瓶詰めの蝶々 第三十六回
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雨音は依然として、山荘のリビングに、虚ろなこだまを返していた。メールの入力に夢中になっていると、蒼古たる礼拝堂の中にでもいるような、錯覚を起こさせるほどに。
男の子二人は、ポロシャツと、ストレートのパンツに着替えていた。さすがにスーツは持ち込んでいなかったが、一応ディナーに招待されたのだから、Tシャツに短パンというわけにもゆかない。音大生ゆえに、そのへんは気を遣うほうだ。
紅葉はまだ着替え中なのか、二階に上がったまま下りて来ない。さも退屈したように、携帯プレイヤーのヘッドフォンを外しながら、悟が尋ねた。
「長いメールだな。だれに打ってんの?」
「勅使河原さん。一応、現状を報せておこうと思って」
悟は何か言いかけたが、無言でコードを丸め始めた。漠然とであるが、おそらく本能的に、竜也と似た不安を感じているのだろう。ここまで長いメールになるとは、竜也も思っていなかった。強いておどけた素振りで、悟がつぶやく。
「謎の家政婦どうし、ぜひ対決させてみたいよ」
送信ボタンを押したところで、紅葉があらわれた。
「まだお迎え、来ないんだ。ずいぶん待たせるわね」
招待されることを、予期していたわけではあるまい。けれどもこの黒い夏のドレスを着たまま、発表会のステージに立ったとしても、まったく違和感はないだろう。ふんわりと膨らんだ膝丈のスカートが、腰のリボンで、きゅっと絞られている。少女らしい提灯袖。大胆にカットされた襟ぐりから、白いレースの襟が折り返されている。
男の子二人は、ぽかんと口を開けたまま、しばし無言。ラフな恰好以上に、古風なドレスは彼女の美点を引き立てるかのようだ。
「夕食のご用意ができました。どうぞ、こちらへ」
例によって音もなくあらわれ、櫻井晃子がうやうやしく頭を下げていた。
「本来なら主人が、お迎えに伺うべきなのですが、体を悪くしておりますもので」
井澤絵莉子を指して言うのだろう。
「病気なんですか」
「紫外線や雨を、肌が厭います」
吸血鬼、という言葉を竜也はかろうじて呑みこんだ。
かれらが部屋を出た直後、ガラステーブルの上で、竜也の電話が着信音を鳴らしたが、雨音に掻き消され、だれの耳にも入らなかった。
雨垂れの激しいポーチ。ガスを想わせる薄明りの中に、動物のような影がうずくまっていた。三人が立ち竦んだのは、その目の奥に、蒼い光が宿ったから。
今にも飛びかかろうとする野獣のような姿勢で、トビイはぎこちなく一礼した。
竜也と悟に、一本ずつ傘をわたし、最後の一本を紅葉の頭上に差しかけた。すでに先頭を、櫻井が振り返らずに歩いて行く。
苔むした石畳の小路。灌木に覆われているだけかと思えば、頭上には鉄製のアーチが組まれ、ひねこびた薔薇が絡みついていた。小さな怪物が潜んでいるように、雨垂れが不規則に傘を叩いた。
前庭に出た。
ごく狭いものだが、別荘からはまったく見えなかったため、このような空間が存在したことが、かれらには意外だった。芝生に覆われ、弱い照明の中に、花壇が蒼白く浮かんでいた。ギリシャ神話をモチーフにした、どこか背徳的な彫像が点在していた。
黒い葉叢に覆われて、「母屋」の全体像は見えない。ただ前庭の先に、開け放たれた玄関が、ポーチの白い階段に支えられていた。
「靴のままで結構です」
持ち主が外国人であっただけに、文化の違いを感じさせる。小ぢんまりしているが、いかにも瀟洒な「西洋館」。玄関ホールはたっぷりととられて、天井も高い。ゆえに、中心から一本の鎖で吊られた灯火だけでは、まるで蝋燭に照らされたように暗い。
それでも、ウッチェロの絵に出てきそうな、赤と白から成る市松模様の床は、踏むのが憚られるほど、磨き上げられているのがわかる。
「鏡の国の、チェス盤のようだわ」
誰に言うともなく、紅葉がつぶやいた。その声が、なぜか竜也の背筋に、冷たく突き刺さる。
アール・ヌーボーふうにカーブを描く階段が、剥き出しの回廊へ通じている。古めかしい手燭をかざして、家政婦が先に階段を上る。ドアの軋む音に驚いて振り返ると、扉の間の闇に、トビイの蒼く光る目が浮かんで、消える。
扉の閉ざされる音が響いた。
回廊には、絵がかけられていた筈だ。額をとめる金具があり、壁紙が変色して、四角い跡を残している。明らかに最近になって、故意に外されたとしか思えなかった。
家政婦が、扉のひとつをノックした。返事を待たずにノブを廻すと、手燭を持った手でドアを支え、もう片方の手で三人を招き入れた。
「ようこそいらっしゃいました」




