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瓶詰めの蝶々 第四十四回

 岡田悟が指さしていたのは、カラスアゲハではなかった。

 たしかに昨夜、北村紅葉が身につけていたドレスのコサージュである。力尽きたように横たわる、黒いリボンを拾い上げてみると、ぐっしょりと濡れていた。

 地面に滴った水滴が、血の色をしていなかったことが、竜也には不思議に思われた。

 二人は無言で視線を交わした。お互いの目の中に、自身と同じ怯えの色が読みとれた。

 風が吹いて、濡れた灌木の葉叢が「おいでおいで」するように、揺れた。冷たい雫が、二人の肩に振りかかった。

「行ってみるしかない」

 そう言って竜也は、ぽつんと付け足した。

「もう、手遅れかもしれないけど」

 灌木を掻き分けながら進まねばならなかったが、道は確かに存在した。まるで千年も前に敷かれたような、磨り減った石畳。それはケルト人を征服したローマ帝国の遺物のように、まがまがしく横たわっていた。

 リチャード・カッシングは、ウェールズ地方出身ではなかったか。ならば、狂った画家の体内には、ケルト人の血が濃く、流れているのではないか。

 うねうねと蛇行する小路は、二人を魔境へと導くようだ。葉叢の中に見え隠れする、牧神や小悪魔たちのブロンズ像が、含み笑いをこぼしながら、かれらを見送った。

 不意に二人は、広い空間に投げ出された。

 ちょうど入り口の狭いトンネルを抜けて、がらんと口を開けた洞窟の内部に出たように。事実、そこは緑の洞窟といえた。側面を喬木で覆われ、奥は崖に塞がれていた。杉木立ではなく、椎や樫などの常緑広葉樹である。生い茂る梢は、真冬でもこの場所を、日光と外界から遮断するに違いない。

 さらに背後の崖が、巨大な庇のように頭上へ張り出し、ぬらぬらと光沢のある表面は隙間なく苔で覆われ、シダや寄生植物が青々と垂れ下がっていた。

 崖の下に、その家はあった。

 家、なのだろうか。

 もしここに棲んでいる者がいるとしたら、人ではなく、ドワーフ……小人なのではあるまいか。

 そう思わずにはいられなかったほど、家はいびつで、居住空間としての機能から程遠かった。それは昏い、中世の面影を引きずった、あの血みどろのグリム童話の初版の挿絵にこそ相応しかった。

 広さはキャンプ場のログハウス程度。だが、煉瓦色に褪せた屋根が、とてつもなく巨大でグロテスクな茸のように、その上にのしかかっている。

 竜也は眉をひそめた。このいびつな家から醸される不吉さ、まがまがしさは何事だろう。呪縛されたように見つめるうちに、大きな掌が肩に置かれたときは、悲鳴を上げそうになった。

「おい、あれ……」

 掌と同様に、悟の声は震えていた。

 怯えた眼差しを追う。家の周囲には煉瓦が敷き詰められ、境界を曖昧にしたまま雑草の中に没していた。正面の壁に嵌め込まれた、ぶ厚い木の扉がなかば開いており、黒々と闇を覗かせていた。

 そのドアの前に、黒いドレスの女が倒れていた。

 北村紅葉に違いなかった。

 うつ伏せに、頭をこちらに向けて、両手で煉瓦を掻き毟るような姿勢で。まるで悪夢から逃れようとして、力尽きたように。

 投げ出された白い脚が、生々しく目を射た。

 無意識に、竜也は地面を蹴っていた。

 彼女の顔の前に、這いつくばるように身を屈めた。蜜の香りが濃厚にふりかかる。息は、ある。そうわかると、ぐったりした体を、日頃のかれとは似つかわしくない荒々しさで、抱き起こした。仰向けにして、頭を膝にのせた。

 その瞬間、毒の林檎を吐き出したかのように、うん、と吐息が洩れた。

 痙攣する薄い瞼は、カゲロウの翅を想わせた。やがてそれは開かれたが、うつろな、ガラス玉の瞳は何も見ていなかった。

 唇が、二匹の虫のように震え、近寄せたかれの耳に、こうささやいた。

「アリスが死んでいるわ。鏡の家の中で」

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