表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/125

瓶詰めの蝶々 第四十九回

  ◇

「まったく、日曜日だってえのに」

 正面玄関を出ると、陽はすでに、とっぷりと暮れようとしていた。目の前は甲州街道。行き交う車の中には、慌ててヘッドライトを点すものもいた。警察署の前だと、気づいたのだろう。

「本当に送らなくてもいいんですか。駅まで、だいぶありますが」

「たまには歩くさ。刑事なら足を使えって、そう言いたげな立地条件じゃないか」

「はあ」

「ま、ちょっとは明るいうちに放免されただけでも、御の字さ。逆に言えば……」

 急に口をつぐむと、高木は寒気がしたように、背を丸めた。鋭い視線が左右に走るのを、小須田は見た。

「早くも事件は、暗礁に乗り上げたってことだ」

 闇の中に、フハー、フハーと息の洩れるような声が響いた。約二日間、みっちり付き合わされた後でなければ、それが高木特有の笑い声だとは気づかなかったろう。

 五十ちょっとだというが、あと五、六歳は老けて見える。まるまるとした卵が服を着たような、巨体の警部補は、いかにも出世から縁遠そうな風貌。「本庁」の捜査官と組むのは初めてである。緊張もし、手柄への希望に胸を躍らせていた小須田だが、高木の丸顔を見たとたん、風船がしぼむように気力が萎えていったのを、今でもよく覚えている。

 実際、ノンキャリア組のかれは、生涯「現場」から離れられないだろうと言い、フハー、フハーと笑った。ただ、その現場におけるかれの立ち回りを、二日間観察した結果、第一印象はだいぶ塗り替えられていたが。

「きみも付き合え」

「は?」

「乾杯だ。謎の殺人犯に敬意を表して」

 西八王子駅をめざして、甲州街道の歩道を歩く。署からの距離は高尾駅と同程度。どちらが最寄り駅かと問われても、だれもが返答に詰まるだろう。十分近く歩いて、JR線で八王子まで。この街に、高木は宿をとっていた。

 駅舎を出ると、急に人いきれがして、むしむしと蒸された。人込みの中を泳ぐ、肌をほとんど露出した娘たちから、小須田は慌てて目を逸らした。

 高木はまるで勝手知っているように、路地から路地へと辿ってゆく。よほど注意していなければ、たちまち引き離され、見知らぬ裏通りに置き去りにされそうである。

(マスコミをまいている?)

 いつしか小須田は、賑やかで古びた居酒屋の店内に、収まっていた。

 二人掛けのテーブル席は、板壁と柱にさえぎられて、ちょっとした個室を想わせた。店内に満ちたざわめきも相まって、密談にはもってこいといったところ。

 高木の巨体ではいかにも窮屈そうだが、本人は案外、くつろいでいる様子。おしぼりを持ってきた、ちょっと狐顔の店の女将に軽口をたたき、「いつものやつ」を注文した。小須田は驚き顔で、

「ここへはよく来られるんですか?」

 高木は答えず、おしぼりで顔を拭きながら、フハー、フハーと、肩を上下させている。余計なことを訊いたと思った。本庁から、あまり人が行きたがらない八王子方面へよく回されるのだ。その意味するところは、明白だろう。

 ビールと小鉢が運ばれてきた。狐顔の女将が高木の横に身を屈め、囁いた。

「今度の相棒さんは、ハンサムですのね」

 さっきも気になったが、彼女のアクセントには韓国風の訛りがある。細い、けれども鋭い眼光が、かれを居たたまれなくさせた。

「小須田くんを紹介しよう。やさ男に見えるが、早稲田ではラグビーをやっていた」

「まあ、美味しそう」

「今夜取って食わなくたって、どうせまた来るさ」

「そのときは、すっかりお窶れになっているんじゃありますまいか。高木さんの巨体に振り回されて」

「振り回しているのはおれじゃない。犯人殿だ」

「新聞で読みました。難航しそうなんですか」

「まるで埃をかぶった探偵小説だよ。おれなんかに押しつけるには、もってこいの事件なんだろうが。今どき密室殺人だなんて、煮ても焼いても食えねえ」

「密室ものばかり書く作家がいましたわね」

「ディクスン・カーかい。ばかり、というわけではないが。ならばさしずめおれは、フェル博士といった役どころか。いやいや、あり得んなあ」

 不気味な呼吸音が、疳高い笑い声と唱和した。

 女将が去り、グラスが触れ合わされた。もう酔ったわけではあるまいが、烏賊の焼き物を噛みちぎる高木の目が、異様な光を帯びていた。

「密室なんだってね、小須田くん」

「はあ」

「あの女の子だよ、北村紅葉という。ずいぶん美人だったなあ。それに何というかどことなく……」

「エロチック?」

「センシュアルとでも言いたまえ、きみ。気をつけないと、昨今ではびっくりするほど簡単に、セクハラが立件されちまう。警察の不祥事は旨味があるからな。これまでさんざん、メシのタネをリークさせてやった恩も忘れて、マスコミどもが食いついてくる。いや、それはそうと、彼女は自分で鍵を開けて、あの妙てけれんな家に入った」

「鏡の家といいましたね」

 そう言って小須田は覚えず眉をひそめた。目の前で汗をかいている男の姿は、思い出したくない絵を思い出させずにはいられなかった。鏡の国に棲み、高い塀の上に座っているという、あの卵男を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ