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瓶詰めの蝶々 第三十五回

 作家を標榜する私であるが、さほど繊細な神経の持ち主だとは思わない。少々ウツの気はあるものの、薬漬けになるほどではない。まして幻覚などとは無縁である。

 にもかかわらず、

「まるで動いているように感じるんだよ」

 見つめているうちに、どれもこれも気味の悪い百八匹の妖精どもが。

 妖精というより、ヒエロニムス・ボスの描く妖怪に近いものだけど。たしか、M・R・ジェイムスの怪奇小説に、絵の中で殺人事件が進行する話があっただろうか。ちょっとあれを思い出した。

 それにも増して、妖精どもの背後に描かれた、薄笑いを浮かべた顔が、しだに大きく見えてくるのが、何とも言えず不気味だった。

「カッシング自身の顔だと言われていますね」

 オリジナルの『妖精の鉄槌』が、精神病院で描かれたことは、堀川から聞いていた。言語道断な傷害事件を起こした上での、入院という名の幽閉であったことも。

 むろん、狂気と罪悪を容易に結びつけるべきではない。ことに芸術家にとって、狂気は美の源泉となり、あるいはまた、狂気に追われ、呑みこまれないための制作が、草間彌生のような天才を生んだりもする。

 けれども、おそらく妖精の王オーベロンに擬したのだろう、カッシングの「自画像」は、罪悪そのもの。

 罪悪と狂気が結合した、ジャック・ザ・リッパーの顔だった。

「では、現在画家が失踪中であることも、ご存じですね」

「うん。いったいなぜ、マスコミは画家の失踪を、まったくと言っていいほど、報道していないのだろう。まあ、高尾山に身を潜めていたことさえ、ほとんど世間には知られていなかったのだけど」

「捜索願が出されるなんて、日常茶飯事でしょうから。未成年でない限り、失踪はニュースになりません。有名人が雲隠れすることもまた、別の意味で、ありふれています。古くは太宰治の場合みたいに、遺体が発見されて、初めてセンセーショナルに報道される傾向にあるようです。それに……」

「うん。言いたいことはわかるよ。ずいぶん情報操作が巧いんだよなあ。例の……『母屋』にいるという人物は」

 井澤絵莉子。

 どうやら藤本竜也のメールによれば、それが母屋を取り仕切っている人物の名であるらしい。リチャード・カッシングの内縁の妻であり、敏腕の秘書でもある。画家の「隠棲」をサポートするかたわら、並み居る老獪なコレクターたちに涎を垂らさせ、絵の値段をこれでもかと吊り上げてきた。

 すっかり冷めたコーヒーを、私は喉を鳴らして呑みこんだ。

 強いて冗談めかして、話題を転じた。

「しかし藤本くんも、とんだ災難じゃないか。自分の家の別荘が、いつのまにか化け物に乗っ取られていたようなものだろう」

 彼女はあらぬ方向へ視線を向けたまま、黙っていた。私は言葉を継いだ。

「謎の家政婦に、怪力の下男。蝶の刺青の女と、一向に姿を現さない女主人。のみならず、行方不明の画家の影が、重々しい杖を引きずりながら、家の中をうろついているという……レ・ファニュのオーソドックスな怪奇小説を読むようだよ」

 美架の沈黙が、ついに私の笑顔を凍りつかせた。もともと愛嬌のある表情など見せない女だが、そのうえ険しい皺を、眉間に寄せていた。

「どうしたの?」

「似ているのです」

「えっ」

「北鎌倉の有坂家と、同じ空気を感じるのです。これ以上ないほど張りつめた、一触即発の空気を。崩壊寸前の、血の予感を」

 口にしかけた反論は、背筋を貫く冷たい戦慄におし留められた。

 晩秋から初冬にかけての、北鎌倉の情景がフラッシュバックされた。血の色をした紅葉が……

 私の声は、おのずと震えた。

「きみは、藤本くんに返事を打ったのかい」

「ええ。一刻も早く、その家を出るようにと。ですが、返信はまだありません」

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