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瓶詰めの蝶々 第二十九回

  ◇

(例のアレか……)

 岡田悟は、後頭部と膵臓あたりで、重いしこりがリンクしているのを感じた。

 いっそ起きてしまいたいのだが、鉛の潜水服を着たまま横たわっているように、体が重い。瞼も重い。寝不足だったり風邪気味だったり、あるいは前日にものすごく厭なことがあったときに、よくこんなふうになる。

 あるいは、夕食に変なものを食べたときに。

(待て待て、そいつを作ったのは、このおれにほかならない)

 再び紅葉に任せて、唐辛子の業火に焼かれるのは、いくら前世の報いとはいえ、ごめんだった。しかしいったい昨晩、何を作ったのだったか。一夜明ければ、きれいさっぱり忘れてしまうのが、かれの性分。

 過去よりも未来。昨日の満腹より今日の空腹。次は何を食べようか、といった思案こそが、かれにとって、最大の楽しみの一つと言えた。

 新聞は必ず暮らしの面から開いた。コンピューターや端末に登録してあるサイトのレシピは、数知れず。けれど、かれはそのまま眺めるよりは、せっせと印刷したり切り抜いたりして、スクラップするほうを好んだ。

 スクラップブックは十冊を超えていた。休日など、悟はベッドに寝転がって、手製の「レシピ本」を繰っては、無駄にお腹を鳴らしつつ、これらのうちのどれかが胃袋に収まるであろう未来に、思いを馳せた。スクラップブックの作成は、あるいは料理そのものと似ていたかもしれない。

 世の「料理研究家」のように、オリジナルのレシピ作りにはあまり興味がなかった。楽譜を演奏するように、忠実に再現するほうを好んだ。時おり「カデンツァ」を交えながら。

 料理しているとき、かれはある程度悩みを忘れた。ピアノでは、こうはゆかない。それは料理がかれの「専門」ではないから、無責任でいられるからに他なるまいが。それにしても、常に苦悩を要求してくる芸術と、料理との根本的な違いがここにあると言えば、世の命がけの料理人たちは怒るであろうか。

 芸術的行為は常に、自身に問いを突きつけられる。

 我々はどこから来たのか?

 我々は何者か?

 我々はどこへ行くのか?

 あるいはその問いに答え、また多くの場合は、その問いを拒絶し、なんとか逃れようとしてのたうちまわる。のたうちまわる行為そのものを制作という。ゆえにもちろん、

 作品そのものに答えはない。それがいくら「完成された」作品であったとしても。のたうちまわる軌跡に過ぎない。鑑賞者もまた、そのおぞましい軌跡から、永遠の問いを突きつけられるばかりである。

(何考えてんだ、おれ)

 テツガクは苦手だ。そんなことよりも、昨夜みずから何を作って食ったのか、それが疑問だ。

 唐辛子地獄はごめんだが、かといって究極の辛党、紅葉の舌の意向も無視できない。まず頭に浮かんだのがカレーだ。が、これはスパイス漬けのトゥ・トゥ・アンク・アーメン王がミイラ取りを手ぐすね引いて待っている墓穴としか思えない。ならば、

 ハヤシもあるでよ!

 稲妻のように閃いた直感に従って、「ゴールドベルク変奏曲」のアリアを終えて第一変奏を弾き始めた一九五五年のグレン・グールドのように、猛然と、猫背気味に、かれは玉葱の載った俎板の上に身をかがめた。

 料理としては、いろんな意味で、最も無難な部類であろう。牛には何菌が、鶏には何ウィルスがと騒がしい昨今、それでも肉が喰いたければ火を通すしかない。元気があれば何でもできる。火さえ通せば何でも食える。とはいえ、どこまでも悪夢的にできている世界では、キノコやフグなど、元気いっぱい煮ろうが焼こうが消えない毒に満ち満ちているのだが。

 しかし、「普通の」ハヤシライスに問題があったとは思えない。問題があったとすれば……

 ずん、と、後頭部が疼いた。

 まるで、どこかで突き鳴らされる、先端に鉛の入った、杖の音を聴いたように。

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