瓶詰めの蝶々 第五十回
卵男は言う。
「その鏡の家とやらの中には、だれもいなかったと、北村紅葉は証言している。死体以外は、な」
そんなことは、あらためて言われるまでもない。昨夜は深夜二時までに及んだ報告会でも、耳の中でたこ焼きが焦げるほど聞かされた。
ただ、どうやら高木は、小須田にたこを焼かせるためではなく、かれ自身、情報を整理するために、言わずもがなのことを、語っているように思えた。後で知ったのだが、かれはその都度変わる所轄署の相棒と、事件を肴に飲みながら、考えをまとめる癖があるらしい。いわばおさらいであり、ディスカッションでもあるのだろう。
「そこなんですけど」
半分に減ったグラスを、とんと鳴らして、小須田が言った。
「鍵を開けたのは彼女。死体を見つけたのも彼女。中に犯人がいなかったのなら、なるほど密室です。笑っちゃうくらい、大穴の空いた」
「鍵を所持しているのは、井澤絵莉子ただ一人だという。行方不明になったままの、リチャード・カッシングを除いて」
「その変態画家のことを考慮に入れると、話がややこしくなりますから。ここではとりあえず、ばっさりと無視しませんか。亡霊も含めてです」
「同意しよう」
「じゃあ話は、極めて単純になりますよ。井澤絵莉子が犯人。以上」
「しかし彼女には、アリバイがある」
「なるほど、目撃者の北村と連れだって母屋を出るまで、ずっと家の中にいたのでしたね。とくに晩餐会以降は、常にだれかに見られていた」
「違うな。母屋を出る少し前、一度だけ、着替えのために席を外している。五分もかからなかったようだが。彼女には持病があって、外気に肌をさらせないらしい。それで、イスラム教徒の女性が着るような……何というんだっけ?」
「ブルカ」
「チャドルとの違いがよくわからんが、まあそんなものを着て出てきたという。では、被害者、由井崎怜子が最後に目撃されたのは、いつだったか?」
「二人が外に出る、十分から十五分前です。暗記しちゃいましたよ。宴がお開きになったのが、零時半頃。それから、家政婦は酔っ払った二人の男子学生を送って外へ。北村は飛井という、知能に障害のある下働きの少年に案内されて、玄関脇の小部屋で待たされました。その間に、井澤はブルカだかチャドルだかを着るために、席を外しています」
「宴席には、由井崎怜子だけが残った」
「そして家政婦が戻ったときには、すでにいなかったといいます。自室へ引き上げたのだと考えたそうです。これがちょうど午前一時頃」
「すでに死んでいた可能性もあるわけだ」
「さっきも言いましたように、北村紅葉が小部屋に待たされたのは、五分か、あるいはもっと短かったか。その間に井澤絵莉子が由井崎を殺害し……」
「鏡の家まで運んで、“展示”した。それからまた、北村が待つ小部屋に引き返してきた……と。果たしてそんなことが可能だろうか?」
「不可能、ですよね」
二人の男の沈黙を、店内のざわめきが埋めた。狐顔の女将が、酒のおかわりと追加の料理を持って、またあらわれた。
「どうなさったの、お二人とも。地蔵が仁王に化けたような、難しい顔をして」
「なにせ相手は、高尾山の天狗だからなあ」
「大の男を二人、高い杉の木のてっぺんに引っかけておくのですわね」
「あるいは裸の女を、出口のない家の水槽に沈めておくのさ」
「まあ、罰当たりな。それは天狗さまの仕業では、ありませんわ。どうぞ、冷めないうちに召し上がれ」
ほ、ほ、ほ、と笑い声を響かせて女狐は去り、湯気をたてている大皿が遺された。またしても、烏賊料理である。小須田のゲッソりした顔の前の取り皿に、高木はそれを大量に盛った。
「さっきから、ほとんど料理に手をつけないじゃないか。どうせまた明日も、小仏峠の妖怪どもとの化かし合いが続くんだ。食えるときに食っておいたほうがいいぞ」
血なまぐさい事件の話をしながら、高木のほうこそ、よく食えるものだと思う。
見れば、胴もゲソもぶつ切りにされた烏賊が、墨とおぼしい、どろりとした濃褐色の液に絡められている。きざみパセリの緑と、まるごとの唐辛子の赤が、アクセントを添えている。大蒜とオリーブオイルの香りがして、そんなに不味くもなさそうである。
「あれ、旨いや」
本来の生臭さが、ぴりっとした辛さと調和して、コリコリした歯ざわりも心地好い。思えば腹も空いていた。夢中で頬張る小須田を眺めて高木がフハー、と笑い、ディスカッションを再開した。
「さて、どうしたもんだろうね、小須田くん」
「疑わしいのは、北村紅葉の証言ですよ、高木さん。家の中には、だれもいなかったと言うけれど、本当に犯人の隠れる場所はなかったのか」
「鏡の家は狭い通路と小部屋が交互にあらわれる、迷路のような構造だった。ただ迷路と決定的に違うところは、通路が一方向しかないということ。その最後に展示されていたのが、例の瓶詰めさ。つまり北村紅葉は、本人が語るように、『すべてを見た』ことになる」
「壁には、抜け穴も隠し扉も、いっさいありませんでしたからね。ただ、天井はどうでしょう」
「忍者のように、這っていたやつがいるとでも? たしかに、あれはじつに奇妙な家だね。いびつな茸のように上が膨らんでいるが、あの部分は二階ではなく、何もない空間。天井の延長みたいなものなんだ。よほど気の触れたやつが、設計したとしか思えない」
「そう。そこになら、百人くらい隠れられたでしょう」
「隠れられたさ。ただし、迷路みたいな画廊との間には、びっしりと角材が敷き詰められている。いわば、猫の仔一匹通れない、頑丈な格子が嵌まっているようなものだ。そして、世界に誇る執拗な捜査をもってしても、やはり抜け穴の類いは発見できなかった。天井に忍者が百人いようが、相撲取りが千人いようが、画廊とは没交渉。どうしてもこいつは、密室と考えざるを得ないのだよ、小須田くん。それも、二重になった、ね」




