかな清潔感に溢れた趣味のいい出で立ち。
それはどこからどう見ても、いわゆるひとつの、《メイド服》というものであった。
地球では、それこそコスプレくらいでしか見られない格好だ。だが、偽物に特有の陳腐な雰囲気が、彼女にはまるで見られない。
ひと目見るだけで、彼女が本物の《メイド》であることを周囲に知らしめる、それは完璧な姿であった。
メイドと言えば、それは男子にとって永遠の憧れであると言って過言ではない。
いや、そんなことを声高に主張するほど、迅はメイドというものに執着を持ってはいなかったはずなのだが。
さすがにこうも見事な、本物のメイドさんを目の当たりにしては、迅としても興奮と感動が隠せない。
そのせいで、冬火の機嫌が、またしても地の底まで落ちていったのだが。
それに気づかないほどに、迅の驚愕は大きかった。
「すげえ……本物だ」
まるで有名人にでも遭遇したかのような、聞きようによっては失礼ですらある言葉を迅は吐く。
けれど、さすがにプロのメイド。迅の奇妙な反応を、現れたメイドはあっさりと受け入れて頷いた。
「はい、メイドです。自己紹介をさせていただいてもよろしいですか?」
「え? あ、はい。どうぞ」
きびきびとしたメイドの言葉に、ちょっと押されながらも迅は頷く。
メイドは言った。
「私はアルナ=ミテウ。このたびはジン様が療養するまで数日間の奉仕役を、ネイアリア様より仰せつかりました」
まったく表情の動かないメイドだった。口調は硬いのだが、にもかからわず決して無礼には聞こえないという、なんだか神がかり的なバランスの上に立つ声音をしている。
年の頃は、おそらくだが迅たちと同年代程度だろう。だがさすがにプロのメイド、雰囲気が大人びているため、なんだか年上のように思えてしまう。冬火に至ってはちょっと落ち込むくらいのものだ。
もっとも迅は、そんなことをまるで気にしていなかった。
「……奉仕役」
なんと甘美な響きであるか。思わずといった風に、ごくりと生唾を飲み込む迅。
馬鹿だった。
意にも介さずメイド――アルナは頷く。
「はい。御用があれば、なんなりとお申しつけください」
「は――はい」
脳裡をよぎった、あまりにも下らない邪念を振り払いながら迅は頷く。
もっとも、それは隣にいる冬火には全て筒抜けだったのだが、ここまで来ると怒りより呆れが先に立つ。
――アホらし。
冬火の、それがまったく適切な感想だった。
果たしてアルナ自身は、そんな思惑をわかっているのかいないのか。定かにならないまま、彼女は言葉を続けていく。
「ただ私は、このウェアルルアに仕えるメイドというわけではありません。ですから至らない点もあるかと存じますが、ご容赦いだたきたくお願い申し上げます」
「……うん?」
言われた意味がわからずに、迅はきょとんと首を傾げた。
それに呆れの溜息を零しながら、代わりに冬火がアルナに問う。
「えっと……つまり、アルナさんは、この屋敷で働いている方じゃないってことですか?」
「はい、その通りです、トウカ様」
「トウカ様……」
様づけで呼ばれたことに、冬火は少し照れていた。彼女もなんだかんだ庶民である。
その辺りはまったく意に介さず、アルナは説明の言葉を続ける。
「今回は、私の主がウェアルルア様に招待されたため、それに付き添う形での来訪ということになります。立ち位置としては一応、お二人と同じく《客分》ということになりますか」
「え……? なら、どうしてわざわざこいつの世話を?」
あえて迅を《こいつ》と表しながらも、冬火は当然の疑問を訊ねた。
その疑問は迅としても同じだ。
だいたい、いきなりメイドに「世話をします」と言われても、「はいそうですか」と簡単に受け入れるのはなかなか難しいものがある。日本人的というか小市民的というか、ともあれその辺り迅は不器用だった。
果たして、アルナは端的に答える。
「――ジン様」
「え? あ、はい?」
「ネイアリア様からのご依頼で、もしも望まれる場合は、滞在の期間中に主と私で、ジン様がご自身の魔力を制御できるようご指導する用意がございます」
「えっと……つまり」
「はい。ですから奉仕役、世話役というよりは、むしろ指南役と申し上げるほうが近いかもしれません」
相変らず、微塵も笑顔を見せないアルナ。
その固い表情のまま、ただ淡々と彼女は迅に言った。
「――主と私は、魔法使いなのです」
※
それから、およそ十分後。迅は、屋敷の中庭で空を眺めていた。
その隣には冬火の姿。迅に付き添うためだけに、仕事は休みをもらったのだとか。
視界を埋めるのは、晴れがましく澄んだ空の青色。この国は今、春の季節なのだろうか。わからなかったが、体感としては日本の春に近しい陽気だ。
「これからどうなるのかなあ……」
誰に訊くでもなく呟く。別に、答えを期待した言葉ではない。
反応は、けれど冬火が返してくれた。
「そんなこと知らないけど。どうなるかじゃなくて、どうするかじゃないの」
「へえ……。いいこと言うね、冬火」
「茶化さないで。しっかりしてよ、迅。帰る方法どころか、まだ楽だって見つかってないのに」
「あー。なんかもう、わけわかんなくなってきちゃってさ……」
「……迅」
「いや、別に腐ってるわけじゃないよ」
心配したように声音を落とす冬火。それに、迅は首を振って答えた。
「……どうするか、か。とりあえずアルナさんと、その雇い主さん? から魔法を習って、それで……」
――それで。
それからどうすればいいのだろう。
あの部屋で、メイドのアルナから提案された魔法の指南。
迅は、それを望むと答えていた。
この世界を生きる以上、魔法の力は必要だろう。あるいは地球に帰るにしても、そのすべを模索するためには、魔法を知ることがほとんど必須条件に等しかった。
もちろん迅個人としても、魔法を使うたびに死にかけるなんて御免である。
アルナがもたらしてくれた提案は、渡りに船と言ってよかった。
とりあえず魔法の勉強は明日からとして、今日一日は自由に療養しているようアルナに言われた。
元より逆らうつもりもないのだが、アルナに言われると、なんだか命令されているような気分になってしまう。
――とことん小市民だよなあ。
なんて、自嘲さえ覚えるのだから始末に負えない。
こんな自分が。
本当に、この世界で目的を果たすことなど、できるのだろうか――。
「――ん。二人とも、こんなところにいたのか」
ふと届いた声が、暗い方向に沈んでいた迅の思考を引き戻した。
中庭を進んでくる人影。ネイアだった。
「アルナとは挨拶をしたかい?」
ネイアの問いに、それまでの考えを振り払って迅は答える。
「ああ。なんだか剣呑な人だったね。ちょっと怖かったよ」
「優秀なメイドなんだがね。できるなら、当家に欲しいくらいさ」
「ここの人じゃないんだって?」
と、これは冬火が訊ねる。ネイアは頷き、
「ああ。もうすぐ祭りがあるからね、それまで逗留してもらうつもりなのさ。本来は客人だから、ジンの世話役を頼むのは筋違いなんだが……」
「ならどうして?」
「彼女のほうから――正確には、その主からだけどね。向こうから申し出があったのさ。理由はわからないけれどね。なんだか最近は、弟子の育成にご執心らしい」
「ふうん……」
よくわからないので、適当に相槌を打つ迅だった。
ネイアは苦笑し、重ねるように説明を増やす。
「魔法使いは、基本的に弟子を取るものだよ。彼女の主は変わり者で通っているが――」そこそこ失礼なことを平然と言うネイアだった。「まあ、是非にと言われてはね。断るほうが失礼だろう」
「……アルナさんの主って、どんな人なんだ?」
「歴史家だよ。単純に言えばね」
ネイアの答えだけでは正直、何もわかってないに等しかったのだが、迅はやはり「ふうん」と言うだけに留めた。
いずれ顔を合わせることもあるだろう。話をするのは、そのときでも遅くない。
考えたのは、それくらいのものだ。興味がなかったとも言える。
というわけで、迅はさらりと話題を変えた。
「そういえば、近い内にお祭りがあるんだって?」
「――《十字祭》、といってね。年に一度行われる、聖一教の祭典があるのさ」
ネイアはぴん、と指を立てて解説する。
迅は首を傾げて問うた。
「聖一教って?」
「……そんなことまで覚えていないのか」
驚愕、というよりはもはや戦慄といった表情を浮かべてネイアは言う。
まずいことを言っただろうか、と一瞬だけ慌てる迅だったが、
「トウカといい、まったく《無色の迷子》というものは大変な事態だね」
「…………」そういえば、そんな設定だった。
そう、思い出して安堵する。記憶がないのと知識がないのとでは別だが、結果的には似たようなものだ。
異世界から来た、などと言って信じる人間はそういないだろう。もうしばらく、その設定を借りておこうと思う迅だった。
「聖一教会のことは、知らないでは済まされないからね。せっかくだ、説明しておこうか」
ネイアが言う。願ってもない言葉だ。
「そうだね、お願いするよ」
そう頼むと、「では」とネイアはひとつ咳払いをして。
それから、厳かに語り始めた。
この世界の、古い歴史の物語を。
「――創世の時代。この世界を創り給いし、七柱の神がいたという」
「なんだ、それ。神話か?」
「いや、歴史さ。これは事実だよ。――少なくとも、そういうことになっている」
「神が実在しているって?」
「もちろん。魔法だって、巫女だって、神の力を分け与えられているから存在するんだ」
「……」
「そうでなければ、人が魔法の力を行使することなんてできないさ。魔法はね、ジン。神の力の、ほんの一部を借りているに過ぎないのさ」
「なるほど……」
と、迅は呟いた。実感としてはともかく、理屈の上では納得できる。
確かに、魔法なんて超常が存在するのなら、神がいてもおかしくないような気はする。
何より異世界だ。魔法があって、魔物がいて、それで神様がいないと考える根拠はないように思えた。
平均的な日本人らしい信仰意識の薄さが、むしろそれを迅に信じさせたのかもしれない。
「七柱の神は人を創るとき、それぞれが持つ《美徳》を人類に分け与えた。――すなわち《節制》《救恤》《勤勉》《純潔》《謙譲》《忍耐》《慈悲》の七美徳だ。本来は不完全な人類が、この世界に意思を持って存在することを許されているのは、この美徳を備えている唯一の生物だからなのさ」
「七つの美徳……ね」
「ああ。ただし、それでも人類は不完全だった。美徳は時に反転し悪徳となる。《暴食》《強欲》《怠惰》《色欲》《傲慢》《嫉妬》《憤怒》――七つの大罪を、人類は同時に抱えてしまった」
節制の意志は暴食の渇望に。
救恤の真心は強欲の発露に。
勤勉の意識は怠惰の欲求に。
純潔の遵守は色欲の坩堝に。
謙譲の精神は傲慢の引鉄に。
忍耐の強度は嫉妬の発生に。
慈悲の一念は憤怒の暴走に。
美徳は反転し、大罪と化す。
「そうならないように――反転を抑制し、人類が正しい道へと歩めるように――七柱の神々は七つの戒律を築き、それを人々へと教える組織が、当時の人類の中でそれぞれの美徳を最も強く持つ七人の巫女によって創設された」
――それが、聖一教。
神聖にして唯一の、絶対なる教えの導き手だ。
「なんだかまあ、壮大な話だね」
「おいおい、ずいぶんと他人事みたいに言うじゃないか、ジン」
話の規模に呆れすら覚える迅だったが、ネイアは釘を刺すように言う。
――これはトウカにも言ったことだけどね。
そう前置きし、ネイアは真剣な面持ちで告げる。
「聖一教の教えは絶対だ。たとえ貴族であれ、聖一教会には絶対に逆らえない。いや、逆らっちゃいけないんだ」
「…………」
「まあ、今すぐ信じろ、というほうが難しいかもしれないけれどね。けれどジン、何を忘れても、これだけは覚えておいてほしい」
「……聞くよ」
「――たとえ貴族に逆らっても、聖一教にだけは絶対に逆らっちゃいけない」
ネイアの声音は、どこか身を切るようでさえあった。
迅は無言で、頷きさえ返さない。
ネイアもまた、迅の返事は待たなかった。
「それはすなわち、この世界で生きていく権利を放棄する、という意味なのだから」
――そして。
それでも迅は、何も言葉を返さなかった。
別段、ネイアの言葉に逆らおうと思ったわけじゃない。信仰に対するこだわりなんて、迅は持ち合わせていないのだから。
逆らってはいけないというのなら、まあ逆らわないようにしておこう。
そう考えることに、迅はまったくと言っていいほど抵抗を感じはしなかった。
ではなぜ、迅は言葉を返さなかったのか。
それはきっと、そう言うネイア自身がいちばん、その言葉を信じていないようだったからだ。
少なくとも、迅には、そう見えた。
※
仕事がまだ残っているから。と、そう言って辞したネイアを見送ってから。
迅は、ぽつりと冬火にこう訊ねた。
「――なんか、すげえ臭くないか?」
「……特に何も臭わないけど」
「茶化すなよ」と迅は苦笑。「聖一教とやらのことだ。神聖にして唯一なる絶対の宗教、ね……。その表現に違和感があるのは、俺が日本人だからか?」
「百パーセント」
と、冬火はそんなことを言った。
首を傾げる迅に、彼女は淡々と問いを発する。
「この数字が、何を意味してるかわかる?」
「……さあ?」
答えもまた端的だった。
「この世界の人口に対する、聖一教徒の割合。ま、あくまで教会の公式見解らしいけどね」
それは、はっきり言ってしまえば。
「……気持ち悪いな。寒気がする。マジかよ」
「嘘よ」
「おい」
「ううん、公式見解なのは本当。なぜなら教会にとって、聖一教を信仰していない存在なんて、そんなモノは人間じゃないんだから」
「――……」
「聖一教の戒律を守らない、ということは、すなわち美徳を棄てること――人間であることをやめるということになってる。ネイアが言ってたのはそういうこと。扱いとしては魔物といっしょね。――つまり、退治の対象にされたところで、なんの文句も言えないのよ」
――まあ、そんなことになっちゃう人なんて、ほとんどいないらしいけどね。
そう冬火は補足したが、そんなことはなんの慰めにもならなかった。
ほとんどいない、ということは、わずかながら存在するということと同義なのだから。
聖一教に《人間ではない》と見做されて、殺害、いや――退治された存在が。
「実際の信徒数は、だいたい九十八パーセントくらいって言われてる。どっちにしろ異常ではあると思うけど、まあそんなこと言っても仕方ないし。ていうか関係ないから」
「……じゅうぶん気持ち悪いけどな。ちなみに、残りの二パーセントは?」
問いに、少しの間を開けてから、冬火は答えた。
「――《オルズ教》の信徒数、って言われてる」
「……オルズ教?」
「正式には、《オルズィリーレ教》。太古の昔に封印されたという、《魔王》を信仰している邪教……なんだってさ」
「この世界にはそんなのしかないのか……」
呆れを籠めて呟く迅だったが、冬火の反応は冷淡だった。
「言っとくけど、そういうこと軽々しく口にしないほうがいいわよ」
なにせ、
「この世界の九十八パーセントの人間が――もちろんネイアだって含めて――聖一教の信徒なんだから。どこで誰が聞いてるかなんて、わかったものじゃないからね?」
※
とはいえ、冬火だって油断はしていたのだろう。
そうでないのなら、迅が口火を切った時点で、冬火は彼の言葉を止めるべきだった。
そう、彼女にとってすら、それは想像の埒外だったのだ。
その会話を、ウェアルルアの屋敷の中から本当に聞いている存在があったことは。
その誰か――すなわち、メイドのアルナ=ミテウは、迅と冬火の会話を聞いて、しかし微塵も表情を動かしてはいなかった。
常と変らない鉄面皮。それは意識してのことではなく、彼女はそもそも表情を作ることが大の苦手だったのだ。
もっともそれを知るのは、それこそ彼女の主人くらいのものだったが。
とはいえ。あるいは、だからこそ。
異世界人二人の会話を聞いて、果たしてアルナが何を考えていたのか――。
それは、彼女自身にしかわからないことだった。