瓶詰めの蝶々 第二十二回
会話が途切れたとたん、窓から湿った風が吹き込み、レースのカーテンを生き物のように膨らませた。冷房は入っていないのに、肌寒さを感じたほど、風は雨の気配を孕んでいた。
「あんなに晴れていたのにな。天気予報では、降るなんて一言も言ってなかったぞ」
「所によるんだよ。とくに、こんな山の上ではね」
そう言って振り向いた竜也の目は、細目に開いたドアに釘づけにされた。
手ずから閉めたのはかれである。また、三人とも一度も部屋を出ていない。風の勢いで開いたのか。それにしても、ドアの隙間からすさまじい視線を感じるのは、気のせいなのか。かれ一人がそうでないことは、紅葉と悟の表情でわかった。間もなく、どん、と音をたててドアは閉ざされ、息を呑む悟の声に、紅葉の小さな悲鳴が重なった。
引きずるような足音が、廊下を遠ざかって行った。
三人とも、しばらくは凍りついたように、その場を動けなかった。ようやく竜也が席を立ち、ドアを開け放った。後ろから、あとの二人も覗きこんだが、薄暗い廊下に人影はなく、ただ色ガラスに染められた陽光の名残りが、散り敷かれているだけ。
リビングに戻ると、些細な、けれども奇妙な変化が発見された。出るときは、たしかに何も載っていなかったガラステーブルの上に、コルクで蓋をした、円筒形の小瓶がひとつ、置かれていた。昆虫採集に使う瓶だ、と竜也は直感した。
毒を入れて虫を殺すための。
実際に、中に入れられた一匹の蝶は死んでいるのだろう。
けれども竜也には、蒼い、金属的な光沢のある翅が、瓶の中で鱗粉をまき散らし、断末魔の痙攣を続けているように見えてしかたがなかった。
瓶の中の蝶は、左側の翅をもぎ取られていた。
「これは、ひどいな……おれたちに、出て行けという意味なのか」
覚えず家政婦の姿を探したが、かれらの他に人の姿はない。眉をひそめて、瓶を見つめたまま紅葉がつぶやいた。
「おおやけにはされていないけど、リチャード・カッシングは昆虫採集マニアだといわれるわ。それもちょっと常軌を逸した」
「というと?」
「標本箱が完成したとたん、焼き捨てることの繰り返しだったとか。一種の奇矯な性癖と呼ぶべきかしら。心理学なり精神病理学なりが、これをどう位置づけるのかわからないけど」
「BPDとか、そういうやつじゃないの? ステッキで女性を殴ったりしたんだろう」悟の声には、怒りと不快感が入り混じる。
「あるいはそうかもね」
三人ともまた瓶の中の蝶を見た。誰もいないリビングで、絵の中の「青髭」が抜け出して、ほくそ笑みながら小瓶を置く姿が、竜也の脳裏をよぎった。
「ともかく、櫻井さん、といったか、謎の家政婦を呼んでみるよ」
大理石のマントルピースの上。古風な置時計の隣に、磨き上げられた真鍮のベルが伏せられていた。竜也が木製の取っ手を持って振ると、透明な音が、りんと響く。悔しいけれど、金持ちの風格というものは存在する。悟が密かにそう考えたほど、かれが「使用人」を呼ぶ姿は、さまになっていた。
足音は聴こえなかった。のみならず、人が近づいて来る気配さえ感じなかったが、一分とたたないうちに、音もなくドアが開いた。
「お呼びでございますか」
絶妙な角度で頭を下げた。なかば閉じられているような切れ長の目は、容易に感情のありかを掴ませない。
「こんなものが置いてあったんですけど。櫻井さんが?」
視線が動いた。表情のない仮面の上に、ほんの一瞬だったが、蒼いさざ波のように動揺が広がるのを、竜也はみとめた。
「いいえ。置いた覚えはございませんが」
「じゃあ、あのトビイという人が?」
「決して。トビイは許可がなければ、リビングに入ったりいたしません」
「でも、ふだんここは、あなたたちが使っているんでしょう?」
問い詰める恰好が、また主人然としている。
「もしご不快になられたのでしたら、お詫びの言葉もございませんが。わたくしのほうでは、身に覚えのないことですので」
「これまでも……ああ、いや。それはそうと」
自分でも、まるで尋問のようだと気づいたのか、竜也は苦笑して、質問を変えた。
「ぼくたちから母屋へ出向いて、ご挨拶するわけにはゆきませんか。せめて一晩泊めていただけると、ありがたいんですけど」
「おい、何を言い出すんだ」
怯え混じりの悟を、かれは窓の外を指さしてさえぎった。日は完全に陰っており、すでに遠雷が兆し始めていた。




