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1-00『プロローグ代わりの異世界転移』

 絶景だった。と、そう表現して嘘にはならないだろう。

 見たこともない光景。それは、地球上には間違いなく存在しないはずのものだ。

 それを眺めているのは、ひとりの地味な青年だった。

 視界を占める景色は、薄暗い森林のそれ。

 背の高い樹木が鬱蒼と生い茂る森林。頭上は木々の葉に覆われ空が見えず、足下にはひんやりと冷たい土に枯れ葉や小枝の絨毯が敷かれている。

 森という名の景色としては、それは一見、どこにでもありふれたもののように思えてしまう。

 だがそんな常識を覆すだけの異常が今、彼の目の前には確かに存在していた。


「――――――――」と。

 青年の耳に届くのは、およそ言葉とは呼べない低い唸り声。

 それに、血液が地に滴る音。

 肩口から噴き出た出血が、重力に従いぽたぽたと地に落ち、土や枯れ葉やを湿らせる。

 その光景を、青年はただ見ていることしかできなかった。

 目の前にはひとりの少女。

 細く透き通るような真白の髪と、宝石のように輝く翠の瞳。作り物めいた美しさを纏う、まるで人形のような少女だ。

 けれど、彼女が決して人形などではないことは、滴り出る血の流れが証明している。


 少女に傷をつけたのは、巨大な狼――のような何かだった。

 外見は狼だ。

 黄金の毛並みを持つ、いっそ神々しいまでの獣。

 だが青年の瞳には、それが何よりも恐ろしいバケモノとして映っていた。

 そう、それは化物だ。いや、あるいは怪物でもなんでも構わない。表現など重要ではなかった。どんな言葉で表したところで、ソレが人間には理解できない超常の生物であることに変わりはないのだから。

 だから、重要なのはそんな部分じゃない。

 考えるべきは、地球上には間違いなく存在しない、してはならないはずの存在が目の前に存在しているという点と。

 加えてそれが現在、彼の目の前で、少女を殺そうとしているという点だった。


「――く、ふ……っ」


 ふと、青年の耳に音が届いた。咳払いにも似た、小さく掠れた吐息の音だ。

 それが目の前にいる白髪の少女から発せられたものであると、青年は受け入れることができない。

 だって彼女は、ついさっきまで、明るく笑っていたのだから。

 その笑顔で、彼を守ってくれていたのだから。

 突然の事態にどうすることもできなかった青年を、救ってくれた唯一の存在。

 その少女が今、魔物に傷つけられ、死にかけている。

 その現実を、認めることができないでいた。


 けれど、それでも現実は現実だ。

 目前の巨大な狼が、恐ろしく強大な怪物だということは、理性以前に感覚が告げている。

 事実、自分より遥かに強いはずの少女に、ひと噛みで重傷を与えている。

 そんな存在を相手にして、彼にできることなどあるはずもない。

 頭の片隅に住まう、冷静な自分が告げていた。

 ――逃げろ。逃げるべきだ、と。

 少女を見捨て、自分ひとりで、脇目も振らずに逃げ出してしまえ。

 そう、理性が叫んでいた。

 自分の命を懸けてまで、彼女に肩入れする理由なんてない――。

 

「…………ジ、ン……」


 ふと、彼の鼓膜を弱々しい声が揺らした。

 今にも消えてしまいそうなほど、か細く弱い消えかけの声。

 彼の目の前で血に濡れる、ひとりの少女の声だった。

 それが、青年の名前を小さく呼ぶ。

「……逃げ、て……、ジン……っ!」

 彼――明星あけほしじんは、けれど、そんな嘆願に頷きを返さない。

 いや、返せないのだ。

 だって当然だ。

 ついさっき初めて会ったばかりの、名前しか知らない少女が。

 自身の死を目の当たりにして、なお迅を気遣っているのだから。

 保身しか考えられなかった彼に、返せる言葉があろうはずもない。


 だから。けれど。

 それでも、彼は。


 言うべき言葉を、口にする。


 平凡な日本の高校に通う、ごく普通の青年だったはずの彼――明星迅にとって。

 この異世界における、それが、はじまりの一幕だった。



     ※



 放課後の校舎の屋上は、校内における数少ない憩いの地である。なぜならそこは、学校の中でいちばん静かな場所であるのだから。

 と、明星迅は常からそう考えていた。だから今日もひとり、屋上の空気をいっぱいに浴びている。

 別段、迅は喧騒が嫌いというわけではない。特に好んでもいないのだが、かといって静寂のみを好むというわけでもなかった。

 ただ、普段は雑多な騒音に溢れる学校空間が、その顔色を変えるタイミングにどこか惹かれてしまうのだ。なんであれ普段は見られない側面を垣間見せてもらえることが、迅にとっては快い体験となる。

 もっともそれを抜きにしても、単純に人気ひとけのない屋上は、迅にとって特別に落ち着ける空間のひとつではあったのだが。

 手すりに体重を預け、眼下の雑木林を見るともなく眺める。

 屋上を吹き抜けていく五月の風に遊ばれて、迅は静かに目を細めた。できることならこのまま寝てしまいたいくらいだが、さすがに屋上へ寝転がるのは気が引ける。

 迅は、その外見の大きな特徴である、生まれついてのくすんだ灰色の髪を指先でくるくる弄んだ。周囲に他人がおらず、油断している瞬間にしか迅は自分の髪にれない。自身の髪色を意識していると、他者から思われることを無意識に避けているからだ。


「――迅? いるの?」

 ふと、迅がゆっくりと浸っていた静寂を、破るような声がひとつ聞こえた。

 頬を撫でる風に身を委ねていた迅だが、名前を呼ばれて背後、屋上の出入口を振り返る。

 そこにいるのが誰なのかは、振り向く前からわかっていた。

「ん、……冬火とうかじゃん。おっす」

「おっす、じゃないわよ。まったく」

 ひらひらと手を振って笑みを作る迅に、ひとりの少女が向かい合う。

 その表情には、色濃い呆れの模様が浮かんでいた。

「またこんなところにいて。捜したんだからね、もう」

 冬火、と呼ばれた少女は、形のいい唇を軽く尖らせて文句を告げる。

 迅の灰髪よりなお目を引く、赤茶けた派手で鮮やかな長髪。それが風になびいて、彼女の頬や肩をくすぐっている。舞い踊る髪を鬱陶しそうに流しながら、冬火はまなじりをつり上げて迅を睨みつけた。

 この高校の屋上は、原則として立ち入り禁止の場所だ。だから普通は誰も近づかない。冬火が迅を見つけられたのは、彼の行動パターンを彼女が把握しているからだった。

 とある成り行きから手に入れた屋上の鍵を、迅はこっそりと所持している。それを悪用つかって、勝手に屋上を占拠していることが多いのを彼女は知っていた。

 気ままに笑う迅に向け、冬火は溜息交じりの苦言を呈す。

「補習が終わったら教室で待ってて、って、私言ったよね?」

「悪かったよ。あまりにも暇で、つい、な」

「……まったく」

 と、冬火は再度の溜息を零した。付き合いが長い分、その辺りには諦めがあるのだろう。

 冬火はやれやれと首を振り、何も言わず肩を落とすに反応を留めた。


 彼らの通うこの慧嶺けいれい高校は、地域ではそれなりの進学校として名が通っていた。その《それなり》程度から脱却できないのが慧嶺の特徴でもあるのだが、ともかくとして、進学校である以上はやはり《それなり》程度には授業の進行も速い。

 特に迅ら二年生の代は、数学の教師陣が厳しいことで学内では有名だった。今回の補習も、名目上は小テストでの獲得点数が低い者のみ対象、ということにはなっているが、実際は補習を免除されている者なんて数えるほどしかいない。授業計画の一環として、初めから組み込まれているに等しかった。

 たいていの生徒は補習の対象者だったし、まして学業にそう重きを置かない迅がそれを免れられるはずもない。一定基準の点数を獲得するまで、放課後の教室に縛りつけられる羽目になっていた。

 とはいえ、免除されるだけの成績優秀者ならば、実際に免除されているのも事実である。

 たとえば青山あおやま冬火などがそうであるように。

 友人ふたりが補習を終えるのを、彼女は待っていたというわけだ。


らくは?」

 わずかに小首を傾けて、冬火はもうひとりの友人の所在を問う。

 その問いに迅は肩を竦め、

「いや、どうだろ。もうそろそろ終わると思うけど――」

「――なんだ、やっぱりここにいたのか」

 噂をすればなんとやら。

 迅の言葉を遮るようなタイミングで、ひとりの青年が屋上の入口から声を掛けてきた。

「あ、来た」

「来たな」

 冬火と迅は、口々にそのまんまのことを言う。

 視線の先に現れた青年は「悪い、遅くなった」と片目を瞑って謝りながら、二人のほうへと歩み寄った。

 ――結崎ゆいざき楽。

 飄々とした、どこか軽薄に映る笑みを常に浮かべている青年だ。

 事実かなりいい加減な性格の持ち主で、普段から《適当》が金科玉条だと言って憚らない。名前通りの刹那的快楽主義を標榜している、ありていに言って、変わり者に属する青年だった。

 男にしては長めの黒髪を、人差し指で掻きながら歩いてくる楽。薄いフレームの黒眼鏡が、彼にはかなり似合っていない。


「週末は雨になるかなあ……」

 ぱっとしない空模様を眺めて、楽が何気なく呟いた。

 冬火はそれに頷いて、

「朝の天気予報でも、これから徐々に崩れてくるだろう、みたいに言ってた」

「じゃ、早めに帰ろうぜ。ただでさえ補習で時間を取られたんだし」

 それに、と楽は続けて言う。

 持ち前の悪童じみた笑みを迅に向けて、

「せっかくの、迅の誕生日会だからな。なるべく早く始めたいだろ」

 楽と、冬火と、そして迅。

 物心つく前からの仲である三人は、それぞれの誕生日には、必ず集まって祝うと決めていた。

 とはいえ迅の誕生日は四月二十四日で、つまりはすでに過ぎている。諸般の事情で今日まで延期になっていたのだ。楽や冬火としては、だからこそ、一刻も早く祝ってやりたいと思っている。


 ――もっとも。

 本当は、三人で集まる理由なんて、なんだって構わなかったのだが。

 彼らはただ単に、三人で集まって騒ぎたいというだけ。

 誕生日なんて、所詮は理由づけのひとつでしかない。集う理由などどこに求めたって構わなかった。

 三人がいっしょであることに、意味なんて必要ではないのだから。



     ※



 三人が集まる場所と言えば、たいていは迅の住むアパートだった。

 その理由は単純なもので、独り暮らしである迅の自宅が、集まるのに最も都合がいいからだ。楽も独り暮らしではあるのだが、こちらは学校から少し離れた場所に住んでいる。

 必然、迅の家を使うことが多くなっていた。


 近場の量販店で安く仕入れた食材を提げて、三人は迅のアパートに上がり込む。

 鍋にするつもりだった。

 具材を入れ、味をつけて煮るだけ。最も手軽な料理のひとつだ。

 三人とも料理の腕に自信はない。独り暮らしだとか、女子の嗜みだとかの理由で多少はできるが、所詮は多少。余計な遊びさえ入れなければ間違いのない鍋料理が、選択としては無難だった。

 さて。誕生日会、とは言ったものの、特別な何かを行うわけじゃない。

 プレゼントはすでに渡してしまっていたし、本当に、ただ集まって鍋をつつく以外に予定なんて考えていなかった。

 具材を切ったり、食器を並べたり。三人であれやこれやと言い合い続ける。

 主賓で、かつ会場を提供している迅も休んではいない。こういう料理は、みんなで作るから楽しいのだ。

 迅の住む安アパートは、安いだけあって結構手狭だ。

 玄関から入って、奥に続く通路代わりの廊下部分が同時に台所になっている。そこから続く六畳間には、年中出しっ放しのコタツが我が物顔で鎮座している。三人もいればもう、スペースとしては限度という感じだった。

 身内で鍋を囲むには、ちょうどいい広さだとも言えるが。


「楽は野菜切って。んで、迅は鍋とコンロの用意」

 鍋奉行よろしく、調理を取り仕切るのは冬火だ。三人の中では唯一の女子だから、というよりも、これは単に性格と関係性の問題だろう。

 迅も楽も、基本的にはちゃらんぽらんな性格だ。だからこそ、真面目な冬火には基本逆らわない。

 もしくは頭が上がらない。

「やっぱ鍋は楽でいいな。具材を切って、市販の素で味付けて、あとは適当に煮るだけだ」

 ざくざくと大雑把な手つきで白菜を刻みつつ、楽が隣の冬火に言う。

 冬火はエビの背ワタを抜きつつ、適当な感じで楽に答えた。

「でも、いつまでも市販の味付けってのもね。どうする? 次辺り、思い切ってやめてみる?」

「おい聞いたか、迅。冬火の奴が、また無謀なこと言い始めたぜ?」

 肩を竦めて軽口を叩く楽に、けれど迅は答えなかった。

 コタツの横で、黙ったまま土鍋を凝視し続けている。

「……迅?」

 怪訝に眉を顰め、包丁を置いて楽が振り返る。

 冬火も同じように作業の手を止め、迅の近くへと歩いていった。

「どうかしたの?」

 首を傾げる冬火に、迅が困惑したように言う。

「いや……なんか」

「何?」


「――鍋の底が、なんか、すごい光ってるんだけど」


「……はあ?」

 とたとたと小走りに、冬火が迅の後ろへ回る。そして迅の肩越しに、土鍋の中を覗き込んだ。楽もまた「何を言ってるんだ」とばかりに、コタツの横、迅の隣に腰を下ろした。

 三人が一斉に、何の変哲もないはずの土鍋を覗き込む。

 ――土鍋は、確かに光り輝いていた。

「……なんだ、これ?」

「さあ……?」

「なんで光ってるの……?」

 三人の口から、疑問の声が自然と漏れる。

 眩いばかりの黄金の輝きが、土鍋の底から燦然と溢れ出ていればそれも当然だろう。

 不可解である以上にシュールすぎて、三人は揃って言葉を失っていた。

 そうしている間にも、光は徐々にその強さを増していく。

「う、わ……!」

 狭い部屋を満たしていく光に、迅は思わず呟いた。

 知らず、右手が目を庇う。だがその程度で遮れる光量ではない。腕越しでも、発光の勢いが刻々と強まっていくのがよくわかった。

 瞳孔を刺し貫かんばかりの光の奔流。

 それに迅は、思わず左手から土鍋を取り落とす。

 その、瞬間だった。


 ――いきなり土鍋が爆発した。


「な――」

 いや、それは錯覚だ。本当に爆発したわけじゃない。

 ただそんな勘違いを覚えるほどに、光の勢いが強くなっているだけで。

 土鍋から漏れる輝きは今や六畳間全体を覆い尽くすほどに勢いを増しており、迅はもはや目を開けることすらままならない。

 そして、発される光はついに最高量にと達した。

 これ以上ないというほどの白に、視界の全てが潰されている。

 すでに視覚は、感覚としての機能を為していない。

 その代わりに迅が得たのは、

「――ぐ!?」

 身体全体が捻じれるような、強い揺れの感覚だった。

 まるで全身が浮き上がり、光の中へと吸い込まれていくかのような、そんな感覚。

 ここではないどこかへと引きずられていくような、何かが手遅れになったかのような――そういう得体の知れない確信を迅は覚えている。

 何かがおかしい。

 そんなこと、きっと初めからわかっていた。

 直感が危機を訴えている。軋るような悪寒が、背筋をまっすぐ貫いていく感覚だ。

 それを感じたときにはすでに、何もかもが遅きに失していた。

「冬火……っ! 楽っ!!」

 すぐ近くにいるはずの友人の名を、迅は思い切り叫ぶ。

 けれど迅に、ふたりからの返事は届かなかった。

 それよりも早く、身体が、全てが、光の中に呑み込まれていってしまったからだ。

「う――――お、っ――!?」

 あらゆる感覚が、空白に侵されていく。五感のすべてが塗り潰されてのホワイトアウト。

 人生の中で一度も得たことのないはずの、けれどどこかで味わったことがあるような、表現のできない異様な感覚。

 まるで自分と世界とがどろどろに融けて、混ざり合っていくかのような。

 そんな感覚が全身を侵す。

 突然の展開は、けれどもう、すでに終わりに近づいていた。

 逆転劇などない。迅は、そして冬火も楽も、ただ状況に流されるまま、光の奥へと吸い込まれていく。


 そして、次の瞬間。

 迅たち三人は、この地球せかいから完全に姿を消した。

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