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瓶詰めの蝶々 第四十二回

「なあ」

 突然猫が不吉な声で鳴いたように、竜也はびくりと、肩を上下させた。

 神経がたかぶると、ふだん呑気さに覆われているぶん、悟は六番めの感覚器が、研ぎ澄まされるのだろうか。吸い寄せられるように、壁に近寄り、そこにかけられた肖像画の前に立つ。

「遠目にも、どこか変だと思ったんだ。見ろよ」

 ジーンズのポケットに電話を突っ込み、竜也は言葉に従った。アリス……由井崎怜子の肖像の上に、赤い絵の具がべったりと、なすりつけられていた。

 絵の具はほとんど乾いておらず、画用オイルのにおいを、生々しく放っていた。チューブが半分も空になるほど、筆にたっぷりと含ませ、そのまま力任せに画面を薙いだ、といった感じだろうか。もとから額に、ガラスは嵌められていないので、仕事自体は何秒も要さなかったろう。

 鋭利な刃物で、人の心臓を貫くように。

 ぬらぬらと光沢を帯びたチャイニーズレッドは、画中の「少女」に加えられた致命傷から、ほとばしったとしか思えなかった。

「……カッシング」

「え?」

「なあ、そう思わないか。むかし、ボナールという画家がいてさ、展覧会に出した絵が、どうしても気に食わない。印象派っていうのかな。かれらにとっては、タッチの一つか一つが生命なんだね。それで密かに、パレットと筆を忍ばせて、自分の絵の前にさりげなく立つと、人目がなくなったところで、ちゃっちゃっと二つ三つ、タッチを加えてさ。にんまり満足げに笑うと、また素知らぬ顔で立ち去ったんだって。嘘かほんとか知らないけどさ」

「何を言ってるんだ?」

 虚ろな目の下で、悟は口の端を歪めて微笑んだ。

「この赤が、画家の最後の仕上げなんじゃないか。これでやっと、絵が完成したんじゃないかって。なあ、そう思わないか?」

 戦慄に抗いながら、竜也は悟の腕を引いた。

「とにかく、ここを出ようぜ。紅葉ちゃんを見つけるのが先だ」

 いつもなら、優柔不断さのあらわれで、簡単に引かれてゆくのに、まるで本来の体重を取り戻したように、重い。それでも強引に廊下へ連れ出すと、ようやく我に返ったように、小さな目をしばたたかせた。

 強いて笑顔を見せ、竜也は言う。

「カッシングと幽霊の話は、するだけ無意味だ。まったく同じものを指しているとしても。それに、昨日の瓶詰めの蝶に比べれば、幼稚な悪戯じゃないか。金銭的損害を、勘定に入れなければね」

 自身に言い聞かせるように捲したてた。とたん、理由のわからない、頭を殴打されたような衝撃に見舞われた。鉄製のステッキの握りが、逆さに振り下ろされる幻影が浮かんで、消えた。覚えずこめかみを押さえ、うめき声を洩らした。

(……なぜだろう? なぜ、由井崎怜子の肖像画だけ、アリスの服を?)

 食堂へ向かう。

 廊下の上を這う色ガラス。とくに赤い色が、濃く、まるで血を滴らせたように見える。

「使用人部屋」の扉は、二つとも閉ざされたまま。相変わらず、コトリとも音がしない。

 ダイニングのドアは開いていたが、戸口から眺めても中に誰もいないのは、一目瞭然だった。

「母屋にいるのかな」

 悟の声が、やけに遠く感じられた。

「なにが」

「北村さんだよ。絵を見たいと言っていたし。母屋にいるのかなと思って」

 家政婦は、どこにいるのだろう。

 少なくとも、ゆうべ竜也は汗だくでうろつき廻ったのだし、風呂を使っていた人物もいた。けれども廊下を見る限り何の痕跡もないので、すでに家政婦が、みっちりと掃除を行った後であることは間違いない。

 母屋を訪ねる前に、家政婦に紅葉の行方を尋ねるべきだろうか。けれども、閉ざされた「使用人部屋」の戸を叩くほうが、はるかに気が重い。そもそも二つ並んだ部屋のうち、どちらが櫻井の部屋なのか。

 ノックしたとたん、獣じみた姿で襲いかかってくるトビイのイメージが、かれを怖気づかせた。

「そうだな。母屋へ行ってみるか」

 彼女は決してそこにはいない。 

 そんな予感を、懸命に打消しながら、玄関に下りた。ゆうべ彼女が履いて出た靴は、どこにも見当たらなかった。

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