瓶詰めの蝶々 第二十七回
三人とも窓に近寄り、竜也がカーテンを引き開けた。
予想されたとおり、木立に黒々とさえぎられ、何も見えなかった。この辺りはほとんどが杉なのだが、別荘の裏手は椎などの雑木が多く、灌木も密なので、盛夏ともなれば、それらが濃緑色のカーテンの役目を果たしているのだろう。
「何も見えないなあ」
言わずもがななことを、悟がつぶやく。ガラスに鼻がぶつかりそうなほど、次に紅葉が身を乗り出した。
「ちょっと、あれ」
鬼火!
という言葉が、竜也には最初に浮かんだ。まるで情念が燃えるように、その橙色の炎は、妖しく揺らめいた。
こちら側に面した窓に、明かりがともされたのだろうか。それにしても、なぜあんなに光が揺れるのだろう。古い小説などに出てくる「手燭」という単語が、どうしても思い起こされる。
光と闇の緩衝地帯。
それが人影を描く。
女である。
それも裸身ではないかと思われる。竜也が目を見張ったのは、その肩に、蝶の翅が生えているのをみとめたから。
息を呑んだ瞬間、明かりが消えた。ふっ、と手燭を吹き消す音が聴こえた気がした。
◇
「なぜ追い出さなかったの?」
闇の中、詰問する声を背後に聴きながら、井澤絵莉子はゆっくりと長い髪を掻き上げた。
「理由がないからです」
「追い出さない理由なら、あるというわけ?」
幽かに肩を上下させ、絵莉子は、つ、と窓ガラスに指を這わせた。黒い、網の目状の木立を透かして、「別荘」の二階にともる窓明かりが見えた。
窓辺に貼りついているらしい、人影が、うごめくさまも。
「あなたは頭が好い」
さらに肩が揺れた。くっくっと、笑っているらしい。
「何が可笑しいの」
「だってそうでしょう。まさか、『別荘』の持ち主が、ひょっこり訪ねて来ようとは」
のたうつように枝が揺れて、無数の雨粒を振り落とした。ばらばらと、窓ガラスに付着する水滴は、透明な虫のようだ。
「気に入らないわね、そういう言い廻し。エル、まるであなたが、三人のうちで一番頭が好いんだと、主張しているみたいで」
「そんなつもりは、なかったのですよ」
「また、虐げられたいの?」
振り向いた。
暗がりに慣れた眼に、自分と同程度に髪の長い、女のシルエットがくっきりと浮かんだ。切れ長の眼から放たれる、氷のように冷たい眼光が、彼女を射すくめた。
ひゅっ、と乗馬鞭を鳴らす音が、闇を裂いた。
◇
再びカーテンが閉ざされた。
かれらが黙りこむと、虚ろな雨音が、家全体を包み込むようだった。階下はひっそりと静まり返り、少なくとも、二名の人間がそこで生活しているとは、想像できなかった。
この部屋には時計がない。竜也はポケットから電話を出した。とっくに九時を廻っていた。
「篠つく雨。深まりゆく闇。怪異が起きるには、もってこいの雰囲気ね。近世の怪談噺では、ほとんど必ずと言っていいほど、雨がかかわっていた」
という、紅葉の不気味な発言が終わるか終らないうちに、ベートーヴェンのピアノソナタ第十七番ニ短調「テンペスト」第一楽章が、不意に鳴り始めた。悟は椅子から巨体を飛び上がらせたが、これは竜也の電話の着信音である。
「あ、お父さん。どうなってるんだ、これ。ああ……忘れてたじゃないだろ。いったいどういう契約をしたの? 家の裏手に、さらに家が建っててさ。うん、そうだよ。カッシングとかいう画家の、その、愛人だとかいう話さ。そこにどんな人たちが住んでいるか、わかる?」
電話をきって、竜也は深々と溜め息をついた。
「だめだあの親爺。よくあれで経営者面していられるよ」
「何もわからなかったのね」
「うん。ただ、ここの敷地自体も、けっこう八王子市とモメてるそうだ。あまつさえ、裏手の森を切り開いて家を建てるなんて、もはやグレーゾーンを飛び越えて、レッドカードの域なんだって。親父としては、収入さえあれば、赤も黒も関係ないという態度さ。まったく、同じ血が流れているのが恥ずかしくなるよ」
悩ましげに髪を掻き上げながら、紅葉が尋ねた。
「それで、この別荘を貸す契約をした相手は?」
「外国人ではなく、イザワエリコという人の名義らしい」




