1-09『騎士と、巫女と、魔法使い』
正直なところ。迅は、どうして魔物に飛び出していったのか、自分でもさっぱりわかっていなかった。
確かにこの状況で逃げたところで、絶対に安全だなどとは言い切れない。
いや、そもそもこの世界に安全な場所など存在するのだろうか。絶対の安全なんて、そんなものは地球にだって存在していなかった。おぼろげな輪郭だけが見える、仮初めの安心に浸っていただけだ。
とはいえ、だからといって魔物に特攻する馬鹿はないだろう。
明らかに危険とわかる死地へ、自ら向かっていく理由など迅は持ち得ないはずだった。
せっかく知り合ったネイアを助けたいからか。それとも実戦を経験して、この世界で生き抜く力を得たいからか――。
あり得ない。その程度の理由で命を賭けるほど、迅は自らを過信してはいなかったはずだ。
明星迅という人間が、この世界においてどれほどの弱者であるのか。
そのことを、迅はあの森で学んだはずだはなかったのか。
「あーあ。何をやってんだろうなあ、俺は」
魔物へと駆ける最中、迅は自嘲するようにそう零した。
結局、いくら考えても、自分の中に答えを見つけることができなかった。
けれど、どうしてだろう。格好つけて飛び出した自分を、後悔してもいなかったのだ。
悔恨はなく、どころか恐怖さえ見つからない。
――戦え。勝て。敵を殺せ――。
そんな声が、背中を押しているような気がした。
逃げてばかりでは生き残れない。敵は殺せ。殲滅し尽くせ。
それが、生きるということなのだから――。
「…………」
地面に転がっていた瓦礫の欠片を、迅はおもむろに右手で拾い上げた。
いつか見た土鍋の破片に、それは似ている気がした。
一瞬にも満たない逡巡を経てから、迅はまるで野球のピッチャーのように右手を振り被り、
「――お……らあ!」
瓦礫を、魔物へと思い切り投げつけた。
でたらめな、筋力だけに頼りきった投擲は、しかしプロの野球投手が投げるそれ以上の勢いを得てギャバ鳥へと向かっていく。
コントロールは十全。速度も万全。
魔法の力を得た一投は、いつか見たナナの風の弾丸にさえ劣らぬ勢いで飛んでいき、魔物の横っ面へと痛烈に直撃した。
「――――――――!?」
つんざくような、意味不明の唸りを上げるギャバ鳥。
それは迅の一撃が、魔物にとって脅威たり得たことを示す反応だった。
そのことにいちばん驚いたのは、他でもなく迅である。
「今の……」
呆然と迅は自らの右手を見やる。
今の迅は、魔力によって身体能力の全てが向上している。だが、ただ速いだけの一投では、この魔物には傷ひとつつけられない。だからこそ、街の騎士団が苦戦しているのだから。
ふと迅は、冬火から聞いた《属性》という概念のことを思い出す。同時に、自らがこの世界へと訪れた原因のことも。
そして刹那、迅は悟った。
推理と呼ぶには確証に乏しく、けれど確信にも等しい明確な解答。
迅は思わず右手を握った。その前方には猛り狂ったギャバ鳥の姿がある。先程の投石を脅威と見做した魔物は、騎士団よりも先に迅を敵と定めたらしい。
その事実に、
「――――、はっ」
迅は知らず、笑っていた。
好都合だ。元より自分は、囮役を買って出たのだから。向こうから来てくれるのなら、それに勝る幸運などない。
狂気じみた怒りに身を委ねるギャバ鳥。
その醜態を、迅はもはや見てさえもいなかった。
ただ、静かに片手を地面につく。
迅は確信していた。
魔法の属性。
自らのそれが、《地》に由来するものであると。
そして、次の瞬間――、
迅が流し込んだ魔力の勢いで、地面が勢いよく隆起した。
それは通りの真ん中に、突如として小さな鋼鉄の城壁が出現したようなものだった。
土が、小石が、煉瓦や鉱物に至るまで、《地》に属すあらゆる概念が、迅を守護する盾へと変化する。
その魔法は、点数をつけるなら落第点だ。要するに点などつけられない。
術式も何もなく、ただ強大な魔力を流し込むことで強引に地を操っただけ。魔法と呼ぶには些か以上にお粗末が過ぎ、とても褒められたものではない。
それでも、それがこの世界の魔法における第一段階。《属性操作》と呼ばれる行為であることには変わりはない。
――地属性の魔法使い。
地面を、ヒトの立つ世界そのものを操作、支配する魔力属性。
それが、明星迅の持つ魂の色だった。
先程の投石が、なぜ魔物の防御力を貫くことができたのか。
簡単だ。それだけの魔力を、迅が瓦礫に籠めていたからに他ならない。
魔力による防御を破れるのは、同じ魔力しかあり得ないのだから。
迅が作り出した防壁に、ギャバ鳥は正面から激突した。地面と繋がる壁が強烈に振動し、その衝撃は街中へと響き渡っていく。
その衝撃で、迅の作った防壁に罅が入った。それは中央を縦に、真っ二つに割るように走り、迅の防壁を砕き散らす。
元より乱雑な魔法だ。勢いだけで為した魔法は、その硬度を長く維持することができなかった。呆気なく崩壊した壁の後ろで、けれど迅は、無傷のままで立っている。
それは世の魔法使いたちが見れば、卒倒しかねないほどの異常さを孕んだ光景だった。事実、騎士団に所属している幾人かの魔法使いたちは、通りの向こうで目を真ん丸に剥いている。
そんな周囲の様子に気づく余裕など、今の迅には存在しない。崩壊した壁の向こうに、迅はただ魔物の姿だけを捉えている。
ギャバ鳥の肉体の、首から上はぐちゃぐちゃだった。激突の衝撃で嘴が潰れ、どころか顔の半分までが爆ぜたみたいに潰れていたのだ。周囲にはびちゃびちゃとした肉片が飛び散り、汚い斑点を地面に描いている。
そんな惨状を、迅は冷静に眺めていた。
自分が次にどうすればいいのか、それが手に取るようにわかっている。
地面に片手を下ろしたまま、次なる魔法を迅は準備した。
先程の魔法は、ただ触れていた地面を盛り上げただけのものだ。安易で、粗雑で、何より攻撃力に欠けていた。
ならば、
「――今度は、棘の山だ」
呟くのと同時、迅は魔力を地面に流した。
イメージするのは、罪人を突き刺す地獄の剣山だ。地面から生える棘の山。
そのイメージを、迅は魔力で創造する。
果たして。
――――ごっ、
という音とともに、迅の魔力に呼応した地面が、棘となって上向きに突き出した。
横たわるギャバ鳥の腹の下から、一斉に飛び出した五本の針山は、そのままギャバ鳥の前身を串刺しにして貫いていく。抵抗なんて微塵も感じさせないほど、その針の硬度は常軌を逸していた。
それこそ地獄のように凄惨な光景に、けれど迅の心は動かない。
ただ不満だけがあった。
――この程度では全然足りない。魔物を滅ぼすにはまったく至らない。
比較したのは、ナナが使っていた風の魔法だ。
見惚れるほど素晴らしいあの魔法に比べ、自らのそれがいかに粗末なものであるか。
――ああ、下手くそめ。
彼女ならきっと、一撃で全てを終わらせていただろうに――。
そんなことを本気で考えている迅自身が、この場で最も異常な存在であるとは、気づかないままに。
全身を串刺しにされたギャバ鳥は、もはやただの肉片でしかなかった。
びちびちと。飛び散った肉塊が蠢いてはまた集まり始める。生理的な嫌悪を否応なく掻き立てる再生の過程。歴戦の戦士ですら、吐き気を催すような光景だ。
それに、迅は眉ひとつ動かさない。
――これでしばらくは再生しないだろう。
と、ただそれだけのことを考えていた。
そのときだ。ふと、どこからか声が飛んできた。
「――おい! 呆けてるんじゃねえ、逃げろ! まだもう一体いるんだぞ!!」
きっと声自体は、先程からずっとかけられていたのだろう。ただそれに気づく余裕を、迅が持ち合わせていなかっただけで。
だから。
その事態に反応することが、迅にできるはずもなかった。
「ぐ――!?」
突如として、視界に映る景色が目まぐるしく移り変っていく。周りの建物が横向きに倒れ、次の瞬間には景色がどんどん空へと飛んでいった。
右腕が、みしり、と悲鳴のような音を立てるのが聞こえた。
それで気づく。自分の身体が、もう一体のギャバ鳥の足に捕らわれ、上空に連れられたということに。
そこから一瞬遅れて、
「ぎ――がっ、ああああああああ!?」
喉から漏れ出た絶叫を、耳だけが冷静に捉えていた。
内臓の中身がせり上がってくるような浮遊感と、それを塗り潰さんばかりの激痛を感じる迅。その一方で、
――ああ、右腕が折れたみたいだ。
と、どこか冷静に現状を把握している自分もいる。その客観的な間抜けさが、なんだかとても滑稽だった。
当たり前といえば、当たり前の話なのかもしれない。いかに迅の出力が高かろうと、素人であることに変わりはないのだから。周囲を警戒できるほどの余裕などあるわけもなく、ゆえに迅はあっさりと空中に連れ去られてしまう。
ギャバ鳥は迅の身体を、真っ二つにねじり切らんばかりの力強さで握り締めていた。それに辛うじてでも耐えられているのは、ひとえにナナから習った身体強化のお陰だろう。
――またしても、ナナに助けてもらったらしい。
状況も考えず迅は自嘲する。その間にもギャバ鳥はぐんぐんと屋根を超え、空高くへと舞っていく。
いかに膂力が上がったとはいえ、この高さから落とされては、潰れたトマト化は免れまい。
手詰まりだった。
今の迅に使えるのは、地面を動かす魔法だけ。支配する《地》のない空中で、魔物に抗うすべなどない。
だが、諦めようとは思わなかった。
無謀など初めから承知だった。ならば無様でも最後まで足掻く。
――そうだ、死ぬわけにはいかないのだ。
冬火と楽を地球に返すまで、迅が死ぬことは許されない。そんなことは自分自身が許せない。
「…………」
そして。
そのときふと迅は、自分の腰の辺りに小さく刺すような痛みを感じた。右腕の痛みが強すぎて、それまでは気づけなかったほどわずかな痛みだ。
違和感があるのは、魔物の太い肢に握られている真下の部分だ。まるで、何かを上から押さえつけられているような感覚がある。
その正体を、迅は知っているはずだった。
それは硬貨だ。
別れ際、ナナが渡してくれたいくばくかのお金。それが体に押しつけられて、痛みになっているらしい。
硬貨とは即ち金属だ。そして金属とはつまり鉱物であり、
「……まさか、こんな形で役に立つとはね……」
要するに、地の属性へ当てはまる。
迅は痛みを押して、右手の指をゆっくりと動かした。
僥倖だ。どうやらまだ、指くらいは動かせるらしい。
それだけを確認して、迅はその指先をゆっくりと腰に提げた袋へ――その中の硬貨へと向ける。
持てる魔力の残り全てを、指先だけに集中させて。
迅は、笑って呟いた。
「――喰らえよ、バケモノ」
瞬間、硬貨がその形を針状に変え、弾けるように飛び出した。袋を貫き、その先の魔物目掛けて一直線に飛来する金属の弾丸。
それは魔物の眼を、喉を、翼の付け根を抉り裂いて飛んでいく。
堪え切れず、金切り声のような悲鳴を上げるギャバ鳥。痛みが、痛みが、痛みが。巨大な魔物を貫いて苛んだ。
不死身のような魔物でさえ、無視できないほどの甚大なダメージ。ギャバ鳥は全身を痛みに悶えさせ、
――そのまま、迅を宙へと放り飛ばした。
一瞬の停滞。それは感覚だけのもので、次の刹那、迅は地面目がけて真っ逆さまに落ちていく。
最後に報いた、文字通りの一矢。それと引き換えに、迅は地面へと墜落する。
それを止めることはもうできないだろう。奇跡は起きない。いや、むしろここまで迅が戦えた、そのことがすでに奇跡だった。
そんな彼の耳元に――、
「……?」
どこからか、柔らかな声がひとつ届いた。
風を切る音で侵された迅に、けれども伝わる少女の声音。まるで慈母のような温かさで、迅にひとつの言葉を告げる。
「――ありがとう、ジン」
それとほぼ同瞬、呆けた迅のその背中に、何かが当たった。地面ほど固くはなく、しかし決して優しくない抱擁。迅の全身がじわりと軋む。
痛みに顔を顰めた迅だが、すぐに気づく。
どうやら激突の寸前で、誰かに抱き留められたらしい。
生き残ったのだ。
だがそれを喜ぶよりも早く、自らを助けた者の正体よりも先に、迅は少女の姿を確認していた。
淡い水色の長髪に、苛烈な笑みを浮かべる少女。
それは、街を守護する巫女の姫。
ネイアリア=ウェアルルアの姿だった。
「君は紛れもなく騎士の器だ。この街を護った君の活躍に、応えられなければ嘘だろう」
獰猛な笑みを浮かべたまま、ネイアはすっと両手を挙げた。
その手の動きが、魔法を扱う者のそれであることを、今の迅は知っている。
果たして、ネイアが小さく呟く。
「上の一体は任せたよ、ティグ。わたしは下をやる」
「仰せのままに、姫」
その返答は迅の頭上から聞こえた。
つられるように顔を上げると、そこには若き騎士の顔。
自らを抱え――それもいわゆる《お姫さま抱っこ》の形で――なぜか憮然とした表情を見せる青年。
ティグエル=ホズミの、不機嫌そうな表情だ。
自身に向けられた視線に気づいたのだろう、ティグは硬い表情のまま迅に視線を落とすと、
「一旦降りてろ」
「え? ――な、」
頷く暇さえなく、ティグはぱっと手を離した。
当然、迅は重力に従い地面に落ちる。
「だっ!?」
石畳へしたたかに腰を強打し、思わず呻く迅。
助けてもらっておいてなんだが、もう少し優しく降ろしてくれてもいいだろうに。
思わず文句を言いかけた迅。だがその機先を制するように、ティグが小さく口を開いた。
「――助かった」
「は……?」
「俺の油断で招いた危機だ。本来なら、俺が稼ぐべき時間だった。――済まない」
「いや……え?」
予想だにしていなかった言葉に、迅は思い切り狼狽した。まさかこんな風にまっすぐな感謝を向けられるとは考えていなかったのだ。
言葉に詰まる迅を見下ろし、つまらなそうにティグは言う。
「だが、頼りっぱなしは癪だからな。ひとつ、証明させてもらうとするよ」
「証明……?」
「そうさ。汚名を返上し、名誉を挽回する。その力を、俺が持っているという証明だ」
――ああ、それとついでに――。
と、そこでティグは初めて、迅に笑みらしき表情を見せた。
それはどこか皮肉げで、無理に作ったような引き攣りのある笑みだったが。
騎士は言う。
「――君の力などなくても、俺ひとりで街を守れたという証明もしておくとするよ」
言葉と同時、ティグは腰の剣を抜き放った。
鋭い銀色に輝く騎士の剣。その輝きは即ち栄光の輝きであり、剣とはそのもの騎士の魂だ。
若き騎士は、自らの魂を頭上高くへと掲げる。
未だもがきながら、それでも宙を飛び続ける一体の魔物へと向けて。
騎士は、剣を振り下ろす。
「――――果てろ」
瞬間、信じられないほど莫大な量の魔力が、ティグの振るった剣から放たれたのを迅は感じた。
まるで光の渦を放つように。剣の一閃が描いた軌道を、魔力の乱気流が追っていく。神々しいまでの光の渦は、そのまま天高く突き進み、魔物の全身を覆い尽くした。
圧倒的な熱量。
それは魔物の全てを呑みこんで余りあるエネルギーの奔流だ。
ティグの剣から放たれた光は、文字通りに跡形もなく、ギャバ鳥の全身を蒸発し尽くす。
その光景を、迅はただ呆然と眺めていた。
「……はは」
思わず漏れた乾いた笑い。それが、迅の心情を物語っていた。
ああ、なるほど。これは確かに圧倒的だ。
こんな攻撃ができるのなら――こんな騎士がいるのなら――自分の出番など確かになかった。
本当に、とんだ茶番だ。迅が行った時間稼ぎなど、この光景を前にすれば、何ほどの意味もなかったと言わざるを得ない。失笑も零そうというものだ。
「この威力の攻撃を、まさか地上に向けて放つわけにもいかないからな」
相変らずつまらなそうに零すティグに、迅は苦笑して頷いた。
「……そりゃそうだろ。街を守る騎士様が、街を壊しちゃ世話ないっての……」
「もちろん、いずれ空に追いやるつもりではいたさ。ただ言い訳するわけではないが、どうにも加減が難しくてね。無様でも、代わりにそれを為してくれた君には、感謝の気持ちでいっぱいだ」
「……皮肉にしか、聞こえないっつーの……」
「気にするな。君も、俺も、ネイアリア様に比べれば前座に過ぎないのだから」
「――は?」
「そら、見てみるといい」
そう呟くと、ティグはその視線を、通りの先に立つネイアへと向けた。それを追うように迅もまた、地べたに倒れたまま首を傾ける。
そこには、迅の魔法に縫い止められたまま、今もなお再生を続けるギャバ鳥の姿と。
その目前に立つ、水色の少女の姿だけがあった。
ふと気づくと、いつの間にか周囲にいた他の騎士や魔法使いたちも、動きを止めて彼女の姿を見つめている。
まるでこれ以上の仕事などないというように佇む、ルルアートの守護者たち。
その視線には、強い信頼の色が込められていた。
剣を、杖を、その魂を。
自ら捧げた主人への、揺らぐことのない忠誠の色が、彼らの瞳には宿っている。
その姿を見た迅は、またしても自らの行いの無意味さを思い知らされた気分でいた。
きっと彼らなら、迅の行動などなくても、ネイアが術を完成させるまでの時間を稼いだに違いない。無駄に出しゃばったりせずとも、時間稼ぎの騎士たちは――きっとその仕事を全うしただろう。そのことを、確信させる佇まいだった。
なぜなら、彼らにはわかっていたのだから。
わずかな時間さえ稼げばいいと。
それだけで、彼らの主人が全てを終わらせると。
「そうだ」
と、ティグが言った。
答える言葉など持たない迅は、ただ黙ってそれを聞く。
「彼女こそ、このルルアートを守護する偉大な王の末裔であり」
そして。
「――世界に七人だけしかいない、巫女姫のひとりなのだから」
「…………」
その言葉の意味するところなど、そのときの迅には知る由もなかった。
ただ、安堵だけがあった。
その気持ちは、たとえるなら、迅が初めてナナに出会ったときのものに似ている。
――ああ、そうだ。なぜ気づかなかったのだろう。
性格は違う。髪の色も、瞳の色も違う。
けれどネイアは――とてもナナに似ているのだ。
「――《忍耐》を司る、巫女の名に於いて誓おう」
ネイアが謳う。神へと捧ぐ賛歌のように。
穏やかな声音で紡いでいく。
「全ての罪を。苦しみを、悲しみを、怒りを、痛みを、嘆きを、後悔を、絶望を――」
そして。
「――全て、この魂に背負うことを」
ネイアの右手が、柔らかに魔物の膚へと触れた――、
その瞬間。
巨大な魔物の全身が、溢れるような光の粒子へと融け出した。
迅も、ティグも、この場にいる全ての人間が、その光景をただ黙して瞳に焼きつけていた。
犯すことの赦されないような、そんな神聖ささえ感じさせる光景だったからだ。
その場にはただ壊された瓦礫と、ひとりの巫女だけが存在している。
やがて、光の粒子が完全に空気へと融けた頃。
小さく微笑んだネイアが、迅のほうを見てわずかに笑んだ。
そして宣言する。
「ありがとう、よくやってくれた。――皆が、わたしの誇りだよ」
そして、次の一瞬には。
爆発するような歓声が巻き起こり、通りを突き抜けて街中を震わせたのだった。
「終わった……のか……」
呆然と呟く迅の周囲では、騎士たちが互いに背中を叩き、ただ街を守護した事実を喜んでいる。
喧騒から取り残された迅は、呆然としたまま石畳の上に寝転んでいることしかできない。
「……何を呆けているんだ」
ふと、頭上から迅に声がかけられた。
金髪の騎士、ティグの声だ。
「何をって……」
「君の活躍で、街を守ったんだ。その事実を、少しくらい誇っても許されるだろう」
「……そう、言われてもね」
迅は自嘲じみた苦笑を零す。
この顛末に、どこか面映ゆいものを感じる自分がいたからだ。
「俺は結局、何もしなかった気がするよ。いや――」
「…………」
「そうだね、どころか邪魔したみたいな気分だよ。俺がいなくても、これ、なんとかなったよね?」
ティグは、迅の言葉を否定しなかった。
「……その自負はある。たとえ君がいなくても、皆は自らの職責を全うしただろう」
「ま……だろうね」
「だがそこに、どんな犠牲が出たかはわからない」
「――――」
思わず、迅は返答に詰まった。
そんな迅を気にも留めず、ティグはただ言葉を続ける。
「強靭な防御力を持ち、さらには自己再生する魔物……。これほどの強さを持つ魔物に襲撃されるなど、数百年に渡るこの街の歴史を紐解いたとしても、これまでには一度だってなかっただろう」
「……そうなのか?」
「……。そもそも魔物に襲われること自体、普通は滅多にないことなんだ。今回程度の襲撃ならば、確かに街を守り切ることは可能だっただろう。だが、その間にどれほどの犠牲が騎士団から出たかはわからない」
「…………」
「君の活躍は、魔物の討伐にかける時間を大幅に縮めた。つまり、犠牲をゼロにしたんだ。その事実を認めないような人間など、我が騎士団には一人もいないさ。――そうだろう?」
「当たり前だ!」
と、答えたのは他でもない、いつの間にか迅たちを囲んでいた屈強な男たちだ。
ぽかんと口を開ける迅に、周囲から大きな声が降りかかる。
「よくやったな坊主! すげえ勇気だ」「とんでもない威力の魔法だったね、どこで覚えたんだい?」「なんならお前、このままウチに入っちまえよ! お前ならみんな大歓迎だ!」「そうだね。まあ、僕の魔法のスマートさには少し劣るけど――」「何言ってんだお前、あいつに傷ひとつつけられなかった癖に」「む。そういう君の剣はどうなんだ」「馬鹿言うなお前、今回の俺の活躍を見てなかったのか――?」
互いの健闘を笑い合って喜ぶ騎士や魔法使いたち。その中に自分まで含まれて、迅は少し居心地が悪かった。
けれど、決して不快ではない。
それは時間稼ぎの捨て駒でしかあれなかった自分を、彼らが卑下していなかったからだろう。
後悔はあるはずだ。力のなさを、嘆く気持ちがないと言えばきっと嘘になる。
だって、何より迅自身が、その悔しさを噛み締めていたのだから。
けれど彼らは、それを表に出したりしない。ただ街を守れたことだけを喜び、誇っている。
その姿が、どうしようもなく、眩しい。
「……敵わないなあ……」
と迅は呟く。それは諦めというより、多少の照れから作られた言葉だった。
剣を携え、杖を構え、自らより遥かに強大な存在へと立ち向かう男たちの姿。
それに――どこか憧れている自分がいたのだ。
「――そうだ、ジン。本当にありがとう」
と、いつの間に近くへ来ていたのだろう。
迅の顔を覗きこむような形で、ネイアの笑顔が視界を覆った。
「いや、本来なら謝るべき事態なのかもしれないけれどね。どうあれ戦う義務のない君に、余計な負担をかけてしまったのだから」
「……やめてくれよ。勝手に首を突っ込んだだけなのに」
「ああ。勝手な謝罪は、君の行いを貶めるだけだろう。それはわたしの望むところじゃない」
またしても持ち上げられる迅。言ってしまえば、その言葉は的外れだった。
迅は思う。誇り高き騎士たちと、自分なんかを一緒にしてほしくないと。謝罪が欲しいとはまったく思わないが、かといってそれで自分の行いが貶められるだなどと、そんな考えは発想すら浮かばなかったのだから。
まあ、ただ、それでも。
やはり決して、嫌な気分だとも思わなかったのだが。
「……何か、望みはないか?」
と、ネイアが迅にそんなことを問うてきた。
上手く飲み込めず首を傾げる迅に、彼女は重ねてこう告げる。
「こんな形でしか報いることができなくて済まないが、何か望みがあれば言ってほしい。ウェアルルアの名において、可能な限り叶えると約束しよう」
「……そう、言われ」ても、何も思いつかないな。
と、そう答えようとした迅の口は、けれど言葉を完成できなかった。
突如として喉の奥から何かがせり上がってきて、その不快さに思わず咳き込んでしまったからだ。
「か――はっ、ごほ……っ!?」
思わず口元を手で押さえる迅。そんな自分を、ネイアが驚愕の瞳で見つめていることには気がついた。
だが、その理由がわからなかった。
そこまで驚くようなことだろうかと、首を傾げる迅。
その視線が自らの手のひらを見たところで――
「…………あ」
言葉の代わりに、赤い血液を吐き出していたことに気がついた。
途端、何かの糸が途切れたかのように、迅の意識が急速に薄くなっていく。
まるで世界が回転しているかのようだった。
どちらが上で、どちらが下なのかわからない。前後も左右も不確かだ。
「――――! ――――――――!!」
ネイアが何かを叫んでいるのが見える。だが視覚はともかく、聴覚がそれを捉えてくれない。
そして徐々に視界さえ暗くなっていく中で、
「そうだ……」
迅は、ネイアが言っていた《望み》を、ひとつ思いつく。
何よりも真っ先に頼みたいことが、ひとつだけあったのだ。
それを、どうにか、最後の気力で言葉に変える。
「……お願い、だ……」
――ああ、言葉がきちんと作れているのだろうか。
もはやそれさえわからない。自分の声すら聞こえない始末だ。
だがそれでも、これだけは言っておかなければ。
「……今回のこと、は……冬火には、ない、しょ……に」
それだけを、どうにか言葉に変えたところで。
迅はこの世界と、完全に接続を絶たれたのだった。




