瓶詰めの蝶々 第二十八回
そう答えながら、竜也は一階のリビングにかけられた肖像画を思い出していた。
櫻井晃子とおぼしい、三つ編みの肖像を除外すれば、残りの二枚。古風なセーラー服か、アリスの衣装を着た絵のどちらかが、イザワエリコに違いなかった。
いずれにせよ、状況そのものが怪談じみている。登ってくる途中、紅葉が提案した百物語どころではなく、ぼそぼそと現状を語り合ううちに、夜も更けていった。
十二時を廻ると、さすがに山登りの疲れも出て、そろそろ寝ようということに。
「独りで寝たくないわ。怖いもの」
男の子二人は顔を見合わせたが、悟の目には困惑とは別の興奮も混じっていたようだ。
「おまえが客間で寝るか」
さりげなく、竜也に言ったものだ。ホールの床はフローリングなので、直接寝転がるには無理がある。
「いや、客間じたいは、北村さんのためにキープしておくべきだろう。ベッドだけ、ここへ運べばいい」
「それもそうだな」
ホールから客間へ通じる扉の鍵は開いていた。いざコンサートともなれば、楽屋に早変わりするので、簡素なベッドは、折り畳み式のキャスター付き。難なくホールへ持ち出せそうである。
「電灯は、つけっ放しにしておこう」竜也は提案したが、
「ごめんなさい。真っ暗でないと眠れないの」
アンニュイな響きが、悟の耳朶をおおいにくすぐった。やがて明かりが落とされ、三人とも、それぞれの布団に潜りこんだ。
いつのまにか、雨がやんでいた。
最後に眠ったのは、竜也ではないかと思われる。
不眠症の気はないものの、環境が変わると眠れないのは、幼少の頃から。神経がたかぶるのか、修学旅行では三度とも、徹夜だと騒いでいた友達の寝息を聴いた。
(何だ?)
階段を上ってくる足音は、たしかにまったく聴こえなかった。にもかかわらず、踊り場に、何者かが立っている。立ってじっと、中の様子をうかがっている。
そんな濃厚な気配を感じた。
何時頃だろうか。
枕もとに携帯電話がある。ちょっと手を伸ばせば届く筈だが、指一本動かせない。みずからの神経が透明で堅牢な糸と化して、きりきりと肉体を締めつけるようだ。これが、金縛りというものか。
把手を廻す音が聴こえた。
客間のほうだ。
ホール側のドアは施錠されていないが、踊り場側を紅葉がロックしたのを、竜也は覚えていた。案の定、がちりと鳴ってドアは抵抗した。冷たい闇を透して、次にかれの耳に届いたのは、ゆっくりと鍵を廻す音だった。
金具が外れる響きが、陰々と闇を裂いた。
ドアが軋んだ。
把手をつかんだまま、その何者かは、客間を覗きこんでいる。闇の中、爛々と輝く眼光ばかりが、竜也には見える気がした。
咽がからからだった。
なんとか跳ね起きようと抵抗するのだが、夢魔たちに群がられ、すさまじい力で全身を組み敷かれているように、脂汗ばかりが流れた。何十秒か、あるいは何分間かの沈黙の後、極めて静かに、ドアが閉ざされた。とたん、
ごとり。
硬い杖を、床に打ち付ける音が響いた。
それっきり何のもの音も聴こえず、竜也はほとんど気絶に近い眠りへと、引きずりこまれていった。




