瓶詰めの蝶々 第五十一回
空のグラスを、小須田は見つめた。学生時代は、この方面でもずいぶん鍛えられた。容易に酔いつぶれはしないが、かといって、とくに嗜むほうでもない。なのに、ずいぶん今夜はペースが速い気がする。
「二重、ですか」
硝子の器を眺めていると、どうしても、「あの光景」が浮かんでくる。
瓶詰めにされた女。
何も身につけておらず、暗い、青みがかった照明を浴びて、深海を想わせる水中に漂いながら、見開かれた目で、じっと硝子の外を見つめている……この巨大な瓶を、もうひとつの部屋に見立てて、高木は二重と言うのだろう。
「死亡推定時刻は、午前零時から二時の間。まあ死体の発見と、ほぼ同時刻だ。死因は頭部打撲による外傷性くも膜下出血。非常に硬質な、棒状のもので殴られていた。背後からの一撃だ」
「瓶の後ろから、凶器と思われる杖が発見されていますね。カッシングが愛用していたもので、かれの行方がわからなくなると同時に、杖の所在も不明だったとか。鉛の詰まったグリップに付着していた血痕もAB型、由井崎のものと一致しています。現在、DNA鑑定中ですが」
「まず凶器とみて、間違いなかろうね。殴られたのがこのへんだから、当然、“展示”された状態では傷口は見えなかった」
そう、まるで、生きているようだった。そうして、美しかった。
思わず小須田は、呻き声を洩らした。勃起していたのだ。いくらか酔いが廻っているとはいえ、不謹慎極まりない。高木が肩をすくめて言う。
「ホトケさんを見るのは初めてだったか?」
「はい……」
「気持ちはわかるよ。すれっからしのおれでさえ、いつ見ても気分の好いものじゃない。ましてうら若い娘が、理科室の標本みたいに裸で瓶詰めにされたんじゃあ。犯人を上げるまでは浮かばれんだろう」
「そ、そうですね。ですが、瓶そのものは、密室というわけではありませんよね」
「厳密に言えば、な」
「蓋に鍵がかかるわけじゃないし、ハンドル操作で、簡単に上下させることができた。給水も排水も、それぞれのコックをひねるだけ。おまけに瓶の側面には、梯子状の足がかりまでついていた」
「作品を管理しやすいようにという配慮だろうが、どうもね」
「ええ。まるで、この日のために、カッシングが用意したのかと思ったくらいですよ」
「つまり、死体さえあれば、展示そのものは容易だった……ここいらで、亡霊の封印を解くかい?」
「いいえ、まだです」
また訪れた沈黙の中で、酒を運んできたのは、まだ二十歳前と思われる垢抜けない娘だった。無愛想らしく、黙々とグラスを取り替え、会釈もせずに出て行った。それでも、どこか顔立ちに狐らしいの面影があり、女将の娘かもしれないと小須田は考えた。
使い捨てライターで、高木は煙草にようやく火をつけた。
「なんで近頃のライターは、こうも身持ちが固えんだ」
「ガスが切れかけているんですよ」
「さて、亡霊にお出まし願うのは、お預けとしてだ。一撃で殺されていたことから、当初、被疑者は男だという説が、有力だったな」
「女には無理でしょうか」
「あのステッキは凶器としてこの上ない。きっちり急所を狙えば、不可能じゃない。コケの一念何とやら。よほど怨念が籠もっていれば、女の細腕だって、岩をも打ち砕けるんじゃないか」
「恨みによる犯行、なのでしょうか」
「難しいところだね。いや、どんなに単純な激情による殺人だって、実際に人が人を意志に従って殺すんだ。殺人までに至るには、そう簡単明瞭には割りきれない背景がある。まして、このたびの事件は表も裏も、摩訶不思議なことだらけだろう」
「外見が摩訶不思議なだけに、内実は単純なのかもしれませんよ。憎しみのあまり、殺害した上で晒しものにした」
「いい意見だが、例えば、きみはきみの最愛の人を惨殺されたとする。怨讐の果てに、きみはそいつを殺害したとしてだ。果たして、あんなふうに美しく展示したいと思うかね」
「いいえ、まったく」
「理解できないだろう。理解できないんだよ」
かなり短くなった煙草を指に挟んだまま、頬杖をついた。ぽとりと灰が落ちると同時に、高木はつぶやいた。
「リチャード・カッシングの亡霊を蘇らせれば、すべて辻褄が合うんだがなあ」
ぼんぼんと不気味な音が響き、小須田は危うくグラスを引っくり返すところ。そういえば、カウンターの奥に、古めかしい柱時計がかかっていたのを見た記憶がある。
「まず、鍵だ。文字通り、そいつが事件の鍵だと言っていい。井澤絵莉子のほかに、もう一つの鍵を所有していたのが、カッシング。かれなら、鏡の家への行き来は自由。そして凶器は、画家ご愛用のステッキときている」
「あまりにも、芝居がかっていませんか」
「なぜそう思う?」
「なるほど、高木さんは、こう仰言りたいのでしょう。カッシングなら動機の面でも、充分犯人の資格を兼ね揃えている、と。まだ英国に問い合わせ中ですが、殺人未遂で投獄された事実があるようですし、いわゆるDVであったことも、世間に知られています」
「ステッキは、その未遂事件でも用いられたとの噂もある」
「まさに変態ですよ。そんなやつならば……」
「生身の女を殺し、芸術作品として展示したいと、考えついても不思議ではない」
「ええ。二人の男子大学生の証言を合わせると、重い杖をつくような音を二度、聴いたそうですし、また小瓶に詰められた蝶が、未知の何者かによって、部屋の中に置かれてもいたといいます」
「その家は、男子大学生の父親の名義なんだってね。藤本といったか。約三年前からカッシングの財産の管理者、すなわち井澤絵莉子に貸与されており、使用人の住まいとして使われている。どうもね、そこらへんも含めて……」
ついに一口しか吸わないまま、フィルターまで焦がし始めた煙草を、高木は「あちっ」と叫びながら揉み消した。
「まるで芝居がかってるよ。何もかもが」




