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瓶詰めの蝶々 第十九回

 家政婦の耳に、この奇矯な一言が、届かなかった筈はない。けれども、何も聴こえなかったかのように、彼女は言うのだ。

「ええ、少々、理由がございまして、母屋の者たちは、今すぐご挨拶に伺えません。ですが、せっかく御足労いただいたのですから、充分ご休息なさるようにと、申しておりました」

「正直なところ、ぼくたちが居れば、その、母屋の人たちにとって、迷惑なのでしょう」

「そのようなことはございません。あいにくわたくしどもは、先ほど食事を済ませてしまいましたが、もしお時間をいただけましたら、これからお作りいたします」

「いえ。まだどうするか決めてませんし。台所を使わせてもらえれば、こっちで何とかします」

「承知いたしました。あるものは何でもお使いになって結構です。また必要でしたら、いつでも鈴を鳴らしていただければ、すぐに参ります。それではどうぞ、ごゆっくりお寛ぎください」

 彼女が部屋を出た瞬間、張りつめていた空気が、ひと息に解けるのがわかった。椅子から半分ずり落ちかけて、悟が言う。

「もしおまえが藤本家の人間でなかったら、今ごろ泥棒猫みたいに、つまみ出されていたろうな」

「たぶん。さて、どうするか」

 紅葉を振り返ると、意見を求めるまでもなかった。すでに残りの三枚の絵を眺め終えたところで、ハシバミのような瞳が好奇心に輝いていた。無理もない。ひょっとすると、ごく少数のコレクターにしか作品を売らなかったという、画家の絵が大量に見られるかもしれないのだ。

 それも完全な未発表作品を!

 悟のほうは、返事の代わりに、盛大に腹を鳴らせた。

「何か作ろうか」

 ちょっと驚いて紅葉を見たのは、竜也ばかりではなかった。一時は隣に住んでいたのだから、自炊しているのは知っている。が、それでもこの常に黒づくめの娘の、エプロン姿が浮か思い描けない。

「なんだか北村さんは、呪文でも唱えながら、あやしげなスパイスを混ぜているイメージあるな」

 自身、腕に覚えがあるらしい悟が、にやにやしながらそう言った。間もなくかれは、それが真実に近かったことを思い知るだろう。

「食料は台所に運んであるんだよな。行ってみるか」

「場所、わかるのか?」

「うちの別荘だぜ。一応は」

 三人連れだってリビングを出た。紅葉を一人にさせるのも、あるいは悟が一人残るのも、なぜか竜也には不安だった。

 廊下は薄暗く、外光がステンドグラスに染められて、磨き上げられた床板の上に散りばめられていた。途中で直角に折れて、二つの部屋の前を通り過ぎた。どちらもドアがぴったり閉ざされており、家政婦か、あるいは「トビイ」が中で息を潜めている姿を、想像せずにはいられなかった。

 細長い収納スペースを挟んで、リビングの隣に廻りこむ恰好。台所というより、立派な食堂だ。七人はゆったり座れるであろう、楕円形のテーブルが、中央に据えられている。相変わらずモデルルームのように整頓され、食事を終えたばかりだという形跡は、まったくない。

「わあ、たいていの香辛料は揃っているのね」

 小さなガラス戸棚を覗き込んで、紅葉が歓声を上げた。竜也などは三分の一も名を知らない、スパイスの小瓶がずらりと並ぶさまは、毒薬売りの戸棚を想わせた。すでに臆した声で、悟が尋ねた。

「何を作るの」

「もちろん、麻婆豆腐よ」

 何が「もちろん」なのかわからない。竜也が段ボールを開けて、彼女に指示されるまま、材料をテーブルに次々と載せてゆく。そばで眺める悟の顔には、見る間に当惑の領域が広がってゆく。

「なんでタバスコを?」

「隠し味」

「大量の唐辛子は?」

「普通入れるでしょう、これくらい」

 平然と答えて、紅葉はエプロンを身につけた。曲がりなりにも、彼女が黒以外を着たところを、二人は初めて目撃したことになる。

 もっとも、竜也は「緑館」の事件の折、裸身にバスタオルを一枚だけ巻いた姿で、抱きつかれたことがあるのだが。

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