瓶詰めの蝶々 第二十六回
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夕食はまたダイニングを借り、自分たちで済ませた。今度は、なかば強制的に悟が腕をふるったのだ。会話は堂々巡りを繰り返すばかりで、何ら発展的な意見は得られなかった。
雨はまだ降り続いていた。
ここまで放置しておきながら、食事中に櫻井晃子が顔を出し、二階に泊まる用意ができていることを告げた。竜也は言う。
「二階のほとんどを、ホールが占めている筈だけど。客室は一つしかなくて」
「そのお部屋は、女性のかたに使っていただきたく存じます。ソファベッドを二つ運ばせましたので、失礼ですが、藤本さまたちは、そちらでお休みになっていただけますか」
「ほかに選択肢はないみたいですし」
一階にある二つの寝室は、やはり家政婦とトビイが使っているのだろう。
浴室はダイニングのすぐ脇にある。紅葉が入浴を済ませるまで、二人は夕食を終えたまま、そこに留まった。山の中の夜は更けるにつれて静まり返り、雨だれかと思えば、紅葉が使う湯が飛び散る音が、みょうに大きく響いたりした。そわそわしている悟とは別の意味で、竜也もなんだか落ち着かなかった。
緑館の事件で、隣室から聴こえてきた彼女の悲鳴が、まだ記憶に生々しい。
「明日、山を下りるのか」
「決めてない。明日のことをくよくよ悩むな。今日の苦労は今日で充分。といったことが、たぶん聖書に書いてある」
「クリスチャンだっけ?」
「うちは浄土真宗だけど。なんか好きなフレーズだから」
紅葉がダイニングに戻り、ドライヤーを使う間に、男子二人は交代で入浴を終えた。二人とも、汗を洗い流せばそれで満足。夏場だから、髪なんか勝手に乾くだろう。男の子は、やはりずっと単純にできている。
「二階へ上がってみようか」
廊下は相変わらず薄暗い。国内の大手メーカーが電球の製造を中止したとかしないとか。天井で二つ三つ、ぽつんと灯っている橙色は、けれど、電球でなければ出せない、微妙な色合い。左側に並ぶ、二つの閉ざされた扉。中からは、これもまた相変わらず、コトリとも音がしない。
リビングを覗くと、ダウンライトばかりに落とされている。木製の椅子に座る人影に気づいて、さすがに竜也は息を呑んだ。
櫻井晃子。
エプロンを外した姿で、両手で支えた瓶の中身を、じっと見つめている。光の加減か、瓶詰めにされた蝶の片翅が、おのずから発光しているように見える。ようやく彼女はこちらに気づき、ゆっくりと首をめぐらせた。例のきびきびとした動作とは似つかない、錆びたゼンマイ仕掛けのように。声もどこか物憂げに響いた。
「こちらへ?」
「いや、もう二階に上がるところだから。ねえ、櫻井さん」
切れ長の目が、異様に遅く瞬きした。無意識に頬を掻いて、竜也は語を継いだ。
「その翅をもがれた蝶々には、何か意味があるのですか。これから起こることを暗示しているとでも?」
沈黙のあと、彼女は首を振り、席を立った。瓶をガラステーブルの上に戻し、かれらへ向き直った。
「明日のことを思い患うな、明日は明日みづから思い患わん、一日の苦労は一日にて足れり。マタイ伝の第六章でしたかしら。わたくしもそう思いますわ。今夜はごゆっくり、お休みなさいませ、藤本さま」
深々と頭を下げた。
階段を上りきると踊り場で、ホールと寝室のドアがそれぞれ直角に位置している。
「盗み聴きされてたってことかな。ずっと、おれたちの会話を」悟が囁く。
「彼女なら、ね。立場上、仕方がない面もあるんじゃないか」
ホールの扉は、劇場をおもわせる両開きである。悟と紅葉が声を上げたほど、中はかなり広い。
「ちょっとしたコンサートが開けるように、設計されているんだよ。音響と照明用のブースもあるし、客間はホールとも繋がっているから、いざというときは、楽屋代わりに使えるのさ」
平気でこういう施設を遊ばせておくのだから、金持ちという人種は罪深い。舞台と客席の段差こそないものの、スタインウェイのグランドピアノがあり、各種スポットライトが吊られ、JBLの巨大なスピーカーが積み上げられていた。
紅葉は素早く目を走らせたが、カッシングの絵は一枚もかかっていない。アトリエにするには、もってこいの場所なんだけどなあ、と、少々残念そうにつぶやいた。
「ね、ここからなら、『母屋』が見えるんじゃない」
ホールの玄関側には、大きな窓があり、その先はベランダ。反対側はほとんど分厚い壁だが、一か所だけ、一メートル四方くらいのカーテンがかかっているので、ここから母屋のほうが覗けるに違いなかった。




