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瓶詰めの蝶々 第二十一回

 食事のあと、紅葉はコーヒーを淹れ始めた。ペーパーフィルターの上から、お湯を廻し入れる後ろ姿に、竜也が声をかける。

「コーヒーメーカーがあるのに」

「おぬし、美人が淹れた珈琲が飲めぬとでも?」

 今さらながら悟が理解したのは、紅葉が決して裕福ではないということ。

 例えばさっきの邪道亜流麻婆豆腐にしても、高価な豆板醤や肉を使わない方向で編み出されたもの。また、コーヒーメーカーを購入するくらいなら、せっせと手動で淹れたほうが、味も好いし経済的だという考え方がベースにあるに違いない。富豪の竜也には、夢にも理解できない境地だろう。かれと彼女の中間に位置する悟だから、なんとなくわかるのだ。さすがにコーヒーフィルターを洗って干して再度使っていることまでは、思い至らなかったが。

 とても好い香りが、盆に載せて運ばれてきた。

「そういえば、北村さん、さっき変なことを言ってたよね」

 ぞんざいにカップを受け取りながら、竜也が言う。彼女の奇矯な発言なら、今朝から枚挙にいとまがないが、紅葉はすぐに思い至った様子。

「鏡の家?」

「そう。あれはどういう意味?」

 角砂糖を四つ溶かした自身と真反対に、彼女が一個も放り込まないまま、カップを口に運ぶのを悟は見た。

「私が読んだ『美術潮流』には、あくまで未確認情報だと断ってあったけど。家があるらしいの。家、そのものが、かれの作品だという」

「ガウディみたいに、建築を手がけたということ?」

「ニュアンスというかコンセプトというか、ガウディのそれとはだいぶ異なるみたい。そもそもカッシングに、設計のスキルはなかったと思われるわ。むしろ、メルツバウや黒い絵に近いものかしら」

「メルツバウ?」

「ドイツ語。メルツの手法による建造物、といった意味かしら。メルツはダダの向こうを張った造語で、クルト・シュヴィッタースという前衛芸術家が言いだした。まあ私みたいな門外女には、ダダとの違いがわからないんだけど。メルツバウは、かれの自宅に改変を加えることによって作り上げられていった、奇想天外なダダ的迷宮といったものかしら」

 当時ドイツは、第一次大戦に敗れたばかりで、廃墟同然だった。シュヴィッタースは様々な廃材を拾ってきては、自宅に組み込み、迷宮の領域を広げていった。無数の秘密の通路が穿たれ、いくつもの「残酷な洞窟」が電球に照らされていた。

 例えば洞窟の一つでは、手足のない少女が、様々な供物に囲まれていたという。なお、このオリジナルのメルツバウは連合軍の爆撃によって、一九四三年に消滅した。

「男の子の秘密基地遊びみたいだね。最近は、あまり見かけないけど」

 七、八歳の頃だろうか。涸れた水路の橋の下に、仲間たちと「秘密基地」を作った時の面白さが、竜也には忘れられない。学校が終わると皆そこに集まり、枝や廃材を持ち寄っては、バリケードを築き、居室を調えた。ある日突然、大人たちによって強制撤去されるまで。

 だから、メルツバウを築いた男の気持ちが、竜也には少し理解できる気がした。夢の迷路。空想の宮殿。かれが「緑館」に憧れたのも、かつての秘密基地遊びと共通する心持ちからだろう。ただし、内向性の度合いにおいて、桁外れの差を覚えるが。

「黒い絵のほうは、たしかゴヤだよね」

「そう。晩年のゴヤがマドリード郊外の通称『聾者の家』に引き籠もって描いた、十四枚に及ぶ凄絶な壁画だわ」

 魔女の夜宴、我が子を喰うサトゥルヌス、ユーディッド、決闘、砂に埋もれる犬……これらが、部屋々々を美しく装飾するために描かれたのでは、むろんない。来客を喜ばせる目的など、微塵も感じられない。むしろ、誰も見ないことを前提に、自分だけのために描いたとしか思えないのだ。

 緑館の事件のキーワードとなった「アスモデウス」もまた、このシリーズに含まれていることを、竜也は思い出した。誰かがカップを置く音が、背筋に冷たく響いた。

 人さし指を気取って振りながら、悟が言う。

「つまりこの裏の、母屋とは離れたもう一棟には、外部の人間が一度も見たことのない、カッシングの壁画があるというんだね」

 紅葉は少し首を傾けた。

「どうやら、壁画だけではないの。カッシングとしては極めて異例だけど、立体作品もあるらしいのね。また家の造りそのものが、内部の絵や立体作品……カッシングはオブジェという言葉を嫌ってたみたいだけど。それらと切り離せない、統一されたコンセプトを形成しているというわ」

「だからさっき、家そのものが、かれの作品だと」竜也が言う。

「ええ。メルツバウが珊瑚のように、細部から増殖していったのに反し、鏡の家は先に全体像ができていて、細部を徐々に組み込んでいったとおぼしいわ。アルンハイムの庭のように」

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