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瓶詰めの蝶々 第四十一回

  ◇

 七月二十五日、金曜日。

 運命の日。

  ◇

(あれは、だれだったのだろう?)

 意識が朦朧としていたし、湯気のせいか、視界は不明瞭さを極めた。けれども、白い背中にくっきりと浮かび出た、蝶のタトゥーが、幻覚だったとは思えない。

(幻覚、ではなかったはずだ)

 竜也は爪を噛んだ。白昼夢を見やすいタイプという自覚はある。思えば例の、幼少の頃目撃したムササビにしても、幻影ではなかったと断言できる自信はない。

 が、しかし……

「なあ、食堂かリビングを探すべきじゃないかな」

 悟の声に、一抹の不安が嗅ぎとられた。紅葉がここにいない。ベッドに横になった形跡もないというのは、どう考えても奇妙だ。

「そうだな。ちょっと降りてみるか」辺りを見わたして、首をかしげた。

「おれ、電話どこに置いたっけ」

「リビングだろう。夕べ、テーブルに放り投げてるのを見たぞ。なあ」

「うん?」

 悟は口ごもり、一週間は髭を剃る必要がなさそうな顎を、つるりと撫でた。

「イの字がつくんだよな、三人とも」

「なんだって」

「井戸の井の字さ。母屋の二人は井澤と由井崎、それにあの家政婦が、櫻井だろう。しかも井の字が、上から下へ順に降りてゆくんだな。井澤、由井崎、櫻井、と。まあ偶然なんだろうけどさ」

 言葉を切ったまま、悟はびくりと振り返った。視線は裏窓のほうへ、じっと向けられたまま。木立の奥にうずくまっているであろう、母屋のほうから、ごくかすかに、ピアノの音が聴こえていた。

 人の死を悼むような、あるいはおのれの運命を嘆くような調べが、切々と奏でられ、やがて、ふっつりと途絶えた。静寂の重さに耐えかねて、悟が口を開いた。

「ベートーヴェンだったよな。たしか、三一番の第三楽章」

「ああ、最後から二番めのピアノソナタだ」

 何げなく口にしたとたん、理由のわからない戦慄が、竜也の背中を這い廻った。

(最後から……二番めの?)

 階下は静まり返っていた。

 塵ひとつ落ちていない、磨き上げられた廊下に、二人の足音が異様に大きなこだまを返した。まず戸を開けてリビングに入ったが、だれの姿もない。

 微風がレースのカーテンを膨らませ、蒼白い外光を招き入れた。夜明けを告げる蜩の声が、かえって静けさを強調するようだ。やはり隅々まで掃除がゆき届いており、ソファや椅子に、無造作に身を投げかけた者がいたようには、とても見えなかった。

 無機質な光沢を浮かべたガラスの小テーブルの上に、竜也の電話が異物じみて転がっていた。着信を示すオレンヂ色のダイオードが、まるで危険信号のように点滅していた。

 昨夜の日付で、メールが一通だけ届いていた。見る間に眉をひそめた竜也の顔を、悟が訝しげに覗きこんだ。

「だれから?」

「勅使河原さんだ。どうやらここはやばそうだね。とにかく、紅葉ちゃんを探さなくちゃ」

 メールを開くのが遅すぎたことを、けれど間もなくかれらは、思い知るだろう。

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