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瓶詰めの蝶々 第五十三回

 女将は狐目を細くして、ほくそ笑んだ。妖獣らしい艶が含まれていた。

「ご存じのくせに」

 広大な肩を、軽く打擲する。

「いやいや、覚えがないな。二十年以上もこの商売をやっていて、いまだにわからないんだが。女がスミを入れるときの心境とは、どんなものなんだろう」

「男のかたと変わらないのではないでしょうか」

「そうかな。肌のもつ意味合いが、違ってくるんじゃないか。こんなことを言うと、フェミニストから袋叩きにされそうだがね。男にとって、皮膚は体の一部に過ぎないが、女にとっては肌が全てだ。商売道具であり、全財産だ。そこへ一生消えない刻印を捺す。もしくは捺される心境が知りたいんだが」

「ほ、ほ、ほ。高木さんは古風ですのね。時代劇や任侠ものの観すぎではありませんか。流されるだけですわ。女も男も、ただ流されてゆくんです」

「とんだ禅問答になっちまった」

 酒を半分ほどあおり、いまいましげにつぶやいた。氷の音が、ざわめきの中で、空虚に響いた。

「刺青にこだわるんですね」

「この事件で、一番気になるポイントがそこなんだ。が、アリバイのおさらいが、まだ終わってなかったな」

「井澤絵莉子に関しては、さっき話に出ましたから。次に、家政婦の櫻井晃子」

「へえ、テルコと読むのか。アキコだとばかり思っていたが」

「そこまで驚くほどのことですか?」

「この女の素性も、はっきりしないのだっけ」

「小仏峠に移る一年ほど前から、雇われていたようです。群馬の出ですね。高校を中退後、上京して、職を転々としていました。家を出て以来、親族とは没交渉。美術や芸術の素養とくになし。現在二十一歳」

「意外に若いのだな。で?」

「先ほど触れたとおり、櫻井は藤本竜也と岡田悟が酔っていたので、別荘へ送り届け、午前一時前には戻っています。途中、誰とも会わず、食堂内はすでに無人でした」

「後片付けを終えたのが、二時頃だっけか。その間、ずっと一人だったのかい」

「いいえ。下働きの少年、飛井耕二郎が手伝っていました」

「少年、か」

「見かけによらず、まだ十七歳らしいですね。別荘へも、二人で戻ったと言っておりますし、飛井の証言とも一致します。そのまま一階にある、お互いの自室へ引き上げたようです」

「言いたくはないが、飛井くんの証言能力には、問題があるのだろう」

「いわゆるダウン症候群のようですが」

「どういう縁で、ここに雇われたのだろう」

「孤児だったようです。父親は不明。母親は早くに病死し、引き取り手もないまま、施設に預けられていました。雇われたのは、櫻井とほぼ同じ頃。カッシングの意向だったとか」

「健常者を選ばなかったのは、理由があるのかね?」

「カッシング本人が不在である以上、ちょっと、わかりかねますね。ともあれ、飛井には高度な偽証はできないかと思われます」

「とりあえずは、アリバイ成立か。あとは、男子大学生が二人いたな」

「未成年飲酒で、かなり酔っていたみたいですね。二人とも、食事の後半から、ほとんど記憶がないと言います。櫻井が二階まで案内しました」

「誰が酒を飲ませたんだ」

「直接的には櫻井ですが、口頭で勧めたのは井澤のようです。別件でしょっぴきますか」

「飲酒法か。ふん、知らなかったで片付けられるさ。しかし飛井はともかく、櫻井とこの二人のアリバイは、いささか曖昧だなあ」

「まさか、音大生たちが、由井崎を殺害し、あまつさえ全裸で瓶詰めにしたと?」

「美大生だったら、考えてみる気にもなったか。しかしあの二人がねえ。そこまで凄まじい変質者とは、どうしても思えん」

「これで一応、全員ですか」

「いや、もう一人いるだろう」

 血走った目で、高木はグラスを凝視していた。背筋を這い上がってくる、原因不明の戦慄を、小須田は禁じ得なかった。

「リチャード・カッシング?」

 高木は残りの酒を飲みほし、首を振りながら、皮肉交じりの眼差しを向けた。

「いやいや、北村紅葉だよ」

「彼女が? まさか……」

「しかし、こうして消去法で一人ずつ消してゆくとだね、あとは彼女しか残らないことになる。鏡の家の中に、あらかじめ由井崎がいたと考えれば、殺害し、瓶に詰める時間は、充分あったわけだ。北村紅葉にだけは、ね」

「鍵の問題は?」

「もともとは、二本あったのじゃなかったのかい」

「そんな、でも、動機がありませんよ」

「故事つけられないでもないさ。北村はカッシングの大ファンなんだろう。ファン心理には、憧れの対象を模倣し、同化したいという思いが、入っているはずだ。彼女は画家の作品に幻惑され、行方不明の画家に成り代わって、創造的行為を行いたい衝動に駆られた。家そのものが作品であるという、鏡の家において、カッシングのモデルだった女の肉体、そのものを使って」

 小須田は呆然と、高木が吐く煙を見つめていた。ようやく幻惑から逃れるように、首を横に振った。

「奇想天外すぎます。それこそ、埃を被った探偵小説ですよ。たとえ北村をしょっ引いたとしても、それで公判が維持できると思いますか」

「できんだろうね。小須田くん、悪いが勘定を済ませてきてくれるか」

 よれよれの財布から、無造作に一万円札が引き出された。お定まりの押し問答の末、小須田は札をつかんで、あやしげな足取りでカウンターへ。一人テーブルに残され、氷を口に含んだ高木の後ろから、声をかける者があった。

「奇遇だね、こんな辺鄙な所で、きみに行き逢おうとは」

 間もなく目の前の席に、高木に劣らぬ巨体が、窮屈そうに収まっていた。

 文壇の妖怪、堀川秋海の卵顔を睨みつけたまま、高木は苦虫とともに、氷を噛み砕いた。

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