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瓶詰めの蝶々 第三十二回

 上目遣いに記憶をたどり、竜也はすぐに首を振った。

「とても、綺麗な肩だったよ。肌そのものが、別の生き物みたいだ……というのは、相手役のセリフなんだけど」

 由井崎怜子が演じるナオミを支配し、ついには支配されるに至る。相手役の中年男は「私」という一人称で、やたらモノローグが多いが、最後まで役名はわからない。演じるのは、かつて新宿や下北沢の小劇場で暴れていた、個性派俳優だった。

 狂気を感じさせる迫真の演技を見せたが、かれもいまだ無名のまま。たまに憎まれ役でテレビに出ている程度。なかなか日本では、ジェラール・ドパルデューのような役者があらわれない。数字と慣れあいの芸能界は、才能「だけ」の持ち主を、檜舞台へ押し上げる土台に欠く。

 せつなげな溜め息とともに、竜也は語を継いだ。

「絶世の美女、というわけじゃないんだよなあ。顔立ちはむしろ、謎の家政婦のほうが整っている」

「謎の……? ああ、櫻井晃子ね」

「なのにおそろしく綺麗に見えるのは、スクリーン越しに匂ってくるような、あの肌のせいなんだろうなあ。入れ墨しちゃったのは、本当にもったいない」

「そうかな。おれはそっちに目が釘付けだったけど」

「おまえは変態だからな」

「変態言うな」

 呆れるでもなく、真面目な顔で耳を傾けていた紅葉が、ぽつんとつぶやいた。

「谷崎の小説にも、『刺青』というのがあったわね。変態を文学にまで昇華させた、日本における第一人者だわ」

 瓶詰めの蝶の片翅は、とっくにリビングから取り退けられていた。戦慄を押し隠しながら、竜也が言う。

「これで残る一枚の肖像画が、イザワエリコということになるね。そういえば、さっき由井崎さんに、耳打ちされてたみたいだけど、何て言われたの?」

 花のように彼女が頬を染めるのを、二人の男の子は見た。

「秘密」

 これも谷崎の小説のタイトルにある。

  ◇

 快晴だった日中とうって変わり、夕方からまた雨が降り出した。

 うっかり外出してしまった私は、山手線の窓ガラスに叩きつけられる水滴を見て、すっかり怖気づいた。駒込駅前の広場では、石畳が一様に白くかすんで見えた。葉の茂った桜の枝が、雨の重みで揺さぶられている。

 見上げるとぶ厚い雲が、夕闇を吸い込みながら、嬉々として膨張するようだ。私は溜め息をつき、腕時計を眺めた。雨粒だらけの文字盤を覗くと、ようやく六時を廻ったばかり。

 このまま帰れば「満身創痍」となることは目に見えているが、かといって傘を買うのはいかにも惜しい。

(彼女、まだいるな)

 おそらく、ちょうど彼女は、夕食の準備を終えた頃ではあるまいか。私がいれば、必ず引き留めて長居させてしまうが、留守ならばもちろん、勝手に鍵を閉めて帰ってもらっている。

 傘も買えない三文文士の分際で、家政婦を雇うなど烏滸がましいことはわかっている。けれども週に一度だけ、料理や家事とはまた別の、「特異な才能」を持つ彼女の話を聞くことは、作家として必要な投資なのだと、むりやり考えている。

 すでに湿っているポケットから電話を引っ張り出し、少し考えてから、部屋の番号へかけた。ワンコールで受話器がとられた。速い。そして無言である。

「あ、きみ、まだいたの」みずから雇っておいて、失礼な言い草だ。

「はい」

「もしもう帰るんなら、駅へ寄るついでに、傘を持ってきてくれないか。きみのぶんも、適当に傘立てから抜いていいからさ」

「どちらまで?」

「公園のほう」

「承知いたしました。わたくしは持参しておりますので。十三分後に参ります」

 モスグリーンの傘をさして、勅使河原美架があらわれたのは、きっちり十三分後。

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