屋根裏の演奏者 第七回
◇
きっかけは、モナ・リザだった。
「モナ・リザに眉毛あったっけ?」
チャイムが鳴ったのでドアを開けると、黒づくめの女が立っていて、いきなりそう訊いたのだ。
新聞屋の一件で懲りたので、うかつにドアを開けないようにしていた。けれど、午後十一時を回っているし、さすがに、新聞も宗教も来ない時刻。悪友が酔っ払って尋ねてきたのだと考えるのが、妥当なところ。
「さあ、髭は生えてなかったようだけど。スマホで調べたら?」
「“お客様の都合”により、昨日から止まってます」
剣幕におされる恰好で、彼女を部屋へとおした。日中、家政婦が来ていたので、奇麗に片付いている。カーペットの上に座ってもらい、とにかく茶を淹れることにした。ポットの湯から、ティーカップまで、これも例の家政婦が、まるでその後の展開を読んだように、用意してくれていた。
「美味しい」
ソーサーとカップを、胸の前に維持したまま、溜め息混じりに彼女は言った。竜也はタブレットにモナ・リザの顔を拡大し、かざしてみせた。陰影が眉のように見えなくもないが、
「ないわね。髭もない」
そう言ったあと、北村紅葉は、いきなり肩を揺らした。自分のセリフに、自分で受けているのだと、ようやく気づいた。
部屋着姿と思われるが、ジャージをだらしなく穿いていたりはしない。黒いミニのキュロットから、無造作に投げ出された脚は、やはり黒い、星のプリントが入ったストッキングに覆われていた。竜也は覚えず、目を逸らした。
「マルセル・デュシャンかい」
「そう。だってこの画像が、本当にダ・ヴィンチの描いたものか、それともデュシャンの『髭を剃ったモナ・リザ』か、だれにもわからないでしょう」
有名な話だが、ダダイストのマルセル・デュシャンは、モナ・リザの複製に髭をつけて展覧会に出したあと、今度はただの複製を、さっぱりしましたとばかりに出品している。芸術全般の知識はあったほうがいいと、基本的な美術史を教えてくれたのは、元家庭教師だった。
それがこんなところで役にたつとは。
「でも、なんでモナ・リザ?」
紅葉はイタリア語の授業をとっており、その予習をしていたようだ。ただ文法を習うばかりでなく、声楽科では、発音を徹底的に仕込まれる。もちろん歌に応用するためであり、とくにオペラは圧倒的にイタリア語が多い。たとえばモーツァルトはドイツ(神聖ローマ帝国)人だが、『ドン・ジョヴァンニ』の台本は、イタリア人によってイタリア語で書かれている。
どうやらテキストに、レオナルド・ダ・ヴィンチが出てきたらしく、モナ・リザを連想するうちに、「気になって気になって仕方がなくなった」とか。いずれにせよ、彼女が変人であることは間違いない。
「ダ・ヴィンチは、同性愛者だったんだろう?」
「だからモナ・リザは、本当は男なんじゃないかという議論があって、デュシャンの悪戯がきが出てきたりしたんだけど。けっきょくあれは、ダ・ヴィンチ自身だということで、決着がついたんじゃないかしら。ほら、コンピューターで、ダ・ヴィンチの自画像のデッサンと、モナ・リザの顔を重ねると、ぴったり一致するそうじゃない」
「鏡を見ながら、あれを描いたのかな。芸術家のやることは、ちょっとわからないな」
「そう? でも私たちだって、芸術家の一人よ」
再び紅葉は、肩を揺すり始めた。いったい今度は何がツボに入ったのか、さっぱりわからない。
彼女が指で弄んでいるカップの縁に、口紅の跡はなかった。それでも、化粧をしているのかと疑われるほど、彼女の唇は、艶を含んで赤く思えた。黒い服を着ているせいで、なおさら引き立つようだし、また、名前の印象も手伝うのだろう。モノトーンの映像に、血と薔薇だけが赤い。そんな吸血鬼映画が、むかし、なかったろうか。
「このまえ、大家さんに冷やかされたのよ。ビートルズの曲を歌って」
「え?」
「ベイビーズ・イン・ブラック。あの娘は黒い服という曲があるじゃない。アイツのことが忘れられずに、喪服みたいな服を着るのかい。おかげでオイラはブルーだぜ。みたいな」
「そんな意味があるの?」
目をしばたたかせたあと、黒い服の娘は、またしても細い肩を揺らした。