瓶詰めの蝶々 第五十二回
二本めの煙草に、高木は火をつけた。酒はさっきから進んでいないようで、三分の一ほど残ったビールの気が、すっかり抜けていた。対して、いつの間にか目の前のグラスを空けてしまう自分に、小須田は驚いていた。
「少し先へ進めようか。時間は、どこで止まっていたっけ」
高木が、煙を吐きながらつぶやく。無口な娘から新しいグラスを受け取り、小須田はなかば無意識に、ぐっと傾けた。
「北村紅葉が死体を発見したところです」
「うん。いや、そのひとつ前には、やはり絵がかかっていたんだよな」
「そうですね。鏡の家に展示されていた作品は、全部で十二。うち立体作品は、入り口から数えて五番めと八番めと、最後の十二番めの計、三作品だけです。もっとも、あれを作品として数えればですが」
「十一番めの絵が、ちょうど迷路というか、通路の突き当りにあり、左へコの字に折れ曲がっている。そのおよそ四メートル先の行き止まりに、例の瓶詰めの“作品”が鎮座していた」
「仕切りが張り出していましたので、瓶のある空間は、ちょっとした個室といった趣きでした。七十五センチですから、ちょうどドア一枚ぶんの隙間から覗きこむ恰好ですね」
「北村紅葉は一つ一つの絵を、かなり熱心に眺めていたんだよな。十一番はどんな絵だった?」
「油彩画です。五十号といいますから、中くらいでしょうか。妖精、というより妖怪みたいなやつが百八匹、描かれているようです。カッシングの出世作『妖精の鉄槌』のその後を描いたものだとか」
「ならば、彼女はかなり顔を近づけて見たわけだ。そのまま左を向いたところで、仕切りが邪魔をして、瓶のほうは見えない」
「あっ、そうか。彼女が十一番に見入っている間に、瓶の近くに隠れていた犯人が、逃げ出せた可能性がある!」
溜め息とともに、高木は盛大に煙を吐いた。
「いやあ、いくら横を向いていたとはいえ、人が出てくれば気づかない筈はない。北村紅葉も、そこを強く主張していた。実験してみたんだが、確かに忍び足だろうが這っていようが、十二番の部屋から出てきた者がいる以上、視界に入っちまうんだよな。出口が近すぎるんだよ。鼻がくっつくほど、絵に顔を近づけたとしても、見えちまうだろう」
いつの間にか、店はぎゅうぎゅう詰めの混雑ぶり。酔漢がどっと笑うと、黒ずんだ板壁ごと揺れるようだ。小須田が肩をすくめたのは、逢魔が刻に這い出してくる、魑魅魍魎どもに囲まれている気がしたから。
「いやいや、立ち止まっていても、埒があかないな」
「ええ。北村紅葉は、ちょうど仕切りの間で立ち止まり、十二番の瓶を凝視しました」
「中に入ったとしても、ふらふらと二歩か、三歩。まあ、あんなものを見せられたんじゃ、無理もないが。ただ、その最後の空間には、決してほかに人はいなかったと証言している」
「それから彼女は踵を返し、急いで鏡の家から立ち去りました。井澤絵莉子に報告するつもりだったと言います。井澤は北村と別れた場所に、別れたときと同じ姿で待機していました」
「霧のような雨が舞っていたのに、傘もささずにか」
「井澤は北村に、そこで待っているようにとだけ言い、鏡の家へ駆け込みました。北村紅葉は、その場で気を失い、朝になって藤本竜也と岡田悟に発見されるまで、意識が戻りませんでした。一一〇番通報が入ったのは、午前四時二十三分。母屋の電話からです」
「遅すぎるな。母屋へ戻ってから、あまりに時間が経ちすぎている」
「気が動転してしまい、まともに受話器も握れなかったとか」
「ふん、まあいい。なぜ北村を放置したのかという質問に、彼女は何と答えた?」
「通報するために、母屋への裏道を通った。とっくに別荘のほうへ戻ったものと考えていた、と」
「ウラはとれてるんだよなあ。裏道という名の道なき道なら、確かにあったし、彼女が通った形跡があり、足跡も一致した。機動の連中がまずパトカーで到着するまで、井澤絵莉子は母屋で待っていた。とても引き返す気力がなかったという話も、納得がゆく。ただでさえ、体が弱いんだからな」
「そして、密室ですか」
どこからが首で、どこまでが頭だかわからない辺りを、高木はぼりぼりと掻き毟っている。
「指紋は?」
「井澤絵莉子と由井崎怜子のものがほとんど。入り口のドアには、北村紅葉のものも」
「あれほどばかでかい瓶だ。指紋採集にはもってこいだろう。何かほかに残っていなかったか」
「二名のほかには、男のものと思われる指紋が、かなりはっきりと。リチャード・カッシングの指紋と思われます」
「またしても、亡霊殿のお出ましか。いやいや、鍵ならもう一つあるぜ。こいつは二重密室なんだ」
酔いが廻ってきたせいか、小須田はあからさまな溜め息を洩らした。
「たしかに瓶の蓋は閉ざされていましたが、さっきも言いましたとおり、鍵はかかりません。外部からレバーで簡単に開閉できます」
「メタファーだよ、メタファー。ここで言うところの鍵とは、タトゥーのことさ。被害者の右の肩には、非常に特徴的な刺青があった」
「濃い光沢のある青色をした蝶の翅ですね。ミヤマカラスアゲハという、実在する蝶の翅に、忠実に彫られていたようです」
「マブなスミさ。しかもここまでツヤを出すには、そうとうきつい針を入れなくちゃいけない。相撲取りだってのたうちまわるぜ」
「しかも、昇り龍でもなければ、唐獅子牡丹でもない。実在する蝶の翅が片方だけ。それも右の肩だけに彫られているというのは、非常に珍しいと言えますね」
「どう見ても、極道とは縁がなさそうだからねえ。むしろあれは……」
「アート、ですか」
「厭だね。まったく、イヤな事件だよ。まるで由井崎怜子は、スミを入れた時点で、あの瓶の中に展示される運命を刻まれたようじゃないか」
「カッシングに強制されたという噂もあるようですね。コレクターの間では定説だとか」
「由井崎のタトゥーは、暗黙の事実なのか」
「得意先と取引する際に、カッシングの窓口となるのが、内縁の妻二人。絵はナマものですから、カタログ通販のようにはゆきません。たいていは、井澤絵莉子が応対に出たようですが、被害者もまったく隠れていたわけじゃなかった」
「そう言えば、音大生たちも言っていたな。刺青を見せつけるような、肩もあらわな服装で、リビングにあらわれた、と」
「強要されたタトゥーなのに、ですか」
「隠す理由もないのかもしれん。それよりも……」
紫煙と化して消えた言葉の代わりに、小須田が言う。
「井澤絵莉子もまた、タトゥーを入れられているのではないか」
「そうなんだ。カッシングが一方の愛人の肩に、タトゥーを強制したのであれば、もう一方の愛人である井澤も、それがあって不思議じゃない。むしろ、あると考えたほうが自然なんだ」
「でも本人は否定しましたよね」
「ああ、本人が否定した以上、確かめようがないからな。そのうえ彼女は、病気だとかで、肌をあらわすことを極端に避けてい」
「病院関係にアタっても、ナシのつぶてでしたよ。そもそもここ何年も、彼女は医者にかかった記録がない。本当に彼女は“病気”なのでしょうか」
「本人がそう言うんだから、しょうがないだろう。拒否されちまえば、肌を見せろとは強要できない。警視庁といえども、一般市民の女を裸にする権限まで、持ちあわせちゃいない。ま、いずれにしても、刺青の件は、もう少し突ついてみる価値はあるな」
高木は機械的にグラスを持ち上げ、一口含んで、顔をしかめた。柏手を打つと、稲荷の神使のように、素早く女将が顔を出した。
「黒霧ロック?」
「もちろんだ。なあ、姐さんはタトゥーを入れていたっけ?」




