瓶詰めの蝶々 第三十八回
「どうぞ、グラスを」
耳のすぐ後ろで響いた声が、背筋を凍りつかせた。
(あれがいけなかったんだ)
どす黒い液体の入った瓶をかかげて、家政婦が見下ろしていた。
赤ワインとおぼしいが、銘柄はわからない。まさか古城の地下室から、盗み出してきたわけでもあるまいが、ラベルにはいかにも古拙な、酔って踊る農民たちの木版画が刷られていた。
コドピースを装着した農夫の一人は、ドレス姿の骸骨と踊っていた。
だとすれば、このワインの銘柄は、死の舞踏……
「いえ、未成年ですから」
「真似事だけで、構いませんのよ」
絵莉子が言い、由井崎怜子があとをうけた。
「そう、まだ二十歳になってないの。うらやましいわ、若くて。なにしろこの家の主が、外国人だから、めったにないことだけど、お客を迎えるときは、とっておきのワインを開けるのが、しきたりみたいなものなのよ。エルの言うとおり、口をつけるだけで結構」
エルと呼ばれて、女主人が瞬時、眉をひそめるのがわかった。
歯車の音が聴こえないのが不思議なほど、櫻井晃子は機械的な動きで、まったく同じ分量ずつ、自身の次に、紅葉、悟の順にグラスを満たした。
テーブルの向こう側へ廻ると、真っ先に、主のいない椅子の前のグラスに注いだ。
「藤本さまとお友達の健康を祝して」
目の高さにかかげたグラスの後ろで、絵莉子が微笑んだ。光の加減か、唇がみょうに赤く映え、三日月の形に歪んだ。呪縛されたように、口へグラスを運ぶ手を、止めることができなかった。酸味で舌が溶かされるような恐ろしさから、慌てて飲みくだした。
(きっと、あれがいけなかったんだ)
食事が始まり、会話が交わされた。なかば無意識にナイフとフォークを動かしながら、自身も儀礼的な言葉を、幾つか口にした気がする。
頭が重い。
それを持ち上げるたびに、視線がどうしても、不在の席に引き寄せられる。異様に高い椅子の背もたれには、真珠と銅の草花で縁どられている。
まるで主人そのものであるかのように、狂王の玉座は威圧的に君臨している。
「どうなさいました?」
床でフォークの弾ける音を聴いて、初めて取り落としたことに気づいた。すでに家政婦が身を屈めており、奥で絵莉子が、取り繕うような表情で、首をかしげていた。
「いえ、少し酔ったのかもしれません」
奇怪な鳥を想わせる、けたたましい笑い声が薄闇の中で響きわったった。




