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瓶詰めの蝶々 第四十八回

 壁があらわれ、また壁があらわれた。それらは煉瓦であり、漆喰であり、あるときは、ぴかぴかに磨かれた金属板だった。

 光源の定かでない照明は、おぼろげで、時には暗すぎるほどだが、計算され尽くされてもいた。

 壁の一つ一つには、絵が埋めこめられていた。入り口同様、小さな一枚の絵のときもあれば、複数であったり、壁いっぱいに描かれている場合もあった。

 そうして時おり、意想外なオブジェに出くわした。

 照明は絵を、まともに照らしているかと思えば、ある壁には、蝋燭一本ぶんほどの、蛇の舌のようにちろちろと揺れる光を、投げかけていた。

 この家全体が、迷路に模されているのは、明らかだった。巨大な蝸牛の殻の中に閉じ籠められているような、錯覚に陥るほどに。

 一枚一枚の、絵のおぞましさは、言語に絶した。

 途中で何度、引き返そうと思ったか知れない。

 井澤絵莉子が言うように、ここは狂える画家の最もおぞましい部分をさらけ出した、迷宮といえた。そしてここが「カッシングの恥部」ならば、かれは確かにそれを制作したものの、みずから公開しようとはしなかった。ただ作り、そしてただ、秘していただけである。

 彼女は戦慄した。

 ムンクの有名な絵の恐ろしさは、妖怪じみた像そのものよりも、背景にある。背景こそが怖い。とくに遠くから、橋の上を、こちらへ向かって歩いて来る二人の人影には、耐え難い圧迫感がある。どこかカフカの『審判』にも通じる、見かけは凡庸な市民の姿をした恐怖。

 対して、ここに並べられている絵は、あくまで悪趣味に徹しており、そういった意味ではやはり、ゴヤに近いと言える。時代をさらに遡れば、ブリューゲルやボッシュがキャンバスの上に引きずり出した、中世の妖怪たちを彷彿させる。

 ただ、絵を前にした印象は、やはりムンクによって初めて呼び起された、不安であり、現代特有の神経症的不安にほかならない。

 芥川に毒を呑ませた、あのつかみどころのない不安……

 迷路の中を、どれくらい遡ったろうか。アリアドネの糸毬もないのに、引き返すことができるのか。

(最も単純な迷路は何だと思う?)

 由井崎怜子の声が、まるで直に囁かれたように蘇る。

 それは落とし穴だと彼女は言った。この迷路も、細長く、横方向へ続くように錯覚しているだけで、本当は縦方向へ堕ちてゆくのではあるまいか。

 深い、井戸のような。

 オブジェの次に、また絵があらわれた。

 壁はここで行き止まりになっているようだから、これが最後の絵だろうか。最初の蜘蛛の絵から数えていたのだが、オブジェと合わせれば、十一番めの作品となる。

 紅葉が覚えず息を呑んだのは、それが『妖精の鉄槌』にほかならなかったからだ。

 五十号程度だから、むろんオリジナルではない。それはニューヨークの富豪が秘蔵していると聞いた。また、一時期、画家が金に困って、この代表作のコピーを何枚か描いたことは知っている。

 けれどもこれは、そんな片手間仕事にはとても見えない。それにどうも、写真図版で知っている『鉄槌』とは、微妙に異なるような気がしてならない。

 顔を近寄せ、百八匹いるという妖怪を、一匹一匹目で追った。オリジナルを正確に記憶しているわけではないが、やはり何かが違う。

 そしてタイトルになっている、中央で「鉄槌」を持った人間型の妖怪へようやく目を移したとき、すべて理解できた。鉄槌が、振り下ろされているのだ。オリジナルでは、高々と持ち上げられていたものが!

 ならばこの奇妙な違和感も説明がつく。この絵は、オリジナルの場面から、数秒後の情景を描いたものにほかならない。いわば、『妖精の鉄槌Ⅱ』ともいうべき……

「えっ」

 ふと目を逸らしたとき、もう一つの入り口があることに気づいた。

 絵がかけられた壁の向かって左側に、四角く切り取られた闇が覗いていた。その奥で、何かが蒼白くライトアップされているようだ。あれが、十二番めの作品なのだろうか。

 吸い寄せられるように、闇の扉をくぐった。

 部屋の奥に、蒼く浮かび上がるもの。最初それは、一枚の絵のように思えたのだが、

 オブジェ?

 巨大な補虫瓶に、水がなみなみと湛えられていた。

 中に浸された金属的な青い光沢に、目を射られた。

 蝶が? 右の翅だけの巨大な蝶が瓶に入れられている?

 さらに歩み寄ったとき、彼女の目はたちまち真円形に見開かれた。覚えず押さえた口から、悲鳴がほとばしった。

 蝶ではない。

 右の翅だけの、青い蝶の刺青をした一人の女が、一糸纏わぬ姿で、瓶詰めにされているのだ。

 縁まで水をたたえた瓶の中で、由井崎怜子の裸身は、彼女をじっと見据えたまま揺らめいていた。

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