瓶詰めの蝶々 第四十回
這うように階段を下りた。
一階の廊下へたどり着いたとき、喉の渇きは皮膚の渇望へと変わっていた。どうしても一分以内に、頭からシャワーを浴びなければ、気が変になりそうだった。
ここの常夜灯も、ことごとく消えていた。左側に並ぶステンドグラスは、闇に塗りつぶされ、突き当りの、玄関の上部の磨りガラスが、妖怪じみた、蒼い半円形を描いていた。
(雨は、止んだのか)
水の滴る音は、右側からのみ、聴こえてくるようだ。
その音に引き寄せられるように、真っ暗な廊下を手探りで進んだ。リビングもダイニングも、その反対側に並ぶ「使用人」たちの部屋のドアも、ぴたりと閉ざされたまま、静まり返っていた。水の音は、たしかに、浴室から洩れてきていた。
中に灯りがついているらしく、ドアの隙間が白く縁どられていた。
依然として、思考は停止したまま。飢えた獣が森をさまよい歩くように、浴室の前へたどり着き、ドアにしがみついた。どん、と意想外に大きな音が、廊下にこだまを返した。岩の扉を想わせて、ドアはひどく重く感じられた。
脱衣所は湯気に覆われていた。なのに、やけに空気は寒々しく、覚えず両腕をさすったほど。その先の浴室にだけ、灯りがともっており、晩秋にたちこめる霧のような、冷たい湯気の向こうで蒼白くかすんで見えた。
浴室へ通じるドアは、開いたまま。
ぼんやりと蠢く人影が、誘蛾灯に飛びこんでくる虫のように、不意に視界に入った。
殻を剥かれた甲殻類のような、白い、女の裸身だとすぐに気づいた。
こちらに背を向けているらしく、とても長い、濡れた黒髪が、滴る水の中で踊っていた。
爪が食い入るほど柱をつかんだまま、自身の体は硬直したように、その場から離れられなかった。ほっそりしていながら、妖艶な幅を保つ、女の背から臀部へ至る線が、爬虫類めいて左右に揺らめいた。
その右肩だった。
右肩から、白い背の半分にかけて、べったりと覆うようにして、蒼い、巨大な蝶の翅が貼りついていた。
あっ、と、覚えず声が洩れた。
女が振り返るとき、長い黒髪の一本一本が鋼でできているように、ばさりと揺れた。垂れ落ちる髪の間から、片方の、切れ長の目が、じっとこちらへ注がれていた。
「見 た わ ね」
◇
一刻も早く、その家を出るべきです。
たとえ失礼にあたっても、食事の誘いはお断りになって。すぐにタクシーをお呼びください。
厭な予感がするのです。
勅使河原
◇
だからあれは、夢だったのかもしれない。
記憶はふっつりと、そこで途切れているし、気がつけばソファベッドの上で、昏々と眠っていたのだから。
「おまえ、何ともないのか。あのワイン、どこか変だったろう」
レースのカーテン越しに入り込む薄明りの中で、悟は戯画的に目をしょぼつかせてみせた。かれは語を継いだ。
「いや、おれは酒がデタケンの次に苦手だからさ、口をつけただけさ。それでも、ふらふらになっちまったからな」
外では夜が明けかかっているのだろう。けれど、杉木立とカーテンにさえぎられて、部屋の隅々にはまだ、夜の闇がこびりついている。
竜也は自身の頭を叩いた。
「くそ、まだがんがんする。紅葉ちゃんは……」
ベッドに目を遣る。
彼女の姿はそこになく、ベッドメイクされた状態のまま、シーツには皺ひとつ見当たらなかった。
殴打されたような強烈さで、右肩から背中にかけて、蝶の刺青がほどこされた女の裸身が、脳裏にフラッシュバックされた。
(見 た わ ね)




