瓶詰めの蝶々 第二十五回
「ちょっとこれを見てくれる?」
紅葉は目顔で絵を示していた。竜也が席を立ち、億劫そうに悟が続いた。リビングにかけられた六枚の絵のうち、まだ見ていない三枚の中の一枚である。
はやり二十号ほどの小品で、ざっくりとしたタッチで描かれた、肖像画とおぼしい。
濃紺の闇を背景に、麦わら帽子を被り、肩の膨らんだ白いブラウスを着ている。お下げ髪を垂らしているが、このボリュームを三つ編みにするのは、さぞかし骨が折れたろう。
一見、少女像のように見えるが、あらゆるラインが成熟している。ほぼ真正面から、もの思いに耽るような切れ長の目が、こちらを冷たく見据えている。
「あの家政婦じゃないか!」
驚き顔の竜也に、紅葉はうなずいてみせた。
「細部狂のカッシングが、こんな粗いタッチで描くなんて意外だけど、油彩によるデッサンと解釈すべきでしょうね。それでもちょっと画面から離れて眺めれば、繊細な襟のレエスまで見えてくるから、さすがだわ」
「今よりだいぶ髪が長いね」
竜也が言う。そもそも少女趣味な服や三つ編みは、現実の櫻井の印象に、真っ向からそぐわない。ポーズをとるためとはいえ、このような恰好をさせられては、本人もさぞ、屈辱に感じたのではあるまいか。さらに紅葉が、女性らしい指摘を加えた。
「髪質も違うようね。このままショートにしたら、それこそ勅使河原さんみたいになりそう。この頃は、軽くパーマをかけていたのかしら」
「じゃあ、残りの二枚というのは」
悟が上ずった声を出す。
「“母屋”の二人が、描かれているんでしょう。必然的に」
画廊の女主人のように、紅葉は目で促し、二人は跡に従った。これまでだって、視界には入っていた筈なのに、竜也にとって、カッシングの絵には、白昼夢を誘発する悪意が潜んでいるようで、容易に近寄り難かった。
視覚経由で注入されるドラッグのように。
予想どおり、もう一枚も女性の肖像だった。
同じような構図。濃紺の闇には新月が浮かんでいる。襟に二本ラインの入ったワンピースのセーラー服は古風で、やはり古めかしい帽子に、蒼白い、巨大な蛾と見紛うような、リボンが結ばれている。いや実際に、リボンと蛾との境界は、意識的にぼかされているとおぼしい。
長い髪を、頭の後ろで一つに縛っているのだろう。少女の服を着ているが、大人の女であることは、櫻井晃子の場合と同じ。ただ彼女と比べて、全体的に人物の線が柔らかい。黒目がちな瞳がやや見開かれ、ふっくらとした唇が、莟のように結ばれている。
「カッシングという画家は、変態なのか」
吐き捨てるように、悟がつぶやいた。竜也も口にこそしなかったが、これといい、さっきの絵といい、実際に描かれているものの裏側から迫ってくるような、強烈な背徳感を覚えずにはいられなかった。
バルテュスの描く、パンティーを剥き出しにして眠る少女の絵とは、また別種の。それでいて、非常に近い何かを。
「芸術家なんて、みんなどこか変なのよ。人間性と作品の質とは、悲劇的なまでにイコールで結べない。そういう私たちだって、芸術家の卵じゃなくて?」
紅葉の声にも戸惑いが宿っていた。竜也同様、この未知の女性の表情が、監禁されて怯えているように見えたからではあるまいか。元来は穏やかな顔つきと思われるだけに、表情の硬さはなおさら目に焼きついた。
三枚めの絵の女は、アリスの服を着ていた。
わざと前髪を上げて結ばず、肩に垂らしているところなど、童話の挿絵そのままである。やはり成人女性に違いなく、しかも三人のうちで一番色気がある。
ぱっちりと開いた、妖艶な目もと。視線は気が散るのか、右へ流れている。ぼってりと開花した花を想わせる、やや受け口気味の、半開きの唇から前歯が覗くさまも、何やらコケティッシュで、少女服とのミスマッチが、露骨なまでに冒涜的なオーラを醸している。
背景はやはり濃紺に塗り潰されているが、右肩あたりに巨大な鈴蘭のような花房が、薄く浮かんでいる。そうして顔の右下には、明らかに豚の鼻と思われるものが、ほぼ上を向いて突き出している。この鼻ばかりが、細密なタッチで描かれているから、異様な悪意すら覚える。豚の体のほとんどは、画面の外に見切れている。
つまり彼女は、赤ん坊を抱くように、豚を一頭、抱いているとおぼしい。
「『豚と胡椒』だわ。目が泳いでいる点をのぞけば、ほとんど挿絵そのままね」




