瓶詰めの蝶々 第三十回
◇
「朝食のご用意ができております」
まだ三人が昏々と眠っている小ホールに、櫻井晃子があらわれた頃には、夏の強い陽ざしが、じりじりと杉木立を焼こうとしていた。
七月二十四日木曜日。午前九時ちょうど。
「え? 飯? 作ってくれたんですか」
寝ぼけ眼で、ソファベッドから起き上がった、竜也の応対は、まだいまひとつ要領を得ない。切れ長の目で見下ろしたまま、晃子は薄く微笑んだ。
こんな笑い方、昨日は一度も見せなかったのではないか。
「食堂のほうに、ご用意しておりますが。それとも、こちらへお運びいたしましょうか」
「いえ、下りてゆきますから」
「お待ち申し上げております」
例によって深々と頭を下げ、家政婦はホールを出た。階段を下りる彼女の足音が、例によって聴こえない代わりに、コーヒーの香りが部屋に満ちていることに気づいた。入り口近くにカートが残され、三つのカップからたちのぼる白い湯気が、朝の光に溶けこんでゆく。
「ルームサービスとは豪勢な」
悟が、カップの一つを手に取った。香りを楽しむ、というより、毒物を前にした犬のように鼻をひくつかせながら。
「たしかに。まるで意向が変わったみたいだな」
「意向って、だれの?」
「イザワとかいう人の。昨日とは考えがうって変わって、引き留めにかかっているみたいだ」
う……ん、
という甘い声が、二人の背中を這った。振り返ると、薄い掛布団をなかば跳ね飛ばした、紅葉のしどけない寝姿が、目に飛び込んできた。
パジャマではなく、膝丈のTシャツである。一見シンプルなワンピースのようだが、TシャツはTシャツにほかならない。しかも漆黒の生地と、ほとんど剥き出しになった、ほっそりしているのに、みょうに肉感的な太腿の白とのコントラストが、あまりにも艶めかしい。
「うわぁ……」思わず悟が声を洩らした。
もし竜也がいなかったら、とっくに理性が冥王星の衛星カロンまで吹っ飛んでいたに違いない。
紅葉が基本、夜更かしであることは、元隣人として、竜也も知っていた。上が百を超えない低血圧で、朝がつらいと聞いた覚えもある。「低血圧の女」の寝起きが、これほど妖艶だということを除いて。
「あ、おはよう」
青春真っ盛りの、二人の男子の思惑などには完全に無頓着に、ややかすれた声で、紅葉はつぶやいた。無意識に裾を直す仕草が、悟の理性を再びアトラスVに詰め込もうとした。
「赤血球に沁みるような、素晴らしい香りね」
吸血鬼カーミラ。
という言葉が、竜也の脳裏を妖しく笑いながらよぎった。古城に棲む、女吸血鬼の物語であるという。かれは数ページで放り出してしまったが、竜也の「恩師」であり、新進気鋭の現代音楽家である中西青司が、
(もっとも理想的な作品のひとつです)
と絶賛していたっけ。
たしかに珈琲の香りを求めて、ベッドを這い出した紅葉の姿は、蒼古たる城の墓地をそぞろ歩く、女吸血鬼を彷彿させた。
食堂へ下りると、ホテルと見紛うような朝食が三人ぶん用意されており、家政婦の姿はなかった。
会話の糸口を掴めないまま、かれらはオニオンスープやクロワッサンを、黙々と口へ運んだ。どこかで監視していたとしか思えないような、絶妙なタイミングで、櫻井がまたコーヒーを運んできた。
「櫻井さんはコーヒー党?」
「紅茶がよろしかったでしょうか」
「いえ。上手に淹れるなあと思って」
たいていの女性には、美青年、藤本竜也のこの笑顔がクリティカルヒットするのだが、鉄仮面を被ったような、彼女の表情には微塵も変化があらわれない。それにしても、いくら山の中とはいえ、この季節に、首から手首まで、ぴっちりと覆った服では暑いのではないか。
まるで吸血鬼が日光を厭うように。
食器が片付けられ、三人はまた黙ってコーヒーを飲んでいた。沈黙に耐えかねたように、悟が何事か口にしかけたとき、ダイニングのドアが、不意に開け放たれた。




