瓶詰めの蝶々 第四十五回
反射的に、扉へ視線を移した。
わずかに開いている、その隙間に貼りついた闇から、目が離せなくなった。
いびつな、黒ずんだ板が、これも歪んだ鉄のプレートで締め上げられている。無数の、太い鋲が、ほとんど無意味に打たれている。ドアのすぐ裏側で、闇は不定形の生き物のように、呼吸しているようだ。
そのおぞましい息遣いが、たしかに聴こえた気がした。
「……アリスが?」
かさかさに乾いた声が出た。
「瓶詰めの蝶々みたいに……」
振り仰ぐと、凍りついたように突っ立っている、悟の見開いた目。
「彼女を頼む。担いででも、母屋まで連れて行ってくれ。場合によっては、救急車を呼んだほうがいいかもしれない」
びしょ濡れで冷えきった上体を、どうにか起き上がらせた。なよなよと、植物のように絡みついてくる腕の力が、なぜか背筋を冷たくさせた。震える声が降ってきた。
「おまえは?」
「中を確かめてくる」
紅葉の腕をほどき、悟にあずけると、立ち上がった勢いを借りて、そのまま数歩進んだ。
緊急自動車のサイレンの音が遠く、背後から聴こえた。まさか悟がもう、呼んだわけではあるまい。
(アリスが死んでいるわ。鏡の家の中で)
直にささやかれたように、紅葉の声が脳裏で繰り返された。
鏡の家……するとここが、カッシングの未発表作品が詰まっているという、例の空間なのだろうか。ゴヤの「聾者の家」のように、いやそれをさらにあくどく誇張したような、狂気のパビリオン。
それが、ここなのだろうか。
ドアの把手には、鍵が引っかかっていた。
いかにも古風な南京錠。金属を蝕む黴のように、真鍮にこびりついた、青い錆。錠は開かれたまま。底面に鍵が、深々と刺さっていた。
把手をつかもうとして、反射的に手を引っこめた。几帳面に折り畳まれたハンカチを出し、布越しに手前に引いた。蝶番がギギと鳴いて、闇がねっとりと、絡みついてきた。異様なにおい。油絵具と思われるが、何かが徐々に腐敗してゆくような、甘いにおいを孕んでいた。
わずか数歩で、壁にさえぎられた。
真の闇ではない。どこからか、火影をおもわせる、オレンジ色の灯りが洩れていて、不揃いな煉瓦の壁面を照らしていた。百年か、あるいはそれよりずっと以前から、雨ざらしになっていたとしか思えない。古い倉庫の壁か何かを、移築したのかもしれない。
ようやく暗がりに目が慣れてくるにつれて、壁には小窓くらいの、異質な正方形が嵌めこまれていることに気づいた。どうやらそこだけが煉瓦ではなく、漆喰になっており、蒼黒く塗り潰されているようだ。
あやうく鼻先が触れるほど、顔を近づけた。何かが、描かれている。
周囲を黒々と梢に縁どられ、まばらに星が瞬いている。中心に引っかかっているのは月ではなく、蝶の翅だ。光の粉のような鱗粉を撒き散らしながら、むなしくもがいている。強靭な蜘蛛の巣に、絡めとられているのだ。
竜也は息を呑んだ。
翅の間には、昆虫ではなく、ほっそりとした女の裸身が。こちらに背を向けたまま、身をくねらせ、髪を振り乱していた。さらに目を凝らせば、右下にうずくまっている、毛むくじゃらの、おぞましい、黒い蜘蛛の姿がみとめられた。
蜘蛛には人間の顔がついていた。それは青い髭を生やした、狂気の画家自身にほかならなかった。




