瓶詰めの蝶々 第四十九回
◇
「まったく、日曜日だってえのに」
正面玄関を出ると、陽はすでに、とっぷりと暮れようとしていた。目の前は甲州街道。行き交う車の中には、慌ててヘッドライトを点すものもいた。警察署の前だと、気づいたのだろう。
「本当に送らなくてもいいんですか。駅まで、だいぶありますが」
「たまには歩くさ。刑事なら足を使えって、そう言いたげな立地条件じゃないか」
「はあ」
「ま、ちょっとは明るいうちに放免されただけでも、御の字さ。逆に言えば……」
急に口をつぐむと、高木は寒気がしたように、背を丸めた。鋭い視線が左右に走るのを、小須田は見た。
「早くも事件は、暗礁に乗り上げたってことだ」
闇の中に、フハー、フハーと息の洩れるような声が響いた。約二日間、みっちり付き合わされた後でなければ、それが高木特有の笑い声だとは気づかなかったろう。
五十ちょっとだというが、あと五、六歳は老けて見える。まるまるとした卵が服を着たような、巨体の警部補は、いかにも出世から縁遠そうな風貌。「本庁」の捜査官と組むのは初めてである。緊張もし、手柄への希望に胸を躍らせていた小須田だが、高木の丸顔を見たとたん、風船がしぼむように気力が萎えていったのを、今でもよく覚えている。
実際、ノンキャリア組のかれは、生涯「現場」から離れられないだろうと言い、フハー、フハーと笑った。ただ、その現場におけるかれの立ち回りを、二日間観察した結果、第一印象はだいぶ塗り替えられていたが。
「きみも付き合え」
「は?」
「乾杯だ。謎の殺人犯に敬意を表して」
西八王子駅をめざして、甲州街道の歩道を歩く。署からの距離は高尾駅と同程度。どちらが最寄り駅かと問われても、だれもが返答に詰まるだろう。十分近く歩いて、JR線で八王子まで。この街に、高木は宿をとっていた。
駅舎を出ると、急に人いきれがして、むしむしと蒸された。人込みの中を泳ぐ、肌をほとんど露出した娘たちから、小須田は慌てて目を逸らした。
高木はまるで勝手知っているように、路地から路地へと辿ってゆく。よほど注意していなければ、たちまち引き離され、見知らぬ裏通りに置き去りにされそうである。
(マスコミをまいている?)
いつしか小須田は、賑やかで古びた居酒屋の店内に、収まっていた。
二人掛けのテーブル席は、板壁と柱にさえぎられて、ちょっとした個室を想わせた。店内に満ちたざわめきも相まって、密談にはもってこいといったところ。
高木の巨体ではいかにも窮屈そうだが、本人は案外、くつろいでいる様子。おしぼりを持ってきた、ちょっと狐顔の店の女将に軽口をたたき、「いつものやつ」を注文した。小須田は驚き顔で、
「ここへはよく来られるんですか?」
高木は答えず、おしぼりで顔を拭きながら、フハー、フハーと、肩を上下させている。余計なことを訊いたと思った。本庁から、あまり人が行きたがらない八王子方面へよく回されるのだ。その意味するところは、明白だろう。
ビールと小鉢が運ばれてきた。狐顔の女将が高木の横に身を屈め、囁いた。
「今度の相棒さんは、ハンサムですのね」
さっきも気になったが、彼女のアクセントには韓国風の訛りがある。細い、けれども鋭い眼光が、かれを居たたまれなくさせた。
「小須田くんを紹介しよう。やさ男に見えるが、早稲田ではラグビーをやっていた」
「まあ、美味しそう」
「今夜取って食わなくたって、どうせまた来るさ」
「そのときは、すっかりお窶れになっているんじゃありますまいか。高木さんの巨体に振り回されて」
「振り回しているのはおれじゃない。犯人殿だ」
「新聞で読みました。難航しそうなんですか」
「まるで埃をかぶった探偵小説だよ。おれなんかに押しつけるには、もってこいの事件なんだろうが。今どき密室殺人だなんて、煮ても焼いても食えねえ」
「密室ものばかり書く作家がいましたわね」
「ディクスン・カーかい。ばかり、というわけではないが。ならばさしずめおれは、フェル博士といった役どころか。いやいや、あり得んなあ」
不気味な呼吸音が、疳高い笑い声と唱和した。
女将が去り、グラスが触れ合わされた。もう酔ったわけではあるまいが、烏賊の焼き物を噛みちぎる高木の目が、異様な光を帯びていた。
「密室なんだってね、小須田くん」
「はあ」
「あの女の子だよ、北村紅葉という。ずいぶん美人だったなあ。それに何というかどことなく……」
「エロチック?」
「センシュアルとでも言いたまえ、きみ。気をつけないと、昨今ではびっくりするほど簡単に、セクハラが立件されちまう。警察の不祥事は旨味があるからな。これまでさんざん、メシのタネをリークさせてやった恩も忘れて、マスコミどもが食いついてくる。いや、それはそうと、彼女は自分で鍵を開けて、あの妙てけれんな家に入った」
「鏡の家といいましたね」
そう言って小須田は覚えず眉をひそめた。目の前で汗をかいている男の姿は、思い出したくない絵を思い出させずにはいられなかった。鏡の国に棲み、高い塀の上に座っているという、あの卵男を。




