瓶詰めの蝶々 第二十三回
雨を予言するように、蜩の声がしんしんと降ってきた。この昆虫の、闇が光を侵食するような声に、悟は初めて、恐怖に近い感情を覚えた。かれはなおも食い下がる。
「タクシーを呼べば済む話じゃないか」富豪の竜也には、たやすいはず。
「玄関に横付けできるとでも? 荷物もあるんだぜ。一晩様子をみたほうが無難だ」
「無難という言葉からは、最も程遠い選択のような気がするんだが。むしろずぶ濡れになったほうが……」
言いかけて、覚えず家政婦のほうを見た。相変わらず姿勢好く立ったまま、かれらのやりとりを見守っている。その口もとに、かすかな微笑が浮かぶのを、悟は慄然と凝視した。
彼女は言う。
「お泊りになって結構です。この家に関しましては藤本さまのご希望どおりにと、井澤より承っております」
「その人が?」
「カッシングが行方不明になった後、実質、母屋を管理している者でございます」
「会ってはもらえないのですか」
「申し訳ございませんが、事情がございまして。母屋の者たちは、基本的にどのお客様との面会も、お断りいたしております」
さっきは、会ってもいいような口調だったが、ついにきっぱりと撥ねつけられた。やはり最大の理由は、マスコミ対策なのだろう。藤本家のお坊ちゃんといえども、血に飢えた新聞や週刊誌に、陰で通じていないとは言いきれない。
別荘を盾に、来客を拒むやりかたも手が込んでいる。カッシングという画家の狂気が、このあたりにも垣間見えるようだ。それにしても、画家が消息を絶って一年になるという。なのに、井澤という女性は(女性に違いないのだ)なぜ、かれの奇習を固守し続けるのだろう。
何を恐れて?
◇
「どうやら雨になりそうだね」
ありふれた喫茶店。ビル・エヴァンスの、もの憂げなピアノの調べ。
外を行き交う人の三分の一が、不安げに空を見上げ、三分の一がひたすら先を急ぎ、残りの人々は端末とにらめっこしている。
「天気予報では、降らないことになっていたけど」
「ここは『東京』とは、また別ですから」
ティーカップをソーサーごと持ち上げたまま、勅使河原美架は例によって感情の籠もらない声で、そうこたえた。
八王子駅の裏側。彼女が所属する家政婦派遣所は、目と鼻の先である。私は野暮用でこの街に立ち寄った際、何気なく訪ねてみたのだ。向かい側が居酒屋で、隣がインド雑貨店。エレベーターを用いるより、階段を上ったほうが明らかに早い、雑居ビルの二階である。
もらっておきたい書類があったのだが、べつにみずから訪れなくともよい類いのもの。むろん、彼女がそこにいようなどとは、予想だにしなかった。
「クビになったんですよ」
相変わらず冗談に聞こえない冗談を言い、お茶に誘えばすんなりと応じた。
「たしか今頃は、例の大学生の所へ行っている時間だろう?」
「高尾山へ登るそうなんです。別荘があるのだとか」
高尾山。とつぶやいて、私は当てずっぽうに、それがあるとおぼしき方角へ顔を向けた。ここからなら、目と鼻の先といえた。
「ミシュラン三つ星の山だね。東京スカイツリーが見えるんだっけか」
我ながら俗物極まりない発言だが、美架は真顔で返した。
「それに関して、面白いことがあるんです。山上からツリーが見えるのは不思議ではないのですが。もうちょっと奥多摩のほう。青梅より一駅か二駅先に、蕎麦屋さんの看板が出ていました。永いこと雨ざらしで、店の名前もかろうじて読めるような、手書きの看板には、いかにも付け足しましたという風情の文字で、こう書かれていたのです」
彼女は静かにカップを置くと、上目づかいに私を見た。悪戯っぽい眼差し……と形容すべきところだが、三白眼ぎみの彼女がやると、睨まれているようにしか見えない。
「何と?」
「『東京スカイツリーが見えるお店』」
私は一瞬、思考停止状態におちいり、それから笑った。
「本当に見えるの?」
「確かめてはおりませんが。そのお店があるのは、平野部か、せいぜい小高い丘陵でしょう。関東平野の西の果てから、東の果ての塔が見えるというのは、ひとつの不思議です」
そう言って彼女は、唄うようにつぶやいた。
不思議はつねに美しい、
どのような不思議も美しい、
それどころか不思議のほかに美しいものはない。




