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瓶詰めの蝶々 第三十四回

「例の、音大生の男の子だね。高尾山の別荘に行っているとか」

 昨日八王子で、彼女自身の口からそんな話を聞いた。藤本竜也とは、まだ一度も会っていないが、美架の物語を通じて、顔なじみのような気がしていた。

 軽い音をたてて、彼女はカップを置いた。

 エーゲ海ふうミノタウロスバーガーは、手品のように消えており、包み紙は正三角形に折られていた。

「そうです。実家の持ち物だった筈のその別荘に、赤の他人が棲んでいたとすれば。酒井さんはどう思われますか?」

「その話、ぜひ聞きたいね」

 底に残ったコーヒーを飲みほし、私は紙コップをくしゃりと潰した。

「きみもコーヒーでいい? なんならあの、エジプトふう大砂嵐バーガーとかいうのを買ってこようか」

 彼女の無視を見届けて、私は席を立った。

 どうせ二人ともブラックしか飲まない。トレーを断り、カップを両手に戻ってくると、隣の劇団員たちはいなくなっていた。雨足がまた強まり、音楽を掻き消した。辺りが急に、夜の気配を帯びたような気がした。

「ずいぶん長いメールでした。夕食の準備を待つ間に打ったものらしく、それも母屋の人たちに、初めて招待されたのだとか」

「母屋?」

「はい。藤本竜也くんが一度も訪れなかった四年の間に、別荘の真後ろの森の中には、もう一軒……いえ、二軒の家が建てられていたのです。その家には……」

 リチャード・カッシングという名を、私は知っていた。

 それはこの画家の絵を、例の悪趣味の権化である堀川秋海が、たいそう欲しがった騒ぎによる。

 堀川秋海。時に「蒐怪」とも号するが、こちらのほうが本人のイメージに近い。人呼んで、文壇の妖怪。

 主に文壇を根城に、「クリエーターの卵」たちをぞろぞろと引き連れ、大きな顔で六本木界隈をのし歩いている。その顔はまた、永田町のお偉い方にもきくという。私としては最も忌むべき人種なのだが、なぜか妙に気に入られ、仕事を廻してもらっている弱みもあって、しぶしぶかれの子分の末席に名を連ねている。

 そんな堀川が、八方どころか三百六十度手を尽くしたところで、カッシングの絵は手に入らなかった。

 理由は言うまでもなく、カッシングが一握りのコレクターにしか絵を売らないことによる。また、どのコレクターに当たってみても、頑なに転売を拒んだ。

 画家本人ではあるまい。

 画家の周囲にいる何者か……雑務を受けもつ何者かの手腕によって、決して絵を手放さないよう、約束させられたフシがある。

(酒井くん、今度ばかりはお手上げだ)

 あの男にしては珍しい弱音が出る頃、意外な方面から一枚の絵が落ちてきた。

「きみもよくご存じの、マルセル・デュシャン氏さ」

 もちろん本名ではない。「火星クラブ」の事件における、私や美架を巻き込んでの大騒ぎは、記憶に新しい。デュシャン氏は内閣の進退を左右するほどの大物であり、テレビで堀川が、欲しい欲しいとわめいているのを偶然見かけ、

(それなら、私が一枚所持しているよ)

 破格値であっさり譲ってくれたという。

 私も実物を見せてもらったが、有名な『妖精の鉄槌』を、画家みずからが縮小サイズにコピーしたもの。シャバに出たての頃、金を得るための片手間仕事とおぼしい。

 とはいえ、私はしばらくの間、その十号にも満たない正方形のキャンパスから、どうしても目が引き離せなかった。

 オリジナルのほうは、百号の大作である。中に描かれた妖精を数えれば、百八匹いるという。それらが一匹も余さず、緻密な筆致で十分の一サイズに写しとられていた。驚嘆すべき超絶技巧と言わざるを得ない。

「技術ではなく、絵画としての印象を、どうお感じになられましたか」

 美架の声が、なぜか背筋に冷たく響いた。いたずらにきらびやかな電灯を見上げ、私は覚えず眉をひそめた。

「じつに、じつに不快な絵だったよ」

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