瓶詰めの蝶々 第十八回
「お詳しいのですね。カッシングについて、そこまでよくご存じとは。よほどお目が高い方と、お見受けいたしました」
音もなくドアを閉めて、家政婦は軽く取っ手にもたれた。
ぴんと背筋を伸ばした姿勢以外を、初めて目にする気がした。そのポーズや口調から、決して嘲笑や揶揄は感じられなかったが、どこかこの女の「野生」を垣間見る思いが、竜也を慄然とさせた。
切れ長の目で三人を見わたし、彼女は言う。
「お預かりしたお荷物は、こちらへ運ばせていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、いえ。自分たちで運びます。重いですから」さっそく竜也が、好青年ぶりを発揮する。
「構いません。男手がありますから。中に、食材と思われる荷物がございますね。それだけは、厨房のほうへ入れさせてありますが。よろしかったでしょうか」
戸惑いながらも竜也がうなずくと、家政婦は奇術師めいた手つきで古風な呼び鈴を取り出した。りん、澄んだ音が響き、背後のドアに、三人の不安げな視線が集まる。
さっきの「杖の音」が、まだかれらの記憶に生々しかった。
がらがらと、何かを引きずる音が廊下から聞こえた。音はしだいにせまり、間もなくドアの真後ろでぴたりと止んだ。内側から、家政婦がドアを開けた。
段ボールの積まれた台車を押して、その男が入ってきたとたん、最も近くにいた悟が「ひっ」と息を呑み、ソファから腰を浮かせた。
人狼。
竜也の耳もとで、たしかに紅葉がそうつぶやいた。
背が低いうえ、かなりの猫背。ゆえに子供くらいの身長に見えるが、肩の盛り上がりは、尋常でない。硬い、ぼさぼさの髪に覆われた中から、鋭い目つきが光を放つようである。色が黒く、肌は羊皮紙のようで、そのうえ毛深い。老人と言われても信じたろう、けれど、おどおどと揺れ動く瞳は、小動物のように幼く感じられた。
「トビイと申します。事情がございましてご挨拶できませんことを、代わってお詫び申し上げます」
かれは瞬く間に荷物を台車から下ろすと、鋭い、けれど従順な目つきで櫻井晃子を見上げた。異様に太くて長い腕を、床すれすれまで垂らしたさまは、やはり四足獣を連想させずにはいられなかった。
台車を押してかれが出て行くのを見届けてから、彼女はドアを閉めた。
「お食事は、いかがなさいますか」
「あの」
こちらへ向けられた家政婦の視線は、常に竜也を落ち着かなくさせた。意識しての「半眼」ではないかと疑われるほど。宮本武蔵もわざと半眼であったとか、無関係な知識がよぎったのは、彼女の目つきに、そこはかとなく漂う殺気のせいか。
「けっきょくおれ……いえ、ぼくたちは、早めに出て行ったほうがよいのでしょうか。そちらもご迷惑でしょうし。そうはっきり言ってもらえれば、すぐに荷物を引き上げる手配をします」
彼女が一向に、この家の主人に取り次いでくれないのが、まず気に入らなかった。もともとの主人であるカッシングの行方が知れないとしても、大学講師と紅葉の話を併せれば、画家の内縁の妻なのか愛人なのか、とにかくそういう人物が住んでいると考えられる。
まさか「小間使いと下男」だけが、棲まっているわけではあるまい。
「失礼いたしました」
家政婦は機械的に頭を下げた。
「母屋のほうへは、もちろん藤本さまのことは、話させていただいております」
「母屋?」竜也は目をまるくした。
「ええ。ご説明いたしますと、こちらの家の持ち主は、依然、藤本さまのままです。それを借りうける恰好で、わたくしども、使用人が棲まわせていただいております。四年ほど前から、この家の奥に……木立にさえぎられて、表からではちょっとわかりませんが、カッシングの住まいを兼ねたアトリエが建っております。そちらが母屋と呼んでいる建物でございます」
「ちょっと待ってください。じゃあ、この家の裏側に、もう一軒家があると?」
「別棟がございますので、二軒ということになりましょうか」
「母屋には誰がいるんですか?」悟が尋ねた。
「カッシングゆかりの者が二名、画家に代わりまして、アトリエを管理しております。ご存じかもしれませんが、画家は都合により、行方が知れませんので」
「もう一つの建物というのは……」
竜也の質問は、たちまち興奮で乾ききった、紅葉の声に掻き消された。
「鏡……!」
「えっ」
驚く二名の男子と同時に、家政婦が鋭い視線を向けたのがわかった。
「鏡の家だわ」




